2章 第2話 玲華
井の頭公園をぶらりと回ってからは、凛の提案により凛の実家に行く事になった。今は父母の二人暮らしで、父親は仕事中との事。お母さん一人ならば、まだそれほど緊張はしない。
バスに揺られながら、外の景色を見てふと思い出す。
塾に通っていた時もこの景色を見ていた。
所々家が新しく経っているが、ほとんど二年前と変わっていなかった。
「家に寄る前にさ、あそこ寄ってかない?」
「あそこ?」
「私達が通ってた塾」
「え、中入んの?」
「ううん、外から見るだけ。私の家あそこから歩いて行けるから」
言いながら、凛はバスの停車ボタンを押した。
バスが停まって、バスを降りると、すぐにその建物は目に入った。
そこは見慣れた場所で、ひどく懐かしい気持ちに襲われた。
二年前、俺と玲華が出会った場所。
そして、俺と凛が出会っていたかもしれない場所。
──昇英塾吉祥寺校。
あまりに色んな思い出がありすぎて、胸が騒ぐ。
二年前の高校受験に燃えて勉強しまくっていた頃が、目を瞑れば思い出せてしまう。授業中にこっそり盗み見ていた玲華の横顔も、思い出せてしまって、我ながら嫌になる。
今はまだ平日の昼だから授業こそはしていない様だが、事務所は開いている様だった。
凛は固まっている俺を見て、困った様な笑みを浮かべていたが、再び手を握って歩き出した。
その時──一人の女子高生とすれ違った。
ふわり、と柑橘系の匂いが鼻を擽る。
その匂いは記憶の中で忘れかけていたものを引きずり出してくる。
俺はこの匂いを知っていた。
ハッとして顔を上げ、振り返る。
すれ違った女子高生は、少し長めの大人ショートカットで、ややきつい目つき。背は凛と同じくらいですらっとしたモデル体型。しかし出るとこは出ていて……記憶の中の彼女より成長している様に感じた。いつもマイペースで何を考えているかわからないミステリアスな彼女は、海成高校の制服に身を包んでいた。
海成高校の彼女も俺と同時に振り返っていて、目を見開いて俺達を見ていた。
「う……そ……」
俺も、凛も……そして、その女子高生も。
きっと同じ事を思ったに違いない。
三者共が今目の前の光景を信じられない、とでも言う様に固まっていた。
「ショーに……リン……?」
絞り出す様にして声を出す。
「玲華……」
上手く声が出ない。
嘘だろ……?
どうしてこのタイミングで会うんだよ。
俺の記憶が正しければ、玲華の家はこの近くではない。もう少し離れていたはずだ。バス停で言うなら、もう二つか三つほど離れていたはずなのだ。だから、玲華がこんな場所を歩いているとは考えられなかった。
「どういう……こと……?」
玲華は、呆然として俺達の間で繋がれた手を見て、押し出す様な声で言った。
凛はその表情に気づいてか、俺から離れた。
「どうして二人が同じ制服……え? それ、ワセ高のじゃ……」
玲華は困惑して俺達を見比べていた。
「……引っ越したんだ。去年の夏、長野県の鳴那町に。今は地元の高校に通ってる」
玲華の疑問に答えた。
「鳴那町……」
玲華は呟いて、何かに気付いた様な表情をすると凛を睨んだ。
「そう……それであなた、何度も鳴那町に行ってたのね。鳴那町でリンの目撃情報がどうのって、一時期話題になってよね」
言葉とは裏腹に、侮蔑する様な視線を凛に向けていた。玲華のそんな表情を見るのは初めてだった。
凛は何も言わず、玲華から視線を逸らした。
「別に……鳴那町には私のお祖父ちゃんの家があるからさ。行くこと自体は不思議じゃないよ」
普段の凛からは考えられない様な小さな声で、反論した。
だが、それは反論と言うより、叱られるのが嫌で言い訳している子供の様な痛々しさがあった。
「それがそっちの高校に転校した理由にはならないと思うけど?」
玲華の反論に、ぐっと凛は言葉を詰まらせる。
「決まっていた仕事を全部ほっぽり出して失踪して、勝手に引退宣言。周りの迷惑も考えないで……事務所や関係者がどれだけ迷惑したかわかってる? 会社、下手したら潰れたんだけど?」
凛は何も言い返さなかった。顔を伏せて、唇を噛んでいた。
「誰かさんの尻拭いを私が今必死にしてるのに、当の本人はデートってわけね……私も舐められたものね」
冷たい視線を凛に送る。
「……そんな言い方ねーだろ。お前だってやりたくてやってんじゃねーのかよ」
見ていられなくなって、思わず仲裁に入る。
凛が立場上、絶対的に悪いのは解っている。しかし、それでも彼女には理由があった。そうしなければならない理由が……そして、その要因の一端は間違いなく玲華にもある。
