2章 第6話 東京の空気

「ぐあああああ! また負けたぁぁぁぁあ!」


 凛を連れて自分の部屋の扉を開けると、中からタバコの臭いが漏れてくると同時に、純哉の悲鳴が聞こえてきた。


「アーハッハッハッ! 純哉風情があたしに勝とうなんざ百年早ぇんだよ!」


 一方、嬉しそうな愛梨の声。

 人の気も知らないで、何やら二人で楽しんでいたようだ。


「お、帰ってきた。おかえりー」


 こちらに気付いた愛梨が笑顔で手を振っていた。手にトランプ、口にはタバコ。ベッドには千円札が数枚。どこのギャンブラーだお前は。


「えっ、愛梨ってタバコ吸ってたの!?」


 俺の後ろから中を覗き見た凛が、驚いた声を上げる。


「げっ……」


 あからさまに拙い、という顔をする愛梨。


「いや、違うよ凛……そ、そう。あたしはこの変態男に無理矢理タバコ吸わされてたんだ」


 何という見苦しい言い訳。これは酷い。


「ふざけんな! 俺は吸うなっつったろーが! それを賭けに勝ったら吸わせろって言って今吸ってんじゃねーか」

「負けたお前が悪い。以上」

「以上。じゃねーよ! お前自分が喫煙者だって認めた様なもんじゃねーか」


 これが愛梨である。むちゃくちゃだ。


「うっせーな細けぇ事をいちいち。そん代わりあたしは負けたらお前の童貞卒業手伝う羽目になってたんだから、あたしの方が断然不利な賭けだろ」

「お前、そんなの賭けさせたのかよ……」


 こっちもこっちで最低だった。


「純哉君、サイテー」


 凛も軽蔑の視線を純哉に送る。


「ば、バカ野郎! 何勝手な事言ってんだよ! 千円賭けただけだろっ」


 慌てて純哉が弁解する。まあ、そんな事だろうとは思った。愛梨がそんな不利な賭けするわけがない。

 そんな光景を見て、ふと思い出した。


「ああ、そういえば凛がこっち来る前に、こいつ『RINとセックスできるなら死んでもいい』とか言ってなかったっけ」

「えっ……」


 凛が顔を青くする。


「ぐああああああああ! 何で今更そんな昔の話掘り出してんだよお前はぁぁぁあー!」


 狂った様に頭を掻き散らす純哉。

 凛は顔を青くして、二歩後ずさって俺の後ろに隠れた。


「お前、ファンだとか言っときながらそんな事言ってたのかよ……ほんと最低だな。さすがのあたしも見損なうわ」

「違う! 違うんだ凛ちゃん! あの時は俺もまだ若くて、しかもまだ凛ちゃんと会ってもなかったしっ」


 あたふたしながら凛に身振り手振りで説明する純哉。実に哀れだ。


「若かったって……先月の初めじゃなかったか?」

「めちゃくちゃ最近だな」

「最近だね」


 愛梨と凛と顔を見合わせる。


「待ぁて! 貴様等、年を取るごとに時間が早くなる法則があるって知ってるか!?」

「あ? なんだよそれ」


 むっとした様に睨む愛梨。


「知らないけど、そんなのあるの?」


 凛はこちらを向いて首を傾げる。


「ああ、ジャネの法則な。心理的な時間の長さはこれまで生きてきた年数の逆数に比例するってやつだろ」

「……逆数に比例? どういう事だ、純哉」


 愛梨が純哉に訊く。


「えっと……相沢が説明したそうにしてるから譲ってやるぜっ」


 自分で言い出して説明できないのかよ。


「まあ、簡単に言うと、同じ一年でも十歳が感じる心理的な時間の長さは、四十歳と比べると、十分の一対四十分の一で、十歳の方は四倍も長く感じるって事」

「おお、なるほど! そういう事だったのか!」


 言い出しっぺの純哉が一番納得している。

 おいおい……。


「つまり、だ。俺はまだ十七歳にも満たない若造なわけで、その一ヶ月も長いって事なんだよ!」


 純哉にしては珍しく論理的だ。凛と愛梨は呆れた様に顔を見合わせている。

 じゃあ、その論理を破綻させてみよう。


「でも、まあ時間の感じ方なんて主観的なものだし、ジャネ自身も言う程納得してないからな、その法則。ジャネ本人は論文で逆数とか比例とかっていう数学的使ってないし。それは尾鰭がついただけってどっかに書いてあった」


