第165話 グレンフィディック
☆
グレンフィディック・サウザンドはエリィ達が帰ったあと、パンジーをなだめるのに三十分ほど使い、夕食を済ませて執務室へ戻ってきた。執事がいれた熱い紅茶をゆっくりと啜る。目を閉じればエリィ・ゴールデンの優しげな瞳と、よく笑う口元が思い起こされ、無意識に唇が開いた。
「あの娘は、美しいな」
「……さようでございますね」
パンジーにジャックと呼ばれていた執事も、グレンフィディックの意見に同意する。太っているという事前情報は完全に吹き飛び、屋敷へ案内する際に彼女を見てあまりの衝撃に全身が数秒凍りついた。ここまで驚いたのは何年ぶりか彼にも思い出せない。あの子は美しいだけでなく、力強さがあり、人を惹きつけてやまない魅力があった。
「あの女に鼻筋と口元が似ている」
思い出のアルバムをなぞるように、グレンフィディックは息を吐き出した。
彼の言い方が妙にはっきりしたものだったので、執事のジャックはほんの僅かだけ目を細めると、肯定する代わりにティーカップへ新しい紅茶を注いだ。
「いかがされるおつもりで?」
普段はこういった突っ込んだ質問はしないが、ジャックは気になり、それとなく尋ねる。
グレンフィディックはめずらしい執事の質問をおかしいと思うこともなく、部下たちに集めさせた資料へ目を落とした。
「情報を精査すると、ミラーズはバイマル商会と敵対しているようだな。バイマル商会がミスリルの値上げを行っている店は、軒並みミラーズと取引をしている。大方、ミスリルを餌に自陣へ各店を引きこもうという腹だろう。ミラーズの生産力を削ぎ、自陣の生産力を上げる方針だ」
「気品が欠如したやり方ですが、効果は相当なものでしょう」
「このまま放置して、あの娘がどのように立ち回るか見てみたくもある」
「見ものではございますが……」
「ああそうだ。それではパンジーが何を言うか分からん。ミラーズが潰れでもしたら、わしが一生あやつに恨まれるだろう」
「あの熱の入れようです。一生恨む、というお言葉は本気でしょう」
「誰に似たのか頑固なところがあるからな」
サウザンド家の人間は古くから頑固者の気質を有していた。それは時を経て変貌し、今のグレイフナーでサウザンドといえば、“凝り性”という代名詞に変わっている。その中でもグレンフィディックの馬好きは特に有名で、彼は各国から全種の馬を集めて飼っており、拡張工事は一度や二度では済まず、どの家よりも馬小屋が大きかった。
この場でいう“頑固”は、サウザンドの先代を指す軽いブラックユーモアだ。
ジャックはわずかに口角を上げると、ティーカップをトレーに乗せ、代わりにブルーベリーに似た果実の皿をグレンフィディックの前へ置いた。
「が、一時的に嫌われるのも仕方がない」
「旦那様……?」
グレンフィディックが灰色の目を光らせ、不敵な笑みを浮かべた。
「わしは、エリィが欲しい。サウザンド家に招き入れたい」
「それは……」
さすがのジャックも、長年連れ添ってきた彼がここまではっきりと己の欲を宣言すると思わなかったため、驚きが表情に出てしまった。
「おぬしでも驚くか……。だがな、今日エリィに会ってわしははっきりと分かった。どう記憶を閉じ込めようが、あの女の思い出は消えぬ。エリィに会ってまざまざとあの若かりし頃の青春が浮かんできた。なに、年寄りのたわごとだと笑ってくれていい」
「笑うなど……」
「ジャック。エリィを養子としてサウザンド家で引き取るぞ」
「なっ! 本気でございますか!?」
ジャックは主人の言葉に、思わず声を荒げてしまう。
グレンフィディックの孫にあたり、今年で十七になるホォンシューと結婚させてサウザンドに嫁入りさせるのかと予想していたのだ。それが、まさかの養子宣言。確かに古来より子宝に恵まれない貴族同士で養子のやりとりはなされていたものの、互いに十分跡取りがいる場合、よほどのことがない限りは出てこない話題だ。
ましてやサウザンド家もゴールデン家も、子どもがいる。ゴールデン家は女しかいないが、婿養子を取ればそれで済む話だ。女当主として代替わりをしてもいい。
何よりエリィが承諾するとはジャックには到底思えなかった。今日話した感触では、彼女も相当に芯が強い。養子にしてやる、はいそうしましょう、とはならない。絶対に揉める。
「養子にすれば正式にわしの子どもだ」
「それは……そうでございますが。アメリア様とのことはどうされるのです」
「どうされるのです、とは?」
「会わぬわけにもいかないでしょう。自分の子どもを養子に出すのでございますから」
そうは言ったものの、ジャックはグレンフィディックの瞳に自責と懐古の光が宿る様子を見つけ、言葉尻が小さくなった。
「あやつはわしに会おうとはしないだろう。自分の母親を捨てた相手だぞ?」
「それを旦那様が言われるのですか?」
主人のあまりの倒錯ぶりに、ジャックは諫言を投げる。
捨てた女の孫を、養子として引き取るなど向こうが承諾するはずがない。
「エリィは四姉妹の中で唯一の光適性者だ。これに運命を感じずにいられるか?」
「……」
「無理を通すのがサウザンドだ。わしの最後のわがままだと思ってくれ」
「さようで……ございますか……」
ジャックはあきらめた口調でつぶやき、恭しく一礼した。
グレンフィディックは過去の女に捕らわれ、妄執を己の心でこじらせている。普段ならばこのような意味不明な行動を彼は取らず、理知的であり、六大貴族の当主らしい人物であった。
それを壊すほど、あのエリィという少女は強い光を放っていた。眩しく輝き、美しく、まるで婉美の神クノーレリルのような慈愛に満ち、周囲を明るく照らす光魔法と同じ温かさを有していた。そのすべてが、グレンフィディックにとっては猛毒だったのかもしれない。
ジャックはこの先の展開が読めず、異物を大量に飲み込んだような胃のむかつきを覚え、頭の奥がじんわりと硬化していく思考の不明瞭さを感じ、いいようのない暗い感覚を味わった。とにかく自分の仕事をやるだけ、と言い聞かせ、当主が正気に戻るまで見守る決意を固めた。
窓の外では暗闇に紛れたヒーホー鳥が、ゆったりと長い声で鳴いている。
このときばかりはのんきに鳴いている臆病者の鳥を、ジャックは羨ましく感じた。
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