第2話 困惑、のち空虚、あるいは汚濁


 ――いつの間にか眠っていた。


 目が覚めても元に戻りはしなかった。

 夢じゃない、それがまったく嬉しくない。


 薄暗いリビング。夜になっていた。

 それよりも他人になってはいても腹は減る様だ。

 健康な事は大歓迎だが。


 その後照明をつけてうろうろ。

 それで少しわかった事がある。

 今のオレ、高科さくら。

 彼女は――と自分の事を二人称で呼ぶのも気持ち悪いが、彼女は神経質な性格らしい。


 なぜそう思ったか。

 それは設置型の家具以外の小物は全てどこかしらに収納してあるからだ。

 これは偏見へんけんかもしれないが、若い女がスマホをいちいちクローゼットの奥の引き出しに入れるか?

 SNSの通知とか、気にならないのだろうか?


 それに尿意にょういを感じてお手洗いに行ったが、洗面所も浴室も何も無かった。

 いや正確には洗面台の横にある収納に全部収まっていたんだ。

 バス用品もそうだし、コスメ関連も全部。


 そう言えばPCとかもクローゼットの中の引き出しに入っていたしな。

 だから自分の情報を探す為には収納を探せばすべて見つかった。

 でも普通、何かしら物は並べるだろう?

 特に今の自分は女だ。だったら何かしら女を主張するインテリアの一つでもあってもいいだろうよ。


 でもこの部屋はかたくなに最低限の調度品以外は不要と言う哲学があるようだ。

 けれども彼女は料理に凝っていたらしい形跡はある。

 それはキッチンだ。リビングの横に大きな台を挟んだアイランド型。

 やはり物が少ないが、収納の中にはプロ顔負けの道具が揃っていた。

 調味料関係も豊富で、塩だけでも10種類はあった。


 ファッションじゃないのは、きちんとそれぞれ減っている。

 フライパンにしても焦げ付かない加工をされた奴もあったが、使い馴染んだ鉄製のもある。

 オレの前世でも、ストレス解消目的で料理を趣味としていたが、鉄のフライパンは手入れも面倒なんだ。

 きちんと焼いて油を滲ませないと焦げ付くし。

 使い終わっても水気をきちんと取らないと酸化さんかして面倒だしな。


 ここまでを整理すると、彼女は神経質なまでの几帳面さを持つ、料理が趣味の娘。

 そしてさらに追加。

 彼女はピアニスト志望だったが、高校時代に事故にい、左手を負傷。

 これでピアニスト生命を絶たれたらしい。


 現在はこのマンション。

 高輪台たかなわだいにあるこのマンションに独り住まい。

 仕事は無職。ただ口座を確認すると、贅沢をしなければ5年は生きていける程度の預金がある。


 財閥系銀行が発行したクレジットカードがあり、その明細を見ると、携帯料金の他には生活費に含まれる程度の出費が毎月5万円ほど使われている。

 そこにこれと言った娯楽費はなさげ。


 これらの情報は、一度は切り裂かれてテープで留められた使い古した「ラフマニノフの幻想的小品集」のスコア、そして母親と妹からの手紙で分かった。

 クローゼットの中の引き出し。

 その一番下の段に入っていた大きなブリキの箱の中にそれらはあった。


 ロシア風の青や赤の模様の入ったその箱は、この部屋で唯一の女性っぽさだ。

 側面に可愛らしいマトリョーシカが描かれている。

 中にスコアや手紙。

 彼女の思い出を封じ込めた特別な場所なのだろう。


 母親が”ゆり”で姉が”ひまわり”。

 母親からの手紙には、貴方が生きてさえいてくれるだけでいいと言ういたわりの言葉。

 姉からの手紙には同じく「さくらちゃん、私達を嫌いでも、必ず生きている事だけは知らせてほしいからメールを定期的に欲しい」との懇願こんがん


 彼女たちが住んでいるだろう実家の住所は愛知県は名古屋市内。

 それらを眺めていると、ズキリと嫌な頭痛と吐き気に襲われた。

 思わずその場にうずくまり、我慢はしたが、カーペットに唾液が垂れる。

 だからと言って記憶が蘇ったりはしないが、恐らく何らかのトラウマめいた物があるのだろうな。


(なんだろうコレ)


