4章 第9話

 玲華の借りている部屋からうちまで、徒歩だと少し時間がかかる。だらだらと歩いていると、ポケットの中にあるスマートフォンが震えた。

 見てみると、液晶には凛からの着信が表示されていた。LIMEアプリの中の通話機能だ。画面には凛のアイコンが表示され、着信中、と表示されている。


「⋯⋯はい」


 何も言わずに逃げてしまったので、気まずい。でも、出ないわけにもいかないなと思って、とりあえず出る。心配かけたんだろうな。


『あ、翔くん? ⋯⋯その、急にいなくなってびっくりしたから⋯⋯どこか具合悪いの?』


 案の定、心配そうな凛の声が聞こえてきた。


「ああ、うん。ちょっと今日は疲れてたから先に上がらせてもらった。何も言わずに帰ってごめんな」


 また強がっている。でも、この強がりこそ今の俺に託された唯一の役割なのだとも思うのだ。

 それに、こうして凛の声を聞けて安心している自分がいる。まだ、俺は彼女の中で存在しているのだと、気にかけてもらえる存在なのだと、自分の存在が肯定されている気がした。


『ほんとにそれだけ⋯⋯?』

「え? どういう事?」


 訊き返すと、『ううん、何でもない』と彼女は応えた。もしかすると、薄々我慢している事を察せられているのだろうか。だとしたら、まだまだ俺の演技力も甘い。せめてこの撮影が終わるまでは、気をつけないと。


『毎日大変だよね⋯⋯学校終わってすぐに来て、夜中まで居て、次の日また学校行って⋯⋯私、自分の事ばっかりで全然翔くんのこと見れてなかった』

「俺の事はいいよ。凛にしかできない事を頑張ってるんだから、そっちに集中しなきゃだろ」

『うん⋯⋯』


 凛は少し寂しそうに頷いていた。

 痩せ我慢もここまでくれば相当なものだな、と我ながら呆れてしまう。俺の事はいい、なんて本当は全然思ってないくせに。自分の事をもっと見てほしいくせに、何を強がってるんだろう。でも、俺にできる事なんてそれだけだから。それしかないのだから、他にどうやりようがあるっていうのだろうか。


「毎日いるっていっても、俺は演技もしてないしスタッフとしての仕事もしてないし、ただ居るだけだから、大したことないよ」

『そんな事⋯⋯』

「そんな事あるよ。実際何の役にも立ってない」


 自嘲の笑みを浮かべて言う。

 ただ、それは間違いない。あそこにいても俺の役割なんて何もないのだから。俺がいなくても回る世界なのだから、俺はただ存在するだけなのだ。人混みの中に埋もれていてもだれも気付かない。エキストラ以下の存在。

 卑屈だと言われるかもしれない。でも、そうとしか言えないのだから、仕方ない。


『そんな事ない!』


 電話越しの凛の声が荒だったので、少し驚く。


『私、翔くんがいる事ですっごく救われてる。翔くんがいるから頑張らなきゃって⋯⋯ほんとはちょっと心折れそうな時とかあるけど、翔くんが現場に来てくれたら、それだけで立ち直れてる。翔くんがいてくれる事って⋯⋯それだけで私にとっては特別な事だからさ。だから、そんな風に言わないで』

「凛⋯⋯」


 凛の言葉に、思わず目頭が熱くなった。

 さっきまで自分の存在価値がないと腐っていたけれど、ちゃんと、凛の中だけではあったのだ。自信がなくなっていたけれど、この言葉にどれほど救われただろうか。

 俺の瘦せ我慢は、無駄じゃなかった。彼女は俺の存在のお陰で頑張れていた。そう思うだけで、今まで荒んでいた心に、一気に潤いが戻るのを感じた。もっと、もっと頑張らないと。凛が頑張れるように、凛が役者に専念できるように。

 ただ強がる事しかできないと思っていても。そこにしか俺の価値はないのだから。


「明日は学校来る?」


 これ以上何か言われると泣いてしまいそうだったので、話題を無理矢理変えた。ここで泣いたらさすがにかっこ悪すぎる。


『あ、明日も⋯⋯多分休む、かな。さっき撮るシーンまた増えちゃって』


 凛の演技が監督の好みなのかはわからないが、台本にない合間のシーンを犬飼監督が思いつきで入れる事が多い。凛の演技を見て、発想が拡がっているようだ。

 役者側からするといきなり追加されるのは堪ったものではないと思うが、監督のインスピレーションで『ここにこれがあった方がより良い』という着想からの提案なので、大体受け入れられる。というか、大体が『確かにその方が良い』と思わされる事が多いので、受け入れざるを得ないのだという。

 あと、これは意外だったのだが、犬飼監督はアドリブなどにも割と寛容だ。玲華なんかは特にアドリブで台本にない台詞や仕草を入れるが、大体が許容されている。というか、むしろそこから発想を拡げて新しいシーンを追加する事も多い。大物監督だから堅物かと思いきや、案外頭が柔らかい人なのだ。自分の理想を追うよりも、この材料をどう使えばよりよくなるか、という料理人気質な人とも思える。


「わかった。頑張ってノート取っておくよ」

『ごめん』

「普段聴き流してるだけの授業をちょっとノートに書くだけだから。大して変わらないよ」

『⋯⋯うん』


 そう、学校での俺は何も特別さなんてない。普通の田舎の高校生。それが俺に与えられた役割だった。いつもより注意深く授業を聞いて、ノートを取る。それだけだ。

 

『⋯⋯あ、はい。わかりました』


 凛が電話の向こうで誰かと話しているような声が漏れていた。うっすら監督の声が入ったから、きっと撮影の事だろう。


『ごめん。監督に呼ばれたから、もう切るね』

「うん、こっちこそなんか心配かけて悪かったよ。また明日には行くから」

『ううん、こっちこそ⋯⋯なんか、ごめんね。今日はゆっくり休んで。おやすみ』

「ああ、凛もあまり無理しないように。おやすみ」


 そう言って、電話を切ってから、大きな溜め息を吐く。


「だっさいな、俺⋯⋯」


 凛を支えるつもりで撮影に参加しているのに、一人で傷付いて、凛や玲華に救われている。

 せめて、撮影が終わるまでの間。それまでの間は痩せ我慢を続けなければならない。いや、痩せ我慢だけじゃない。きっと、俺にできる事は他にもあるはずだ。

 ただ何もせず撮影を眺めているのも、正直もうつらい。なら、俺は俺にできる事をやろう。探そう。どんなに小さくてもいい。あそこで自分の役割を見つけるんだ。

 凛の為にも、俺の為にも、できる事を何か。

 改めて、自分に誓った。

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