3章 第10話 凛と翔の大切なもの②

 それから、凛は打ち合わせであったことを話してくれた。ほとんどの話は、俺には関係のないことだった。

 どの役者さんが優しかったか、とか、スタッフさんの誰々がどうだった、だとか⋯⋯俺もスタッフとして参加するわけだから、きっと知っておいたほうが良いのだと思うけど、どうにも興味を抱けなかった。

 彼女の話に、相槌を打っているが、やはりどこか疎外感を感じてしまうのだ。

 凛はそれに気づいたのかどうかわからないが、するっと俺の腕に自分の腕を絡ませてきた。

 彼女がそうして俺のことをまだ気にかけてくれていると思うだけで、少し安心する。

 そのまま黙ったまま、2人で誰もいない夜道を歩いた。

 ただ風の音と、わずかな外灯しかない、静かな世界。

 これが当たり前のはずなのに、俺たちの周りはあまりにも騒がしくて、どうにも落ち着かない。


「ねえ。今日ってもう少し時間大丈夫だったりする?」


 ちょうど音慶寺の階段前を通りがかった時に彼女が立ち止まった。


「どうしたの?」

「うん⋯⋯もうちょっと翔くんと話したい、かなって」


 彼女はちらっと階段を見上げた。

 あそこの行きたい、ということだろう。俺たちが初めて会ったあの場所に。


「いいよ」

「やった」


 彼女は嬉しそうに言い、するりと腕をすり抜けると、階段をとことこ登っていく。俺もそれについて行った。

 時間はもう22時を回っているが、彼女のほう大丈夫なのだろうか?

 それこそ、台本覚えだったりとか。彼女に訊いてみたところ、「明日から詰め込むから大丈夫」との事だった。

 高台に出ると、昨日よりも月明かりがあり、明るかった。

 いつもより月が近く見えるのは、気のせいだろうか?

 とても綺麗だが、町はいつもと変わりなく、そこにあった。当たり前ではたるのだが、こんなに大変動があった1日とは思えないくらい、町はいつも通りだったのだ。なんだかそれが少し信じられない。


「あ、今日は月が綺麗だねー。満月かな?」


 凛はカバンを置いて、崖の先っぽに腰掛けた。

 彼女と初めて会った時みたいに、横に並んで座る。凛はまんまるの月に向かって、大きく伸びをした。


「はぁ、疲れたぁっ」


 そのままばたんと後ろに大の字に倒れた。


「⋯⋯星、綺麗だなぁ」


 彼女はそのまま空を見て、小さく呟いた。


「翔くんも見る? ちょっと冷たいけど」

「うん」


 俺も、凛の横に大の字になって寝転がった。

 背中の土が冷たくて気持ちいい。

 なんだか今日の緊張感と疲れがどっと湧き出て、体が重くなった。

 俺も何もしてなかった割に疲れてたんだなと実感する。

 ただ、疲れていたから、余計にこの解放感に心が洗われている気がした。

 今日は満月なのか、月が大きく見えて、空が明るい。

 それなのに空が澄んでいるからか、星もよく見えていて、とても綺麗だった。

 この星空の綺麗さも、田舎の醍醐味なのかもしれない。東京では、こんな風に空は見えない。

 すると、凛が手を握ってきた。


「信じられないよね⋯⋯少し前まで全部逃げてたのに。今また自分をそうした元凶のところに自分から突っ込んでるなんて」


 それは、凛が逃げるのをやめたから。

 俺はまだ逃げ続けているのに、凛はもう立ち向かう強さと覚悟を持てたから。


「バカだと思う? また傷つくのにって」

「そんなことないだろ。すごいと思うよ」


 俺にはできないことだらけだ。凛はもう、強い。それこそ、もう玲華に負けないくらい凛は強いんだと思う。

 俺だけが弱いままなんだ。


「この作品をきっかけにまたRINは復活して大ブレイク。いいシナリオじゃないか?」

「え? 何言ってるの? 復活しないよ?」


 凛が予想外の言葉を言った。


「もしかして、私がもう1回芸能界に戻ると思ってた?」

「違うのか?」

「違うよ。今回の映画だけ。今回の撮影が終わったら、私はただの高校生に戻るから」


 意外な言葉だった。


「今回はフリーの女優。”体調不良で参加できなくなった”サヤカちゃんの代役なのであります」


 少しおちゃらけた口調で言った。

 なるほど、今回はそういう設定で凛を代役として選んだことにするのか。

 サヤカちゃんという子も、それなりに力のあるプロダクションの子みたいだし、そういう大義名分が必要となるのだろう。

 もちろん凛は未成年だから、その場で本人の承諾だけでは出演はできない。その場でお母さんに電話して、許可をもらったそうだ。無所属の扱いなので、出演費もそのまま凛に振り込まれる。

 そのあたりの事務的な手続きもさっき済ませたらしい。それで時間が長引いていたのだろう。


「てっきり芸能界に戻りたいんだと思ってた」

「まさか。あんな辞め方をしておいて、たった数か月で戻るなんて、さすがに許されないよ」


 それに、と彼女は付け加えた。


「私はさ、この鳴那町のみんなとの生活も大切にしたいわけなのさ。翔くんや愛梨、純哉くんがいるこの町の生活は、一番私を救ってくれたから。高校卒業したときのことまではまだ考えられてないけどさ、それでも、今はみんなとの生活⋯ううん、翔くんがいるこの町での生活を大切にしたい」

