1章 第22話 図書室と勉強と過去

 遙々来た天津屋までの道のりをとんぼ帰りし、再び鳴那高校に舞い戻ってきた。もう九月も終わりなのに相変わらず昼間は暑くて、学校に着く頃にはじんわり汗をかいてしまっていた。道中、帰っている生徒からは「何で今更学校に?」という顔をされるし、恥ずかしいったらありゃしない。

 上履きを取り出した時にふと凛の靴箱を見ると、靴があった。まだ凛は学校にいるみたいだ。

 教室に入ってみたが、そこには誰の姿も無かった。もう三時を回っているので、さすがにこの時間までお喋りをしている連中は居ない様だ。机の中からお目当ての教科書と問題集を取り出し、ついでに自分のロッカーに寄って制汗スプレーを服の中に噴射した。ハーブの匂いと冷たさが汗ばんだ皮膚を覆い、少しは発汗の不快感が減る。誰のだかわからない団扇を拝借して暫く涼んで汗を止めてから、ちょっと学校を徘徊してみようと考えた。

 アイビスに行こうかとも思ったが、凛がどこにいるのか捜したい気持ちもあったし、何より俺がアイビスに行った時点で二人に勉強を教える側に回る事は過去のテストから簡単に推測できた。明日勉強できないと考えると、そんな無駄な時間は使いたくない。夜はゆっくり寝たいし。

 殆ど人の気配を感じない教室棟では俺の足音と吹奏楽部の練習の音だけが響いていて、何だか普段の喧しい廊下がまるで嘘の様だった。宛もなく文化棟に移動し、図書室の前を通りかかると……やたらと図書室の入り口に人集りができている。

 耳を傾けてみると、ひそひそ話で「うお、RINじゃん。すげ。やっと見れた」「RINが勉強してる!」「可愛い〜!」「お前話しかけてこいよ」「無理だよバカ。お前が行け」といった声が聞こえた。凛がいるのか。誰かと居るのだろうか?

 そう思って人集りに近づこうとすると、中からいきなり図書委員らしき女の子がバタンと扉を開けた。


「図書室に用があるなら入ってください。無いなら帰ってください。入り口に屯されるのは利用者の方に迷惑です」


 メガネをかけた大人しそうな子だったが、意外にも強気な言葉で言い放った。人集りはすごすごと散っていった。残った俺を、図書委員が睨む。


「あなたは野次馬?」

「いや、利用者」

「そうですか。すみません。最近、毎日ああして人が集まるもので」

「毎日あのモデルさんが来てるってこと?」

「ええ。今週はほぼ毎日」


 迷惑なものです、と小さくぼやき、彼女は図書室に戻った。最近帰りの時間が合わないのはそういった事情からだったのか、と納得し、俺も彼女を追う様に室内に入る。

 そこには一人で勉強する凛がいた。背筋をピッと伸ばし、まるで貴婦人がお茶会でもしているかの様な上品な姿勢で、ノートにペンを走らせていた。周りは凛を意識しまくりでチラチラ見ているが、凛は全くそれ等を意識した様子はなかった。それは見られる事への慣れなのか、端的に意識が集中しているからなのかはわからない。

 ただ、凛が一生懸命勉強している事は意外だった。そういえば普段授業も寝ないで真面目に受けていたし、前の学校でもちゃんと勉強はしてたって言ってたっけ。

 少し夕日色になってきた太陽が凛の横顔を照らし、まるでそれは一枚の切り取られた絵画の様に、神々しい。そんな彼女を見ると、やはり住む世界が違うんだな、と実感せざるを得ない。

 その時、凛は何かに気づいた様にハッとして顔を上げ、視線をこちらに向けてきた。

 そして、目が合う。


「翔くん!? なんで!?」


 結構大きな声で凛が疑問を口走ってしまい、周囲の視線が一瞬にして凛に集中した。

 それに気付いた凛は慌てて俺に『外で待ってて』と口パクでジェスチャーして、勉強用具を片づけ始めた。

 さっきの図書委員がものすごく怖い顔で俺を睨んでいる。別に騒がしくするつもりも野次馬でもなかったのだけれど、図書室の平和を望む図書委員からしたら変わりはないのだろう。ごめんな、と心の中で謝って、指示された通り図書室の外に出た。

