フェイク ヒーローズ

ジャコブ

第0話 プロローグ

あの夏の夜、菅原すがはら新士しんじは空から落ちた。


世界がひっくり返ったかのように、輝く星空が頭の上から足の下へと加速した。新士は大きく息を吸い、全身の筋肉をゆるめて手足を広げた。


頬骨ほおぼねをサラッとした空気がそっとなぞり、首、胸、腹、そして足まで誰かがやさしくいるように感じた。服は荒れくるう波のように揺れ、頭の天辺から足の爪先を冷たい微風びふうのベールで覆う。この感覚はまるで逆様さかさまに乗った夜のジェットコースターの気分だった。


目をゆっくり閉じて新士は数分ほど前の記憶を思い出す。


******


それは真夜中を一人で散歩していた記憶だった。月の光が反射して、深紅色のレンガでできている橋にたどり着いたとき、急に反対から誰かが向かってきたことに気づいた。相手は黒いフードをかぶって肌を一切見せないように長ズボンと長袖を着ていた。新士は彼と目を合わさないようになるべく早く通り過ぎようと思ったが、その男の横を通った瞬間、彼が新士に話しかけてきた。


『願い事が一つ叶うとしたら、君は何を願う?』


新士は彼の言葉を聞いた瞬間、振り向いてしまった。


まともに考えてみたら、知らない人に自分の心をさらけ出すことなんて普通するはずがない。新士も普段なら彼みたいな人を無視していたけど、今は違った。


心が不安定だった新士は冷静ではなかった。胸の中が空っぽだった彼は他人と喋りたかった。悩みを語りたかった。誰かに頼りたかった。心をさらけ出したかった。


だからつい、本音を伝えてしまった。


「僕は特別になりたい。僕だけにしかない何かが欲しい。そして他人に認められるほど、立派になりたい。」


新士が言い終えた途端、とんでもないことを見知らぬ人に言ってしまったことに気づいた。


だが、相手は新士の答えをからかうどころか、むしろ同情してくれた。


『かわいそうに。君はいろいろ苦労してきたのか。』


彼の目はフードの影で見えなかったが、口角を上げた不気味な笑い顔をはっきりと記憶に焼き尽くした。


『では君の願い、叶えてあげましょう。』


彼がそう喋った途端、周りの風が急に強く吹き始めた。すると新士が寄りかかっていた橋の欄干らんかんがまるで手品みたいに急に消えて、新士は頭先に橋から落ちた。両手を前に出してフードの男に助けを求めたが、彼は気味悪い笑顔を見せながら新士が落ちる瞬間を見送るだけだった。


新士は心の中で思った。


「(橋がもろかったのか?それとも彼の仕業?いや。もう関係ない。恨んでも、もう遅い。このまま、僕は死ぬんだ。)」


そして現在、新士は空中を逆様で落ち続けた。


視線をゆっくり上げて地面を見てみると、乾きついた川があった。新士は確実に死への片道切符を獲得した。


今さら何もできない新士は目をつぶり、人生最後の瞬間を味わう。映画でよくある死の直前に人生全ての記憶がよみがえるその瞬間をまさに今新士は経験していた。頭の中に自分の人生すべての記憶が破裂した水風船の水みたいにあふれ出てきた。


思い出したくなかった記憶。


辛い記憶。


泣いた記憶。


あまりにもきつい記憶だった。自分の歯をぐっと噛んで目をぎゅっと閉じた。そして新士は願った。


「(この数日間の記憶をすべて消したい!すべてなかったことにしたい!)」


だがその時、記憶の角からまぶしい光が差し、頭の中を明るく照らしてくれた。


笑った記憶。


嬉しかった記憶。


楽しかった記憶。


友達と家族の記憶。


そして自分の好きだった記憶。


それを思いだしたとき、新士は気づいた。


「(僕は……僕は……)」


新士は迷った。


もうつらい思いはしたくなかった。けどこのまま死ぬ選択を選びたくなかった。


「(そうだ……まだ僕はやりたいことがたくさんあるんだ!……そうだ。僕はまだ生きたい!)」


目を開けて頭を回しながら必死に助けを求めた。そして声に出して最後に思いっきり叫んだ。


「誰か!!助けてくれ!!僕は……まだ死にたくない!!」


新士は目を閉じ、最後の一瞬を迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る