「⋯⋯⋯⋯」


 正直なところ、俺はこの凛の言葉で救われたように感じていた。

 彼女はがすぐに遠くにいくわけではないということがわかったから。

 さっきまでそれが不安で不安で仕方なかったのだ。


「もちろん、この先もしかしたら芸能活動をやりたいと思うかもしれないけど、その時はその時で考えればいいかなって」


 ぎゅっと彼女は俺の手を強く握って。


「翔くんの言葉を借りるなら、”今の私にとってはここでの生活のほうが価値が高い”ってこと」


 それは、ここで出会った日に俺が彼女に言った言葉だった。彼女は俺のその言葉によって、自分の進退を決めた。

 その言葉がこうして自分のために使われる日がくるなんて思っていなくて、胸にぐっとくる。

 星空が少し滲んでいる気がするが、きっと気のせいだ。


「じゃあ、なんで今回の撮影に参加したの?」


 気になったので訊いてみた。その毎日が大切なのであれば、彼女にとって映画は不要なはずだと思えたからだ。


「犬飼監督の映画はやっぱり私の目標の1つだったからっていうのもあるけど⋯⋯一番の理由は、玲華に負けたくなかったから、かな。負けたくないっていうより、玲華から逃げたくなかった」


 それが一番大きな理由だと思う、と彼女は付け足して、何かを決意するように、続けた。


「このまま玲華に怯え続けて生きて行くなんて⋯⋯もう嫌だから」


 風が吹き抜けて、木の葉が揺れた。

 凛は俺の手を握ったまま身を起こして、俺に覆いかぶさった。

 そのまま俺を覗き込んでくる。

 凛の両手は俺の顔を挟むように突い立てられていて、真正面に凛の顔が見えた。

 月が明るいせいか、彼女の表情がよく見えた。

 じっと、瞳の奥まで彼女に見透かされそうで、少し怖い。

 ただ、彼女の視線から目を背けることは、彼女に対して後ろめたさを感じていることを示す気がした。

 彼女の瞳をじっと見返す。

 月明かりで見える彼女の表情は⋯少しどこか迷っているようで、怯えているようだった。

 そのまま、無言で俺達は見つめ合っていた。

 それから彼女が意を決したように、小さな声で訊いてきた。


「ねえ⋯⋯」

「うん?」

「ほんとに⋯⋯昨日、玲華と何もしてない⋯⋯?」


 震えている瞳。

 気になっていて仕方なかったけども、それでも聞いてはいけないのではないか、それはパンドラの箱なのではないか⋯⋯そんな恐怖を感じている表情。

 やっぱり、気にしてないなんてことはないよな。

 逆の立場なら、俺だって気になる。気になって気が狂いそうになっているだろう。いや、もしかすると⋯⋯凛もそうだったのかもしれない。


「何もしてないよ。課題を手伝っただけ」


 玲華の言葉を信じて。

 凛を傷つけたくなくて、そう答えた。


「ほんとに?」

「ああ」

「信じていい?」

「もちろん」

「じゃあ⋯⋯信じる」


 彼女は安堵したように、少し微笑んだ。


「翔くん」

「うん?」

「好き⋯⋯」


 そう囁いて、彼女は俺の唇と自分のそれを重ねた。

 1回で止まらず、2回、3回と⋯何度も何度も、何度も重ねた。

 こんなに凛が積極的になったことは過去になかった。

 まるで彼女がこれまで感じていた不安を払拭するかのように、何度も同じことを繰り返す。

 彼女の垂れてきた髪がくすぐったい。

 それでも、凛はお構い無しにその口づけを続けた。俺の肩を掴んで、より強く自分に引きつけてくる。

 長く口付けを繰り返しているうちに、どちらともなく、舌が絡み合った。

 脳がとろけそうな幸福感と安心感、そして渇望感に襲われた。

 風の音が止んで、唾液の交わる音と、彼女の口から漏れる色っぽい嗚咽だけが聞こえた。

 侵入してきた彼女の舌に吸いついて⋯⋯俺の口の中に取り残されたその舌を、蹂躙し尽くす。彼女は苦しそうに声を漏らしながらも、必死にそれに応えてくれた。

 彼女は自らの舌が解放されると、今度は同じことをやり返してきた。でも、彼女の舌はとても繊細で優しくて⋯⋯ただただ彼女の口の中で優しく舌同士が絡み合っているだけだった。

 それが愛しくて、渇望感を我慢できなくて、彼女を抱き寄せ、もっと彼女の口の中を侵食していく。何も考えず、本能で相手を求め続けた。

 続けている最中に、脳の中で何かが弾けたように、ふわふわとした光が生じて、同時に幸福感に満たされた。心にできてしまっていた隙間を、全て凛が埋めてくれているような気さえした。暖かくて、優しかった。感じていた恐怖や不安が、どんどん消えていくように感じた。

 それでも、何度も何度も、繰り返した。どちらもやめようとしない。きっと俺達は、この瞬間が永遠に続くことを願っていたのだと思う。

 それだけ、幸せだったのだ。心の隙間を埋めてもらえる事の幸せを、この時初めて知った。

 凛が教えてくれたのだ。

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