 それから程なくして、凛が図書室から出てきた。少し怒っているようだ。


「何で翔くんに見られるかな〜。さっき帰ったと思ったのに」


 どちらともなく、宛もなく歩き始めた。


「教科書忘れて取りに戻って、ついでに勉強しようと思っただけ。見られたらまずいのか?」


 ついでにの後は嘘だ。凛を捜していただけである。


「まずくはないけど……あんまり見られたくなかったかな」

「何で?」

「中間テストで翔くんより良い点取ってびっくりさせようと思ってたから」


 拗ねた様に彼女は言った。なんだ、その理由。


「じゃあ、テストで勝負する?」


 我ながら懐かしい台詞を自分でも吐いてみた。確か前の彼女……玲華もこんな風な流れで勝負を持ちかけてきたのだ。


「……やめとく。勝負って意識されると勝てないのわかってるから」

「そんなのやって見なきゃわかんねーじゃん」


 俺がそう言うと、凛は立ち止まった。


「……わかるよ」


 とても悲しそうに笑って、彼女は言い切った。まるで、もう何度も同じ未来を見たかの様に……諦め切った表情。


「何で? 何でそう言い切れんの?」


 何か、引っかかった。彼女のその表情に何か引き留められた。


「だって……」


 そして、一瞬……ほんの一瞬だけ、彼女の表情から悔しさが滲み出た。何とも無い様な笑みの間の悔しさ。ただ、それはほんの一瞬で、次に見た時には普段からよく見せる、眉根を少し寄せ困った様な笑みになっていた。


「翔くんってワセ高だったんでしょ?」

「え?」


 何で知ってるんだ?

 凛には俺が都内のどこの高校に通っていたか言ってないはずだ。

 ワセ高とは、早稲大学付属高校の略称。全国ではトップクラスの私大付属高校で、俺は昨年までそこの生徒だった。全国数ある高校でもトップクラスの偏差値を誇る高校ではあるが、俺はここの生徒として何も誇りを持てなかった。そこは、俺の第一志望高校ではなかったからだ。


「あ……えっと、愛梨から聞いた」

「ああ……」


 なるほど。愛梨は結構凛と一緒に居る事が多い。愛梨が女の子と行動を共にするのも珍しい光景だ。愛梨は愛梨でそれに対して不安や疑問を抱いている様だけど。その時、俺はどこの高校にいたのかも聞いたのだろう。


「特進って言っても堀高の私と、ワセ高の翔くんとじゃ結果見えてるでしょ? 偏差値だって二十近く違うし」


 確かに……堀之内高校は特進と言えども偏差値換算だと五十台半ばだった。鳴那高も偏差値で言えば五十半ばなので同じくらいだ。対して、俺が去年まで通ってたワセ高は七十前半だったから、確かに二十くらい違う。ただ、そんな俺も第一志望の海成には落ちたわけで。あんまり偏差値とか学歴とかの話は好きじゃなかった。


「授業中はいつも寝てるのに、いつもトップクラスの成績だって愛梨や純哉君も文句言ってたよ」

「……やめてくれ」


 行きたい高校に行けず、第二志望の高校に入ったものの、張り合う相手と勉強の情熱を失って、更に引っ越しで田舎の高校に来て……それでトップクラスだと言われても、正直うれしくとも何ともない。惨めになるだけだった。

 鳴那高の皆には悪いけれど、この高校のレベルの問題なら少し勉強すれば解けてしまうのだ。だから普段授業では何もやらず、当てられそうだったらざっと教科書を眺めれば答えが書いてある。成績は落としたくないから勉強はするけど、一位になりたいわけじゃない。そんなものに拘るのがいかに無意味か、高校受験で学んだ。


「ごめん……」


 凛は、なぜかわからないが謝った。俺に嫌な事を思い出させたと思ったのだろうか。別に凛は何も悪くない。悪いのは、未だ後悔を断ち切れない俺自身だ。

 そのまま俺達は黙って歩く。下を歩く人は誰もいない。二人だけ世界に取り残された様に、足音が二つ。


「ねえ」


 目的もなく歩いていたら、不意に凛が呼び止めた。


「教室で勉強しない? 明日遊び切る為には、今日中に数学の範囲終わらせておきたいし」


 今までの流れを無視するかの様に、凛はあっけらかんとして言った。彼女なりに気を利かせたのだろう。というか、翌日テストでも遊ぶ約束は有効なのな。


「ああ、いいよ」


 断る理由もなかったので、俺達は教室に向かった。

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