第2章 炎の剣
第8話 水盤
王都を旅立ったフルートは、一日中、街道を北西に進み続けました。
シルの町から通ってきた西の街道はずっと平坦な道でしたが、北の街道と呼ばれるこちらの道は緩やかな登り道になっています。
ゴーリスも言っていましたが、整備された街道は国境までで、その先は険しい道が遠い北の山脈まで続いているのです。
そして、こちらの街道もやっぱり黒い霧におおわれていて、村や町の人たちは家の中で暗く沈んでいるのでした。
夕方が近づいてあたりが見えにくくなってきた頃、フルートは大きな町に着きました。
ガズムという名前の宿場町です。
王都に近いせいか町の中は明るくて、旅姿の人がたくさん歩いていました。皆、それぞれに食事や買い物をしたり、今夜の宿を探したりしています。
夜が来れば暗闇で進めなくなるので、フルートもここに一晩泊まることにしました。
町のあちこちには宿屋の看板が出ていて、門口ごとにかがり火がたかれていました。
フルートが、どの宿屋がいいだろう、と考えながら、馬を引いて歩いていると、突然、知らない男の人に腕をつかまれました。
「若旦那様、今夜のお宿をお探しですか? それなら、ここになさいませ。安心してお泊まりになれますよ」
フルートは、「若旦那様」なんて呼ばれたのは初めてだったので、びっくりして振り向きました。
長いエプロンをしめた男の人が、うやうやしく頭を下げました。
「どうぞどうぞ、小さな旦那様。国王様のお使いですか? それとも公爵様の? 当店は国王様もお泊まりになられるほどの
宿屋の客引きでした。
フルートは立派な鎧兜を身につけていたので、王都から来た貴族の子弟だと思われたのです。
「あの、ぼ、ぼくは……」
フルートはあわてて説明しようとしましたが、客引きの男は耳も貸さずにまくし立てました。
「大丈夫です、大丈夫です。この店は本当に安心できる、良いお宿でございます。貴族の皆様方からいつもご愛顧いただいております。幸い今夜は最高級のお部屋がひとつ空いてございます。国王様専用のお部屋の、その次に立派なお部屋です。若旦那様にも必ずやご満足いただけますよ。さあ、どうぞ――」
とうとうフルートは大きな宿屋に引き込まれてしまいました。
フルートが案内されたのは、確かに立派な部屋でした。
ふわふわの分厚い羽毛布団のベッド、純金の金具の家具、
一番大きな部屋の真ん中には立派なテーブルとソファがあって、あふれんばかりの果物やお菓子が器に盛られています。
うぅん、とフルートは思わずうなりました。
どう見てもこの部屋はフルートには豪華すぎます。宿代も、きっとかなり高いことでしょう。
フルートは国王から旅費として金貨の袋をいただいていましたが、それを無駄遣いしたくはありませんでした。
「部屋を変えてもらわなくちゃ……」
とため息混じりにつぶやきます。
部屋の片隅には水盤がありました。
壁から彫刻の鳥の頭が突き出していて、くちばしから水がちょろちょろ流れ出しています。泊まり客が手を洗ったり、水を飲んだりする場所です。
フルートはなんだか
ところが、備え付けのカップを差し出したとたん、水盤に注ぐ水がぴたりと止まりました。
「?」
フルートが目を丸くしていると、今度は鎧の胸当ての中から、シャリリーンと鈴を振るような音が響いてきました。
フルートは、はっとして、急いで鎧の胸元からペンダントを引き出しました。
魔法の金の石が、脈打つように強く弱く輝いています。
そして、その光に応えるように、水盤の表面に何かが映り始めたのです──
それは、渦巻く黒い霧でした。
この付近よりずっと濃い霧が、煙のように渦を巻きながら湧き出しているのが見えます。
渦の中心に何か黒い丸い影も見えます。
フルートは身を乗り出して影をのぞき込みましたが、目をこらしても見極めることはできませんでした。
闇そのもののように深くて底なしの暗がりが、霧の渦の中心で徐々にその濃さを増しています。
そして、どこか遠くからこんな音が聞こえてきました。
シュウシュウシュウ……ザラザラザラ……
何かの息づかいと、堅いものがこすれていく音です。
フルートは反射的に背中の剣に手をかけました。
水盤から
背筋をぞおっと冷たいものが走り抜け、全身が総毛立ちました。
見えない黒い腕が伸びてきてフルートに絡みつき、取りすがります。
息が詰まり、すさまじい力に全身を持っていかれそうになります――。
とたんに金の石は輝くのをやめました。
すると、水盤の上の影もたちまち崩れるように消えていって、水の上には何も見えなくなってしまいました。
息づかいやザラザラという音も、まるで空耳だったように、まったく聞こえなくなります。フルートの体もまた自由になりました。
フルートは水盤の縁をつかんでのぞき込みました。
もう、いくら目をこらしても何も見えません。ただ、澄んだ水が水盤いっぱいにたまっているだけです。
チョロチョロチョロ……
彫刻の鳥の口からまた音をたてて水が注ぎ始めます。
そこへ、入り口の扉をノックして宿屋の主人が入ってきました。
こぎれいな身なりの太った男で、丁寧な物腰でフルートに頭を下げます。
「これはこれは、小さな子爵様。当館にようこそおいでくださいました。お部屋はお気に召しましたでしょうか? ご希望がございましたら、何なりとお申し付けください――」
宿の主人もフルートを貴族の子どもだと思いこんでいましたが、フルートはもうかまわずに尋ねました。
「この水盤はなんですか!? ただの水盤ではないですよね!?」
「さすが、身分ある方はお目が高い!」
と主人は大げさな声を上げました。
「これは当旅館の自慢の
宿の主人は好奇心の目をフルートに向けていましたが、フルートはそれには答えずに、また水盤を見ました。
真実を映す水盤──では、さっき見えた、あの影は? そして、それと一緒に聞こえた、あの音は……?
水盤越しに伝わってきた邪悪な気配を思い出して、フルートはぞっと身震いをしました。
圧倒的な深い闇でした。あれがこの黒い霧の
フルートが物思いにふけってしまったので、宿の主人は黙って引き下がっていきました。貴族相手に宿を営んでいるだけあって、礼儀作法はちゃんとわきまえていたのです。
まもなくフルートが見たこともないほど豪華でおいしい夕食が運ばれてきました。食事と一緒に、給仕が三人もついてきました。
食後には温かい風呂が続きの部屋に準備されて、風呂係だという男の人と女の人がやってきました。
夜になると、寝物語のお相手を、と綺麗な女の人が二人も部屋にやってきました。
フルートは手伝いの人たちをすべて断ると、ひとりで食事をしてひとりで風呂に入り、それから水盤のわきにソファを引っ張ってきて、そこで布団にくるまりました。
もう一度、水盤の上に何か見られないかと考えたのです。
けれども、フルートが夜通し見張っていても、水盤にはもう二度と何も現れませんでした。
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