せせらぎ、黄昏、揺れる少女
虹音 ゆいが
少女
「……あれ?」
呆けた声。
わたしは、ふわふわとした心地でそこに立っている。
「ここ……どこ、だろ」
心の内を声にしてみても、誰も何も言わない。そこには、わたし一人。
右手には、川。対岸が見通せないくらいに大きい。
その向こうには、全く見通せないほどじゃないけど、星の光が呑み込めそうな暗闇が広がっている。
左手には、道。コンクリートで舗装されてもいない、大小さまざまな小石が好き放題に転がる畦道。
曲がりくねり、木の枝のように無数に枝分かれして伸びているその道の向こうは、仄明るい。山吹色を帯びた、暖かな光が包み込んでいる。
「夕方……? 帰らなくちゃ」
わたしは考え込む。ここはどこだろう、と今度は心の中で呟く。
答えはない。応えもない。なら、仕方ない。
「家、こっちかな」
ちくり、とわたしの胸を差す痛み。怪我、かな? すぐに消えたからいっか。
わたしは、歩き出す。
川沿いの砂利道を歩く。じゃりじゃりと地面をこする音が心地いい。
少し歩くと、川の傍でうずくまる男の子がいた。頭を抱えるその子に、わたしは自然と声をかけた。
「どうしたの?」
男の子は静かに顔を上げた。あどけなく、とても可愛らしい。
「頭、痛いの。お姉ちゃん、治し方知ってる?」
「分からないけど……痛いからって押さえつけるのは良くないかも」
わたしはしゃがんで、その子の頭を優しく撫でてあげた。
少しでも楽になってくれたら嬉しいな。しばらくそうしていると、男の子が笑顔を見せた。
「ありがとう、お姉ちゃん。痛くなくなったよ」
「そっか。良かった」
わたしも、笑った。その子が笑ってくれることが、とっても嬉しかった。
「僕、お父さんとお母さんのとこに戻るね。お友達も待ってくれてると思う。お姉ちゃんも、一緒に行かない?」
「ううん、大丈夫だよ。お姉ちゃん、やることがあるから」
「うん、分かった。元気でね、お姉ちゃん」
「君も、元気でね。気を付けて帰るんだよ」
「うん」
男の子はぶんぶんと手を振り、ちょっと道に迷いながらも意気揚々と走っていく。その背中が光の向こうへ消えるまで見送った。
わたしは、歩き出す。
風が冷たい。少し肌寒いけど、それ以上に心地いい。
また人を見つけた。杖を片手に持ったおばあちゃんだ。
川の傍の大きめの石に腰掛け、ぼんやりと川の向こうを見ている。
「何してるんですか?」
わたしは、当たり前のようにそんなことを聞いていた。
おばあちゃんは、わたしを見ない。
「考えていたの。この川の向こうには何があるんだろう、って。あなたはどう思う?」
川の向こうには、薄暗闇。おばあちゃんの丸眼鏡には何が映っているんだろう。
「分かりません。けど、よく分からない所に行くのは、ちょっと怖いです」
「ふふ、そう? お嬢さんくらいの年頃だと、よく分からないものに興味津々だったりしないかしら?」
わたしは少し考える。
「興味がないわけじゃないですけど、怖い事には変わりないと思います」
「そう。勇気があるのね、お嬢さんは」
おばあちゃんはにこりと笑みを浮かべ、わたしを見た。わたしも笑い返す。
「おばあさんこそ、川の向こうに行きたいんですか?」
「どうかしらねぇ。自分でもよく分からないわ」
「そうですか。……あの、今日はもう遅いですし、日が暮れる前に帰った方がいいと思います。川の向こうなんて、いつでも行けますよ」
光の方を指さす。おばあちゃんは杖を突き、よろよろと立ち上がった。
「そうしましょうかね。お嬢さんも、一緒に帰る?」
「いえ。わたし、まだこの辺りを歩いてみます」
「そう。寒いから、風邪をひかないようにね」
「おばあさんも、お気をつけて」
おばあちゃんは覚束ない足取りながら、ゆっくりと確実に光の方へと歩んでいく。
わたしは、歩き出す。
光と闇の狭間で、わたしは歩き続ける。
誰とも会わず、ただただ前へ。川のせせらぎに急かされるように、足を動かす。
少しずつ日が暮れていく。光が弱まり、闇が深まる。
「家、こっちで合ってるのかな」
それが分からないのが、何よりイヤだった。
ここがどこなのか。わたしの歩く先に家はあるのか。この川の向こうには何があるのか。あとどれくらい歩けばいいのか。
まだ日は暮れていないのに、わたしの歩いているそこは真っ暗闇。
「ねぇ、怖いよ」
どうしてわたしがこんな目に? わたし、何かしたのかな?