「ほー? ショーはそう思うんだ?」
この『ほー?』は彼女の口癖だった。人を批判したり、馬鹿にしたりするときの、口癖。こんなところでなつかしさを感じている場合じゃないのに、それすら懐かしくて、ほんと、嫌になってくる。
「ばっかじゃないの。やりたくないに決まってるじゃない。どれだけ忙しいと思ってるの? 今、私のプライベート時間ほぼゼロ。わかる? 今だって、学校早退して一回家帰ってから収録なわけ。家に帰るのは夜中の二時とか。で、明日も朝から学校。こんな生活、誰が望んでるっていうの?」
あなた達みたいに暇じゃない、と言わんばかりに俺にも挑発的な言葉を投げかけてくる。
「でもね、私にはたった一人の我が儘の所為で、何人もの人が迷惑を被って路頭に迷うかもしれないって言うのが許せなかった。見捨てられなかった。看板背負うってどういうことか、少なくとも私は知ってるから」
玲華は凛が一番言われたくないところだけに狙いを絞って、的確に攻撃していた。彼女が口喧嘩をする時の悪い癖だった。
「そうまでするのが男の為? しかも……」
その相手が俺だったとは思わなかった、という様に視線をこちらに向けている。
玲華の瞳は憤怒に塗れていながらも、その奥には悲しさを感じさせる悲痛さも見受けられた。
「玲華には……」
凛は小さな声で……反論した。
「玲華にはわかんないよ……」
睨みつけてくる玲華を見ることもできず、俯いたまま呟くように。
「何でも手に入って、頑張らなくても何でも出来ちゃう玲華にはわかんないよ……! いつもいつもわかった風な事言ってさ! 私がどんな想いしたかなんて……何も知らないくせに!」
「そんなの理由になってない」
凛の必死の訴えを、玲華が冷たく跳ねのける。
「少なくとも中学の時の凛ならそんなこと言わなかった。立ち向かってた……だから私は、あなたの方がこの仕事に向いてると思った」
凛が驚いた様に顔を上げる。
玲華の真意は読み取れない。だが、もしかすると……玲華がモデルをやめたのは、凛に対する情けなんかではなかったのかもしれない。暇潰しで仕事をこなしていた玲華と、一生懸命取り組んでいた凛……玲華は玲華なりに、そんな凛を評価していたのだろうか。
「でも、まあ……私の見当違いだったみたい。あなたには向いてないみたいだから辞めて正解だったかもね。プロ意識なんて何も持ってない……私、ずっと言ってなかった? 自覚を持てって」
とことん見下した言い方。きっと、誰が見ても玲華の言う事は正しい。凛のやった事で、会社が傾いたのも事実なのだろう。たくさんの人が迷惑を被ったのもおそらく事実だ。
だが、そんな言い方しかできない玲華に沸々と怒りが沸いてきた。こいつはこんなに嫌な奴だっただろうか? 少なくとも……こんなに人を故意で傷つける奴じゃなかった。
凛は反論するでもなく、弱々しく玲華を見つめた。
「そう、その瞳。あなた、いつからそんな弱くなったの? ここまで言われて、どうして黙ってるの? 何でそんな媚びる様な顔してるの……? 最低。あり得ない。まさかリンが私の一番嫌いなタイプの人間だったなんて」
「……ごめん」
凛は顔を伏せてうなだれる。
「謝るな!」
そんな凛に怒りを抑えられなかったのか、玲華の声が荒くなる。
「自分に自信無いくせに、何でこの仕事やってたの? 何なの? 何がしたかったの?」
「やめろ、玲華」
玲華がつかみかからん勢いだったので、再び凛の間に入る。
死体に鞭を打っているようで、もう見ていられなかった。もう勝負はついている。どっちが正しいかなんて、凛自身もよく解っているのだ。
「そういうショーは? どうして長野県なんかに?」
詰問するかの様な口調で玲華はこちらに視線を向けた。
厳しい目つきだった。
玲華のこんな目は見たことが無かった。
「親の転勤で。俺の意思じゃない」
嘘だ。俺の意思だった。
「……ほー?」
呆れたような、拗ねたような……彼女が機嫌が悪くなった時にする表情をこちらに向けた。
凛に向けていた敵意があるものとは違っていた。それが耐えられなくて、俺も視線を玲華から外した。
なんでこうなってしまったのだろうか。俺達は絶対に会うべきじゃなかったのに。
「お似合いね……あなた達」
「え……?」
意外な言葉に、凛が顔を恐る恐る上げる。
「嫌な事から逃げて、戦う事から逃げて……本当にお似合い」
そこに嘲笑の響きは無かった。むしろ、憐れみと落胆の視線。
──じゃあ、逃亡者同盟結ぶ?
