2章 第9話 追憶と自己嫌悪
「ほーら、あほショー! もっと早く漕げ〜!」
玲華は俺と乗る初めてのボート(ローボートという長細いボート)で、いつもより幾分はしゃいでいた。
確か、高校受験が終わった後の春休みだった。志望校に落ちて引きこもりがちな俺を彼女は無理やり色んな場所へと連れ出して、振り回すのだった。
正直ちょっと鬱陶しかった気持ちはあった。
でも、それが俺の為を想っての事というのも解っていたし、鬱陶しいながらも楽しくて、気晴らしにはなっていた。
彼女に嫌われたのではないか、落胆されたのではないかという気持ちを払拭できていた。
「おっそーい! 抜かれちゃったじゃん! 早く追い抜け〜」
「そんな事言ったって。俺、ボートなんて初めてだし。別に競争してるわけじゃないんだから」
慣れないオールを見よう見まねで漕ぎつつ、嘆息する。
「ちゃーう! 私達は今、見えないこの井の頭公園池の中でバトルロイヤルをしてるの! 抜かれたら殺られる……というわけで、ゴー!」
「設定が意味わかんねーよ! そもそもゴール無いだろ!」
「オールをもっと回転させて! 時速50キロ目指せ!」
「俺どんな腕力してんだよ」
彼女はこうして無茶をよく言った。
出会った当初は無愛想な印象しかないのだが、付き合ってみると意外にテンションが高くなる事が多いというのも判明した。
「あー、もう。遅いなぁ。ほら、代わって? 私がお手本を見せちゃる♪」
いきなりボートを立つ。ぐらりと細長いローボートが揺れる。
「バカ、危ないって! 転覆するだろ!」
「それはそれで面白いじゃん?」
ふふん、と得意げに言う。
玲華は退屈を嫌っていて、面白いことを探す癖があった。
面白ければ多少の痛手はOKという、ちょっと狂ったところもあった。
「俺は面白くねー!」
彼女はそんな俺の反応を見て面白そうに笑ったまま、ボートを揺らして漕ぎ手である俺のほうへ来ようとする。
当然、ぐらりとボートが揺れる。
「ひゃっ」
玲華はバランスを崩し、俺の胸元に倒れ掛かってくる。
慌ててオールを離して、彼女が池に落ちないよう抱えた。
「だから、大人しくしてろって……」
俺はぼやきながら安堵の息を吐くと、彼女は先ほどまでとは打って変わってしずかになり、目の前でじっと俺の顔をみていた。
そして、そのまま俺の首に腕を回して……目を閉じて唇を押し当ててきた。
真昼間の井の頭公園で。周囲に見知らぬ老若男女のカップルや家族連れがいる中で。
あまりの突然の攻撃に俺は何も反応もできず……玲華の柔らかい唇の感触と、柑橘系の香りに包まれて、意識を持っていかれる。
周囲からの笑い声や、冷やかす声が聞こえたけれど、どうでもよかった。この甘い時間に身を委ねていたくて、俺も目を閉じた。
彼女はこうした不意打ちが得意だった。
いつもいつも不意打ちをして、俺の反応を見て楽しんでいるのだ。
俺から告白したのに、いつも主導権は彼女に握られていた。
「……ね? 面白かったでしょ?」
耳元で呟かれた、彼女の声は甘美で……色っぽかった。
◇◇◇
「──翔くん? 聞いてる?」
はっとして、凛を見る。
彼女は腕を絡ませたまま、不思議そうにこちらを見ていた。
そして自己嫌悪に陥る。
凛といたのに、玲華との事を思い出してるなんて……どうかしてる。
「やっぱり、風邪引いちゃった……?」
凛が心配そうに言う。
「そんな事ないよ。ちょっと、ぼーっとしてただけ」
寒くないといえば嘘になるけれど。
「そっか」
凛は困ったように笑った。
「それで、なんだっけ?」
「あ、うん。文化祭もうすぐだねって」
「あー。そうだな……」
なんだか毎日が急ぎ足で過ぎ去っていく。