誰か助けてよ。お願いだから、助けてよ。
お願いだから……、
「……あ」
願いが通じたのか、変わり映えのしない世界に見慣れないものが現れる。
舟だ。いや、小舟か。人が数人乗れればいい方だろう。
そして、小舟の上には人が一人。わたしは、駆け出していた。
「あのっ、すみません」
息を切らせながら、わたしはその人に声を掛ける。
編み笠を被った、変わった風貌の人だった。顔は良く見えないけど、体つきからして多分男の人。
「お嬢ちゃん。向こうまで、乗ってくかい?」
男の人は低めの声で言った。多分、船頭さんか何かなんだろう。
近くで見ると、小舟はすごくオンボロだった。沈んでないのが不思議なくらい。
わたしは大きく息を吸い込んだ。
「わ、わたしの家、知りませんか?」
何を訊いてるんだろう、わたしは。知ってるわけないのに。
恥ずかしさに顔を伏せる中、船頭さんはゆっくりと腕を持ち上げ、
「あっちさ。乗らないならとっとと帰りな」
わたしの背後……弱々しくなってきた光の方を指さして、船頭さんが静かに言う。
何で知ってるの? そう問いかける事も忘れ、わたしは一礼して踵を返す。早く、日が暮れるまでに帰らなきゃ。
「きゃっ……!」
だけど、それ以上踏み出せなかった。光へと繋がる道に足を踏み出した瞬間、見えない何かに突き飛ばされた。
砂利道に倒れこんだ私は、痛みを堪えて体を起こす。光は少しずつ、けれど確実に消えていく。
こっちじゃないよ。誰かにそう言われてるような、そんな気がした。
「……あぁ、そっか」
わたしはその時、唐突に理解した。
ううん、違う。薄々感じていた事に、向き合わなければならなくなっただけ。
もう、遅いんだって。
わたしはゆっくり立ち上がる。真っ白の服にこびりついた石を払い落としながら、男の子とおばあちゃんに思いを馳せる。
あの子には、きっと待ってくれている人達がいるんだろうな。
おばあちゃんにも、きっと帰るべき場所がある。あると、いいな。
じゃあ、わたしは?
わたしにも、待ってくれている人はいるのかな?
帰るべき場所は、あるのかな?
うん、大丈夫。きっといる。きっとある。きっと。
「でも、ごめんね」
待ってくれている人の顔も、当たり前のように呼んでいたはずの名前も、帰るべき場所の風景も。
わたし、何一つ思い出せないんだ。
すべてがぼんやりしていて、真っ暗なんだ。
あの子とも、おばあちゃんとも違って、空っぽなんだ。
だから、
「わたしは、行かなきゃ、ダメなんだね」
わたしはダメだったけど、あの二人は光に帰してあげられた。最後の最後に、わたしは正しい事を出来たんだ。
踵を返す。もうほとんど消えかかった光に背を向ける。わたしには、眩しすぎる。
今にも沈みそうなオンボロの小舟。ゆっくりと片足を乗せる。船頭の男の人は何も言わない。
「さようなら。そして、ありがとう、みんな」
空っぽの心で絞り出した言葉は、少しだけ暖かくて。
届くはずがない。でも、届いたらいいな。
「あり、がとう……っ」
溢れ出す雫を拭う事も出来ず、わたしは船に乗り込む。
ぎぃ、と軋むように、オンボロの小舟が泣いた。
せせらぎ、黄昏、揺れる少女 虹音 ゆいが @asumia
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