凛のそんな言葉が脳裏にふと蘇った。そういえば、俺達は出会った時から、逃亡者だった。
「私が好きだったリンもショーも、もう居ないんだね」
悲しそうに呟いた。
「二人共上を向いてた。前を見てた。私なんかより、よっぽど努力家だった。リンもショーも……私は尊敬してた」
違う。俺達は上を向いていたわけでも、前を見ていたわけでもない。
お前を越えたかっただけだ。お前を見ていただけだ。
そして俺は、そして凛は、お前を越える事を諦めた。
それだけだ。
「……まあ、ショーに関しては、気付いてたけどね」
困った様に笑って、うっすらと涙が滲む。
「今だから言うけど、君のことが本当に好きだったよ。自分でもバカだって思うくらい尽くしたし、君の為なら何でもできた。でも、君は私と居るとどんどんダメになった……私はそれに耐えれなかった。私じゃどうしようもなかったから……」
高校入学までの春休みや、ゴールデンウイーク、週末、別れるまでの間……玲華は毎回俺の為に時間を作ってくれた。
生きる気力も活力もなくしてしまった俺の為に勉強を教えに来たり、遊びに誘いに来たり。こんな風にツンツンとした言葉遣いだけど愛情を注いでくれた。
(知ってた……)
玲華がどれだけ努力してくれていたか、俺は知っていた。
そして俺はいつも彼女を傷つけていた。
玲華は俺が求めたならいくらでも応えてくれたから。
最初は、ゴールデンウイークだった。
玲華は家族の居ない日に俺を自分の部屋に招き、彼女の“初めて”を捧げてくれた。
単純に、俺を喜ばせようとしての事だった。もしかしたら、玲華からすれば万策が尽きた最後の手段だったのかもしれない。ただ、俺は幸せや愛情よりも、ほかの悦びを見つけてしまった。
それは、征服欲だった。
自分がどれだけ適わなかった女が、努力しても届かなかった女が、高潔で誰も寄せ付けなかった女が、自分の下で喘ぎ苦しみながら涙目になって自分に縋っている。自分を求めてくれている。
その光景が当時の俺にとって唯一の救いで、甘い時間だった。そして……何よりも惨めさを痛感させてくれた。
彼女を傷つける事で喜んでいる自分が居た。自己嫌悪というレベルではなかった。自分が好きだと言った女を、俺は慰みものにしていたのだ。
それに気付いた日から、彼女を求められなくなった。別れたのはそれからすぐ後だった。
「だから……別れたのに。別れたくなんて無かったけど……ショーに立ち直って欲しかったから。なのに……これじゃ、私だけバカみたいじゃん……」
玲華が、初めて見せた悔しそうな顔。涙を溜めて、堪えている表情。笑おうとして失敗して、端正な顔が崩れている。
玲華のこんな顔は初めて見た。彼女でもこんな顔をすることがあるのかと……。
玲華は凛を見つめた。
「ねえ、リン……満足?」
玲華は弱々しく言った
「えっ……?」
「私の好きだった人、奪えて満足? 私のこんな顔見れて、満足……?」
泣いた様に笑って、玲華は凛に言った。
凛は何も言わず、下を向いて玲華から視線を逸らした。
「リン……あなた、ズルい」
玲華はそう言い、顔を伏せて俺達に背を向けた。
ふわりと彼女の柑橘系の香水が香る。
俺は何も言えず、引き留める事も出来ず、ただ押し黙っていた。
結局凛の家にいくのはやめにした。とてもそんな気分にならなかったからだ。
用事ができたのでいけない旨を凛が親に連絡し、そのままホテルへと戻った。
帰りのバスの道中で再確認したが、玲華の家の最寄りのバス停は、やはり今降りたバス停より二駅ほど離れていた。
そして、そのバス停は、玲華が俺に別れを告げたバス停だ。
もしかしたら……
これは完全な俺の一人よがりな想像ではあるが……
玲華は俺を振ったあの時から、あのバス停を使っていないのかも知れない。
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