1章 第4話 雨宮凛
「は? 相談って、初対面なのに?」
彼女の唐突な申し出に、俺は困惑せざるをえなかった。初対面に何を見込んで相談するのだろうか。しかも俺は彼女の名前すら知らない、赤の他人だ。
「初対面だからこそ、見込んでるんじゃない。知り合いとかだと話しにくい内容だってあるでしょ?」
「そうなのか?」
「そうなの!」
よくわからないが、押し切られてしまった。俺は信用した奴じゃないと相談したくないけれど、どうやら彼女は違うらしい。
「いいけど、答えられなくても文句言うなよ」
「うん。思った事を素直に言ってくれるだけでいいからさ」
彼女の声のトーンが下がった。表情も、どこかしら暗くなった気がする。
それから、彼女はその相談内容を語った。
「例えば、ね? 自分が憧れてた世界に、たまたま入っちゃって、好きな事だから色々犠牲にして頑張って、それなりに成功したとするじゃない?」
「うん」
「でも、もっと上にいくには絶対に自分がしたくない事まで要求されちゃったとして、その世界そのものに嫌気が差しちゃった場合……君ならどうする?」
えらく限定的な相談だな、と思った。かといって抽象的過ぎても困る話だけれども。憧れていた世界、か。俺にはそういった世界が全くないから、正直よくわからない。
「うーん⋯⋯」
「難しく考えないで。思った事をすぱっと言ってくれちゃっていいから」
「そう言われてもなぁ」
その場で暫くうんうん唸って考えてしまった。白ワンピの美少女は苦笑していたが、こうして一度考え始めると止まらないのも俺の癖でもあった。
「えっと……わからなかったら、いいよ? 私もわからないから、訊いてるんだし」
「いや、そういうわけじゃないんだけど。結論だけ言うにしても場合分けになってくるし」
「それでいいから、思った事言ってくれたら有難いかも」
「あ、そ? わかった」
そっちの方が楽かも、と思って、俺はそのまま以下の様に続けた。
「そんなにしたくないなら、一回辞めちゃえば? 見たところ、君まだ若そうだし」
「え? どういう事?」
きょとんとする彼女に、俺は詳しい説明を付け加えた。
例えば、自分にはその世界しかないと自覚していて、且つ年齢的にも取り返しがつかず、そこにしがみつくしかなかった場合、嫌な事でも耐えるべきだろう。
一方、まだ年齢的に若く、自分がそこ以外でも生きていける、或いは他にやりたい事があるのなら、嫌な事を無理してまで続ける必要はない。どうしてももう一度そこの世界に戻りたくなったら、死ぬ気で戻ればいい。それだけの時間があるのだから。
「……って、偉そうな事言ってるけど、俺には何もやりたい事もできる事もないけどな」
苦笑して、彼女を見た。彼女は目をぱちくりさせ、なんだか驚いてる様子だった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。じゃ、じゃあさ? その世界がとっても特別で、周りの人間ならだれもが羨む世界だったら?」
「それって関係あるか?」
俺は瞬間的にそう答えていた。彼女が、え? と驚いたようにこちらを見る。
「だって、所詮他人の物差しだろ? そいつにとって価値がある世界でも、自分にとってそれが苦痛で仕方ないなら、それは無価値な世界でしかない。逆に、他人にとって無価値で蔑まれる世界でも、自分にとってそこが価値ある世界なら、そこに居る価値はあるんじゃないかな」
他人なんか関係ない。価値観なんて人によって違うのだし、結局は自分次第なのだ。
と、ここまですらすら述べてきたけど、こんな風に自分が考えてると思うのも意外だった。究極的な個人主義だ。思えば学校の友達とはこんな話した事がなく、いつも頭の中で考えているだけだった。こういう話ができるのは、少し楽しいとさえ感じていた。
ピンクベージュの髪を揺らして、彼女は下を向いて考え込んでいる様だった。その帽子のせいで表情は読み取れない。
「俺にアドバイスなんか訊いても無駄だったろ」
毎日惰性で生きているくせに、どうしてこんな偉そうな講釈を垂れているのだろうか。俺は人に生き方を教えられる人間じゃない。しかも……俺は、〝あいつ〟から逃げたのに。
「そ、そんな事ない! 凄い……と思う。私だったらそんな風に考えられなかったから」
「そうか?」
「私は、それが逃げなのかどうか、とか、誰に迷惑かかる、とか……自分に負けたことになる、とか。そんな事ばっかり考えちゃってたな。でも、やっぱり嫌な事は嫌だし、それで自己嫌悪」
彼女はくしゅっと笑って、苦い笑いを見せていた。
自分に負ける、か。見たところ年もそんなに変わらなさそうなのに、彼女はとても立派な様に思えた。その視点で考えるなら、俺の考えは安易な逃げ道を選んでいるだけなのかもしれない。それに、俺があんな意見を言えるのは他人の悩みだからだ。仮に自分がそうなった時、こんな冷静な意見ぶっこけるかどうかは謎だ。
「……うん、決めた!」
「え」
彼女は一人で頷くと、顔を輝かせてすっくと立ち上がった。
「さ、ちょっと暑くなってきたし、帰ろっか」
「え?」
