2章 第8話 秋の小川で
翌日の授業中、凛が授業中にこっそりメモ帳のような小さなメッセージ用紙を渡してきた。
『昨日はごめんね! 今日は一緒に帰ろ?』
すぐにOKと書いて凛に返すと、にっこりと彼女は嬉しそうに笑って見せた。
学校で彼女と話す時間は正直言うと少ない。愛梨なんかはそこそこ話しているようだが、基本的に他の女の子に捕まってしまっている。
凛と話したいが為にそこの中に入っていくほど野暮ではないし、基本的にやり取りはLIMEや電話がメイン。もちろん、電話は電話でドキドキするし、凛と話してるだけでも俺は楽しかった。電話を切る前に言ってくれる「好き」という短い言葉が幸福感を与えてくれた。
ただ、やっぱり彼女に触れられないのは少しばかりつらいものがあった。
放課後になると、凛はせっせと帰り支度をして、友達に捕まらないように「じゃあね!」と挨拶をして、すぐさま教室を出た。
そのすぐ後に『校門で待ってる』と彼女からメッセージが届いたので、俺もすぐに昇降口に向かった。やっと二人で話せると思うと、それだけで歩みが速くなる。
校門までいくと、凛が笑顔で待ってくれていた。
「久しぶりー」
凛が嬉しそうに言う。
確かに、二人っきりで対面して話すのは、一週間ぶりな気がした。
「一八年ぶりくらいだっけ」
「長いねえ」
そんなどうでもいい話をすると、どちらともなく家路へと歩き出す。
道中、凛は最近あった事を奏でるように話した。
クラスの女の子が恋をしていて、告白しようか迷っている事。はたまた、好きな先輩にそうすれば振り向いてもらえるか、或いは彼氏と上手くいっていない子がいる事。
凛はたくさんの人から頼られているようだった。
「でもさー、まさか泣かれると思わなかったよね。さすがに私も焦っちゃった」
相談に乗っているうちに、また相談者が泣き出してしまったのだという。それで昨日はアイビスに来れなくなったのだ。
泣いているクラスメイトを放ったらかして彼氏に会うという選択肢を彼女は取れなかったようだ。勿論、そういった事情であれば、友達を優先して欲しいと思う。
「そういえば前もそんな事なかったっけ?」
少し前にそんな光景を見た記憶がある。
俺が訊くと、凛はニヤニヤして、言った。
「あー、やっぱり起きてたんだ?」
しまった。寝てて聴いてないって設定だった。
彼女が俺の席の横で悩み相談を初めて、それで片思いしてた子が泣き崩れていた時だ。ほんの一ヶ月前程度なのに、もう随分昔の事のように思えた。
「どこまで聞いてたの?」
「もうあんま覚えてないけど、凛が彼氏作ったことないって話をしてたのは覚えてる」
彼女はしまった、という顔をして赤面した。
「そ、そんな話もしてたっけ……」
「してたよ」
それから数時間後、俺と付き合う事になるとは思ってもいなかっただろう。俺だって、彼女からキスされるとは、夢にも思っていなかったし。
「高校入ってから恋愛なんてしてる余裕なかったからさ。仕事と勉強でてんてこ舞い。学校行って、撮影行って、の繰り返し。車の中から見るほかの高校生達が羨ましくってさ……」
凛は少し遠い目をして、思い返すようにいった。
「他の子からしたら、凛が羨ましかったと思うけど」
「かもね」
彼女は少し困ったように笑った。
そんな風にどうでもいい話をして、田舎道を二人で歩く。いつもは退屈だったこの通学路だが、凛が隣にいるだけで輝いて見えるから不思議だ。
空も暗くなってきた頃、田畑の中にある小川にかけられた小さな橋を渡る最中に、凛が不意に立ち止まった。
「……どうした?」
「猫の鳴き声、聞こえない?」
彼女は目を閉じて、耳を澄ませていた。
俺も真似て耳を澄ませてみると、確かに聞こえた。
微かにみゃーみゃーという鳴き声が聞こえる。
「うん、確かに」
小川を橋の上から覗き込んでいると、浅瀬ではあるものの、中洲に取り残された猫が一匹。困り果てたようにみゃーみゃー鳴いていた。
「あ、いたいた! 戻れなくなっちゃったのかな?」
「ぽいな」
もしかすると橋から中州に飛び降りたものの、水が怖くて戻れなくなったのかもしれない。猫って水嫌いだって言うし。
「助けなきゃ!」
凛はいうなり、川辺のほうへ降りる。
川辺には少し砂浜があって、凛はそこに鞄を置いて徐にニーソックスを脱ぎ始めた。ニーソックスから、すらっと長くて綺麗な素足が露になっていく。細いのに柔らかそうで……太陽に照らされた雪原のように白い。
(さすがモデル。良いものを見せてもらった)
と思う反面、そういえば、玲華も……と、元彼女の素足を思い出しそうになって、慌てて頭を振る。
やめろ、こんな幸せな時にあいつの事は思い出すな。
「って、川入るのか? もうさすがに冷たいぞ」
長野県は10月に入ればそれなりに寒い。しかも日も沈んできている。風邪を引くんじゃないか?