修学旅行が終われば文化祭。高校生活の一大イベントでもある。
その文化祭が数週間後に控えていた。
「去年の文化祭ってどんなのだった?」
凛が興味深そうに訊いてくる。
「フツーだよ。出店が出て、出し物があって、それ見て回って……特に何も変わった事もなければ面白みもない、田舎の高校のフツーの文化祭」
凛がそれを聞いてくすっと笑った。
「いいね、そういうの。憧れちゃうな」
「凛だって去年したんじゃないの?」
「ううん。私はその日、撮影が入ってたから。レッスンもあったしね。だから、高校の文化祭って経験ないんだよね」
体育祭もないけどね、と凛は少し寂しげに答えた。
──売れっ子モデル。周囲の女子高生からすれば、それはもう、羨望の的だろう。
華やかな世界の中で誰からもちやほやされて、生きていてさぞ楽しいに違いない。そう思われても仕方の無い職ではあるのだが、何の苦労もなくその地位を手に出来るほど甘くはなかったのだろう。
学校の行事も、友達と遊ぶ時間や恋愛の時間、俺達が何気なく過ごしている時間を彼女は犠牲にしてその地位を築いていたのだ。
そして、これは愛梨から聞いた話ではあるのだが、凛は夜中に未だ一人でランニングやウォーキングをしているらしいのだ。
しかし、彼女はそういった一人で自主練をしている事を決して人に言ったりしない。これはたまたま愛梨が口を滑らせてしまっただけで……彼女は努力している事を悟られるのを嫌がる。
ただのスタイル維持や習慣なだけかもしれないが……もしかすると、凛はまだあの世界に未練があったりするのではないだろうか。
愛梨の話を聞いて、ふとそんな事を考える。
「そんなわけで、こう見えて凄く楽しみにしちゃったりしてるわけなのさ♪」
ぎゅっと組んでいた俺の腕を自分の体へと抱きしめる。
腕を伝って、凛の体温と鼓動が伝わってきた。びしょ濡れになって冷えた体を温めてくれる唯一の存在。
「そんな期待したって、きっと拍子抜けするぞ」
俺は照れ隠しでそんなぶっきらぼうな言葉を放っていた。
凛の横顔があまりに綺麗だから。もっと眺めていたいその横顔を見れなくて。視線は行き先を迷い、宙をさ迷う。
「それならそれで構わないよ? 大切なのは、文化祭じゃないから」
「じゃあ、なに?」
「……君との青春♪」
くらっとなる。
凛は恥ずかしげもなく恥ずかしい台詞を吐いて、自分も恥ずかしそうにはにかむのだった。
なんて自爆テロだ。こっちは瞬殺だ。さっき一瞬でも玲華を思い出していた自分が嫌になる。
「お、俺は楽しみにしてるからな」
「ん?」
「凛の……その、コスプレ」
「……ありがと!」
照れ隠しなのか、軽い足取りで俺を引っ張る。
俺達のクラスの出し物はコスプレ喫茶だった。
単純に凛を着せ替え人形にしたいクラスの女子の願望と、それを見たい男子の欲望が見事に合致してすぐに決まった。
元有名モデルがいるというだけで他クラスよりも圧倒的に有利で、彼女見たさにきっと客も多く来るだろう。
忙しくなる事が予想された。
そんな俺達の青春の一ページになるであろう文化祭の準備がもうすぐ始まる。
どんなにつまらなくて『普通』の文化祭でも、きっと楽しくて、忘れられない日になるはず。
そんな予感がしていた。
確かに修学旅行では玲華と遭遇して、俺達は二人とも落ち込んだりもしたけれど……でも、ここには彼女はいない。
ここにいる限り、玲華と会う事もない。
そうすれば、こうして俺達は穏やかで楽しい日々が過ぎせるから。
凛との青春を築いていく事が出来るから。
この時はまだ、そんな風に考えていたのだ。
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