確かに、そろそろ日が登り始めて蜩の代わりにミンミン蝉が鳴き始め、気温も上がってきたけども。なんだか一人で満足されても困る。俺は自分の言った事の正しさもわかってないし。
そう思いつつ、つられるように立ちあがった。
「あのさ、俺の意見はあくまでも参考程度にって事で。俺も正しいのかわかんないしさ」
「うん、ありがとっ!」
いまいち会話がつながっていないように思うのだが、彼女はさっきまでとは打って変わってすっきりしていそうだ。喜んでるみたいだし、まあいいのだろう。
「悪いね、朝から相談に付き合わせちゃって」
彼女は麦藁帽子を外し、照れくさそうにこっちを見た。
横に並んでみると、彼女は俺より少し背が低いくらいの身長だった。百六十〇センチ前半くらいだろうか。本当に長身美形モデルという言葉が正しい。
そして、そんな美人モデルみたいな人に正面から見つめられるのだから、これはこれで恥ずかしくなってくる。
「いや、まあ……いいけど。俺も久々に頭使ったし、楽しかった」
途端に視線が泳いで、どぎまぎする。
「それならよかった。こんなところに一人で来ておいて何だけど、ほんとは誰かに話したかったんだよね。私、滅多に人に弱み見せないから相談の仕方もわからなくて」
彼女は照れくさそうにはにかんだ。その表情が、また格別に可愛かった。こんな美人に少しでも頼られたなら、それは男として誇るべき瞬間だろう。
「じゃあ、いこっか」
そのまま彼女は背を向けた。ただ、俺はそれがなんだか名残惜しくて、気付けば彼女を呼び止めていた。
「あ、あの!」
「ん?」
彼女は首をかしげる様にして、振り返った。いちいちその仕草も優雅で、きゅっと胸が締め付けられる。
「その、君の名前は?」
「あ、私?」
コクリ、と頷く。君以外にいないだろう。
それなのに、白ワンピのモデル風美女は、一瞬だけ、最初に出会った時の様な、寂しそうな笑みを浮かべたのだ。どうしてそんな顔をするんだろうか?
「
スッと彼女、凛が手を差し出した。その表情に、もうさっきの痛々しさはなく、にっこり笑っている。
「へ?」
きょとん、とその手を見て固まる俺。
「へ、じゃな〜いっ! 常識的に考えて握手でしょ!」
「あ、ああ⋯⋯握手ね」
普段やり慣れない事だから、咄嗟に反応できなかった。
そういえば握手っていつ以来だろう? そんな事を考えながら差し出された彼女の手をそっと握る。
とても⋯⋯とても緊張した。握手が久々とかじゃなく、こんな美人の手を握る事にもの凄く緊張した。凛の手はひんやりとしていて、強く握ると壊れてしまいそうなくらい、柔かった。
「あははっ、緊張してる?」
「うるさい、慣れてないんだよ握手!」
「そういう事にしときますか!」
凛は悪戯そうに笑っていた。
「えっと⋯⋯俺は
手を離して、どぎまぎしながら自己紹介をする。
「ちなみに、あそこに見える鳴那高校に通ってる二年」
少し遠いが、ここから見える位置に学校があったので指さした。まだ手のひらには彼女の手の感触が残っていて、むずがゆい。
「二年生なんだ。私と同じだね」
「同い年? 雰囲気や風格からしててっきり年上かと思ったよ」
率直な感想を言うと「よく言われる」と彼女は笑っていた。
「よろしくね、翔くん」
「ああ、よろしく。凛」
彼女は最後にウィンクして、背を向けたので、俺もその後に続いた。
彼女の歩き方はとても綺麗で、まるで足は一本のロープの上を歩いているかの様にまっすぐ歩いている。背筋もぴんと伸びていて、しかもスタイルも良いときてる。こんなに綺麗に歩く人を俺は初めて見たのかもしれない。
(いや……初めて、ではないか)
もう一人だけいた。一年前に東京に置いてきた記憶の中に、一人だけいる。
しかし、俺はそれを振り払う。思い出してもいいことなんてないのだから。
「なあに?」
俺の視線に気づいたのか、凛が振り返ってにやにやしてくる。
「いや、別に」
「あ、わかった。『こいつすげー綺麗、惚れそう』とか思ってたでしょ?」
「ちげーよ!」
「それは残念っ」
彼女は可笑しそうに笑っていた。でも……凛の言っていた事は、おおよそ正しい。俺はこの出会ったばかりの彼女に惹かれている自分がいたからだ。
寺の石段を並んで降りたが、特に会話がなくても。彼女はとても新鮮そうに自然を見て楽しんでいた。そして、まるで異世界から現れたかのような彼女を見ていると、それだけでただの風景が絵になった。
「ねえ、また会えるかな?」
階段を下りたところで、彼女は訊いてきた。
「まぁ、機会があれば会うんじゃないか?」
俺はそんな心にもない事を言っていた。本当はまた会いたいくせに。だが、その可能性は低いと思っていた。彼女は東京暮らしみたいだし、ただ遊びにきているだけならそう何度も会う事はなかった。
「うん、そうだね⋯⋯じゃあ、またね」
「ああ。また」
それが俺と凛の出会いだった。
ここから暇だった日常が変わってしまうだなんて、誰が予想しただろうか。
一度逃げてしまった過去からは、逃げられない──俺はそれを実感することになるのだった。
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