 そもそも年単位ならともかく月単位に昔も糞も無いだろ。


「なんだ、やっぱり純哉が適当に言ってただけかよ」

「感心して損しちゃっね」


 はあ、とため息を吐いた愛梨と凛。

 ジャネの法則自体に信憑性がいまいち無い=純哉の論理は破綻する、という事に気付いたみたいだ。


「お前が言ったんじゃねぇかああああ!」

「いや、一般的な説明をまずしただけなんだけどな」


 補足を後で付け足しただけだ。勿論悪意で。


「まあ、とりあえずお前が『RINとセックス』云々の弁解にはなってないな」

「それもお前が言ったんじゃねぇかああああ!」


 いや、元凶はお前だ。俺は掘り返しただけだ。凛はあからさまに侮蔑の視線を純哉に向けていた。


「まあ、そんな話はどうでもいいんだけどさ」

「お前が言ったんじゃねぇかああああ!」


 もはや血の涙を流している純哉である。


「人の尊厳ぶち壊しといてどうでもよくねーだろ!」

「いや、あんたに尊厳なんかもともと無いし」

「まあ、無いな」

「うん、無いね」


 三人で顔を見合わせる。


「お前等酷すぎだろぉぉぉー!」


 また血の涙を流していた。


「いや、冗談抜きでさ、この部屋の臭い、教師が見回りに来た時なんて言い訳すんの?」


 もはやタバコの臭いが充満している。


「あ゛」


 という変な声をあげたのは愛梨と純哉だった。


「……相沢、お前が吸った事にしろ」


 うむうむと一人頷いて愛梨が言う。


「ふざけんな! 下手したら停学食らうじゃねーか!」

「いや、中間試験学年トップのお前なら叱られるくらいで済むだろ。あんたは尊い犠牲になったんだ……」


 愛梨はぽんと肩に手を置いて、親指を突き立てた。


「何で俺が無実の罪で叱られなきゃいけないわけ!?」

「うっせえ我慢しろ! あたしや純哉なら確実に停学食らうだろ! それとも何か、あんたは自分の彼女を矢面に立たせるのかよ」

「えっ、私!?」


 いきなり名前を出された凛が目をぱちくりさせる。

 何でそうなるんだ。


「と、とりあえず部屋の窓開けて、制汗スプレーとか香水で誤魔化せばなんとかならない……?」


 意外にも冷静だった凛の助言でハッとなった俺達は、一斉に動いた。

 まず、俺が窓を全開にする。純哉は自分の旅行バックから制汗スプレーを取り出し、全力で噴出させた。凛はベランダに出て毛布をばたばたと叩き、愛梨は……タバコの吸い殻をさっきまで飲んでいたと思われる缶ジュースの中に全部詰めて、オーバースローで窓の外めがけて投げやがった。


(おいおい……)


 外歩いてる人に当たったら怪我するだろ……無茶苦茶な女だ。


「げほっごほっ……目が痛ぇ」


 今度は制汗スプレーの煙が部屋に充満する。

 しかも今度は制汗スプレー臭い。体育の後の更衣室を遙かに凌駕する。

 そんなわけで俺達は一端ベランダに退避して、臭いが落ち着くのを待った。


「しっかし……東京の空気って汚ぇな。気軽に深呼吸もできねー」


 愛梨は溜息を吐いて、東京の夜の町を見下ろした。

 この部屋は地上七階にあるから、それなりに眺めは綺麗だ。

 少し離れたところに東京タワーが見える。まだライトアップは消えていなかった。


「渋谷とか新宿に今日行ったけど、もっと汚かったな。つか空気が臭いよな」


 純哉も愛梨の横に並んだ。


「確かに……住んでる時は何とも思わなかったけど、鳴那町みたいな空気の綺麗なとこから来ると、臭いね」


 凛も伸びをして同意した。


「俺、都会に憧れてたけど、なんか鳴那町でいいかなって最近思い始めたよ」


 何となく純哉の言いたい事は解る。

 なんだか……東京の人間は、皆生き急いでいる。さっきのジャネの法則ではないけれど、時間経過の主観的観測が田舎より早いと思う。

 色んな事を背伸びして無理して手に入れ様としている様な……そんな雰囲気を感じる。

 勿論、その代わりに手に入れられるものも多いのだろうけど、結局どちらがいいかも個人の主観だな、と思う。


(さすがに十月も半ばになると少し寒いな)


 少し風が吹いた時、凛も肩を少し震わせていたのが見えた。

 今にして思えば、凛は下はジャージだが上は長袖のTシャツ一枚だった。

 仕方なしにジャージの上着を脱いで、凛の肩にかけてやった。


「あ……ありがと」


 凛が照れくさそうに笑う。


「翔くんは寒くない?」

「大丈夫」

「でも、半袖だよ?」


 本当は寒いです。ちょっと後悔してます。


「……一緒に入る?」


 凛が片方だけ上着を持ち上げる。

 なんだかシチュエーション的には凄く嬉しいのだが……ベランダにいる残り二人が凄い目つきをしている。人を殺しそうな感じの。


「あーあーいいねー幸せ者は! 何であたしこんな思いしてんだろ」

「糞っ、やっぱ許さねぇ……」


 愛梨と純哉は口々に不満をぼやく。

 凛は言ってから恥ずかしくなったのか、手を引っ込めてしまった。


「……まあ、仲直りしたんなら良かったけどさ。ほんと、一時はどうなるかと思った。一緒の部屋にいるあたしの身になってよ」

「心配かけてごめん。愛梨も困ってたら言ってよ。ちゃんと相談に乗るからさ」

「あいよー。期待してる」


 愛梨は笑って凛の頭をくしゃくしゃ撫でた。


「ちょっと、やめてよー」


 満更でもなさそうに、凛は嫌がる素振りを見せる。


「凛ちゃん、寒いから俺も入れて」

「え、やだ」

「なんで!?」

「だって純哉くん変態だし」


 セックスできたら死んでもいい発言を根にもたれているらしい。


「ひ、ひでぇ……何だよこの扱いの差」

「いや、あれは自業自得だろ……」


 何を言われても仕方ない気がする。

 だが、そんな光景を見てさっき凛のところに行ってちゃんと話して良かったなと思う。あのタイミングを逃していたら、こんな時間は無かっただろう。

 過去に引きずられないで、今を見よう。

 今、俺にはこんな楽しい仲間がいる。

 それでいい。


「おっ……そろそろ中の臭いもマシになってきたぜ」


 純哉がまず中に入って確かめた。

 凛が寒がっていたのを気遣ったのかもしれない。続いて中に入ってみると、まだ鼻に刺激が来るが、我慢出来ないという程ではない。

 凛と愛梨も続いて中に入って、各々ベッドに腰掛けた。

 その後は買ってきたお菓子を食べながらトランプをして四人で遊んだ。罰ゲームを設置する事により、それなりに白熱したバトルになる。

 なんだかんだで笑いが耐えない時間だった。

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