 PCを調べていておかしなリンクがデスクトップに貼られていた。

 彼女はやはりここでも神経質な性格な様で、OSに依存した基本アプリケーション以外は全てフォルダに整理されている。

 それが全て画面の左に寄せられているのだが、唯一このアイコンだけは右端にぽつんとあり目立つ。


 アイコンの名前は【ニルヴァーナ】とある。

 英単語の意味としては涅槃ねはんを意味したはず。インド仏教の教えで煩悩ぼんのうを捨て去った先にある悟りの境地。

 同名のアメリカのバンドをオレは愛していたが、開いてみるとさくらのブログサイトだった。

 そこには月に4回程度のペースで日記が更新されており、最初が中学一年生の時から始まっている。

 全ての記事を確認したが、オレという高科さくらのパーソナルはこれでほぼ理解できた。


 高科の家は江戸時代から続く名家らしく、いわゆる由緒正しき家で、そこの長女である母ゆりは父と恋愛結婚をした。

 父は国内外で活躍するジャズピアニストで、一年中ツアーの為にどこかしらに出かけている。

 ただマメだったらしく、クリスマスと結婚記念日だけは必ず帰国していたらしい。


 さくらはそんな父親に憧れ、幼少時からピアノを習う。

 そこで才能を見出され、著名ちょめいな教師に師事して、高校を出ると都内にある音大に行くはずだった。

 だが高校二年の春、通学中にバスの事故に巻き込まれて左腕を損傷そんしょう。全治二か月の重傷だ。

 その際に神経をやられ、手術とリハビリで動く様にはなった物の、以前の様なプレイは出来なくなり奏者そうしゃとしての道は閉ざされた。


 彼女の日記は途中から別人が書いたかのように印象が変わる。

 最初はいかにも年頃の女の子と言う風に、何事にも嬉々ききとした印象。

 通学中に見かけた花の写真を載せていたり、とても楽しそうなのだ。

 だが事故以降、自分の心を淡々とつづるだけの機械的な物に変化。

 他人事のように俯瞰ふかんした様な文調で。冷徹れいてつ客観性きゃっかんせいで。


 東京に住んでいるのは、音楽に強い高校に通うためで、その為にこのマンションに住んでいる。

 ここは分譲マンションで、元々は高科の家の持ち物だったらしいが、母が家督といくつかの財産権を放棄ほうきする事で手に入れたらしい。

 それもさくらの為と言う訳じゃ無く、父との結婚がそもそも高科の家からは反対されていた様で、母は父との愛を選択し、結果本来手に入るべき物を放棄する事で自由を手に入れたと言う流れ。


 要は高科家は代々女ばかりが生まれてしまう家系で、その都度婿養子を迎えていたようだ。

 なので基本的には長女が婿を取って家を継ぐ。

 家業として東海地方一帯で百貨店とスーパーをチェーン展開する資産家で、現在は母の妹が当主を継いだそうな。


 で、問題のさくらは高校を卒業した後、特に何かをするでもなく日々を生きていただけ。

 この静かな城を手にする代わりに死なないと言う条件を母親とかわし。

 この年で持つにしては大きすぎる預金は、事故の保険金だと言う。

 親から与えられた訳ではないようで何故か安心した。


 WEB上の日記にあったのは、とにかく彼女は世間が嫌になったと言う事。

 目に映る全ての色を失い、ただ人形の様に生きていた。

 かと言って死ぬ勇気も無く、日々虚無きょむを垂れ流すだけだった。

 それも今日で終った――――筈だった。


 キッチンの脇にあったゴミ箱。

 そこにとあるゴミが捨てられていた。

 見覚えのある錠剤の入っていた銀色のゴミ。


 中身はハルジオンだ。

 所謂、睡眠薬。

 どうやら彼女、心療内科にせっせと通い、眠れないからと処方されたこれを貯め続け、一気に飲んだらしい。

 その数44。


 果たしてこれで死に至れるのかは知らないが、彼女はようやくく決断したらしい。

 だから彼女は下着もつけずに貫頭衣めいたワンピース姿だったのだ。

 几帳面で神経質。これも間違いかも。

 立つ鳥あとにごさずじゃないが、きっちり整理して死のうとしたのか。

 真相は誰にも分からない。だって遺書いしょめいた物はないし、それを匂わすメールも無かった。


 唯一、ブログの最後の更新にあった、「ワタシのセカイはクライ」という一文が、この世への決別だったのかも。

 クライは暗いでもあり、CRYなのかもしれないな。


 そもそもスマホにあった母や姉への定期的なメールは、「今日は晴れ 今日は雨」みたいなその日の天気を短文で知らせるだけの物しかないもの。

 それに対し彼女たちは自分たちの近況を克明こくめい記載きさいし、メールの容量の限界に挑戦するみたいな長いメールを返している。

 これがさくらと家族のコミュニケーションの在り方だった。


 なるほど、さくらよ。

 君の事は理解できるし同情もしなくもない。

 やったなさくら。

 君の願いは成就じょうじゅしたぞ。

 だって君は死ねたのだから。


 その代償だいしょうに、オレという人生が上書きされてしまったけどね。

 ねえさくら。勘弁してくれよ。

 オレは女の生き方なんか知らないぞ。

 これは偶然なのかもしれない。

 でもオレ、君になっているんだ。


「……寝るか」


 またもやオレは思考を放棄ほうきし、睡眠へと逃げた。

 腹は減っていたが、冷蔵庫に唯一残っていたシードルを一気飲みして我慢した。

 微発砲のリンゴのワイン。悲しい事に酔いも出来ない。


 クッションに身を預けて照明を落とした天井を眺める。

 変な気分だ。

 そしてオレはワンピースをたくし上げ、戯れに女のそこを指でなぞりあげてみる。


 ぞくぞくして嬌声が漏れる。それを他人事のように思いつつ。

 嗚呼なるほど、オレはもう女なのだ。

 ドロドロの粘液でコーティングされた指を眺めてそう思った。

 結局3回ほど達したけれど、残った罪悪感はとても酷かった。




 ――――あほくさ。




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