「だってさ、そうしないとあの子家に帰れなくない? そんなの可哀想だよ」
ニーソックスを綺麗に畳んで靴の上に置く。
猫はよく見ると首輪をしており、飼い猫である事が判った。飼い主も探しているかもしれない。
凛は片足からゆっくり川に足を踏み入れる。
「ひゃっ! 冷た〜い!」
「だから言ってるだろ……」
俺は呆れつつも、そんな彼女を見守っていた。
猫もみゃーみゃー言いながら、愛らしい顔を彼女に向けて懇願しているようだった。
「ほーら、もう少し待っててねー。おうちに帰してあげるからね」
凛が滑らないようにゆっくり小川を渡っていき、猫に届く距離まで近づいた。そして、怖がらせないようにそっと両手で抱えようと手を伸ばしたその時──
猫は高くジャンプし、凛の背中にトンと乗った。
「え!? ちょ、ちょっと待っ……!」
更にそこを足場にしてジャンプ!
まるで忍者のような見事な弧を描くジャンプで、俺がいる側の砂場に着地。思わず感動してしまった。
が、猫に目をやった直後、小さな悲鳴と共にばしゃん! という音と水しぶきがあがった。猫を抱えようと前傾姿勢になっていたところ、背中に乗られてバランスを崩した凛が見事にこけていたのだ 。
「もー、つめたーい! 最悪〜!」
泣きそうな顔をしていた。
正面から川に突っ込んだようで、ブラウスとスカートがびしゃびしゃだ。
猫はというと、そんな凛を一瞥して、何も無かったかのようにすたこらと家路についたようだった。
なんてふてぶてしい猫だ。あの困った鳴き声も演技だったというのだろうか? 人間の女みたいに賢しく恐ろしい。
「くぅ……騙されたぁ!」
悔しそうに凛が呻いた。
「ほら、風邪引くから早く立てよ」
俺も鞄を置いて、水際まで行って彼女に向かって手を伸ばす。凛はむすっとしたまま俺の手を掴んだかと思うと、にやりと笑った。
「ほら、翔くんも……」
「ん?」
「一緒に濡れよ?」
「え? ちょ──」
そのまま俺の手をぐいっと引っ張る。
もともと体勢があまりよくなかった所為もあり、俺も見事に小川にダイブ。じわっと冷たい水が服の前面部にしみこんでいくのが感じる。
「てんめー! やりやがったな!」
「あははははははは♪ おかしー」
面白そうに爆笑する凛。
「ふざけやがってー! 何で巻き込むんだよ!」
「だってさ、私だけびしょ濡れなんて恥ずかしいじゃない?」
「知るかー!」
自棄になって、小川の水を凛に手で掬ってばしゃばしゃかける。
「きゃっ……やったなー? お返し!」
凛もばしゃばしゃと反撃をしてくる。
十月に入って尚、夕暮れに川で水をかけあっている高校生……恥ずかし過ぎる。
結局、日が暮れるまでそうして遊んで(?)いた。
◇◇◇
「……寒い」
落ち着いた頃、上着もろとも水につかった俺は寒くて死にそうだった。
スマホを鞄の中に入れていたのが唯一の救いだ。
「もう、翔くんのせいで下着までぐっしょりになっちゃったよ。べたべた貼り付いて気持ちわるーい」
凛が歩きながらぼやく。
ちょっとその下着までぐっしょりというのでドキっとしてしまう。
「あ、今翔くんエッチな事考えたでしょ?」
悪戯に顔を覗き込んでくる。
「ば、ばかじゃねーの」
今が夜なのが悔やまれる。昼間ならブラウスも透けて見えるのに、と思ってたことは内緒だ。
「あ、今『昼間なら良かったのに』って思った!」
だからお前は超能力者かよ。いちいちこっちの思考を読まないで欲しい。
「……見せてあげよっか?」
「え?」
「うーそっ」
笑いながら、凛が濡れた腕を絡ませてくる。
お互いに濡れているので、正直言うと気持ち悪い。でも、濡れてるからか体温が伝わりやすくていつもより凛を近くに感じる……。
「次は夏にやろうよ! 純哉君とかみんなで」
「やらねーよ!」
「えー。絶対楽しいのに」
凛は楽しそうにころころ笑う。
確かに、童心に返って水遊びをしていた凛は、楽しそうだった。
「あ、ねえねえ、川遊びもいいけど、私ボートも乗ってみたい! この近くにあるかな?」
「ボートかぁ……緑中央公園にいけばあるんじゃないかな」
緑中央公園とは、隣町にある大き目の自然公園だ。確かボートもあったように思う。
「じゃあ、今度いこ?」
「やだ」
即答した。
「えー、なんで?」
「絶対今日の調子で池に俺の事落とすだろ……」
「さすがにそれはしないってー」
悪戯そうに笑っているところが怖い。
「ちょっと揺らすけど」
「やめろ」
そんなやり取りを続けて凛と楽しく話しながらも、頭の片隅では別のことを考えていた。
(ボート、か……)
デートでボートに乗るのは、実は初めてじゃない。
前に凛と行った吉祥寺の井の頭公園の池にあるボートで遊んだ記憶がある。
思い出さなくてもいいのに、勝手に記憶というのは溢れてくる。
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