第45話 日本にて
病室は静かであった。
生命維持装置の機械音だけが、無縁慮に静寂の中で響いている。
「ったく小橋川よお……お前のせいでプレゼンは惨敗だ……」
小橋川の同僚であり高校からの親友である田中は、真っ白い顔をした寝たきりの友人を見下ろしていた。
「お前がうちの会社にいるありがたさがよくわかったよ……だから頼む…目を覚ましてくれないか。お前がいないとみんな暗いんだ」
当然、返事はない。
黒塗りの高級車に轢かれて意識不明の重体。生きていることが奇跡に近い、と医者が言い訳がましく言っていた。
「まさかお前も香苗ちゃんのところに逝くつもりか?」
田中の独白は続く。
「あの子が死んでからお前がちゃんと恋愛できないのは知っていた。お前は絶対に認めようとしなかったけどな。何が千人斬りだよ。誰かと付き合う度に傷ついていたくせに……」
田中は無表情で眠っている小橋川が、段々といつものふてぶてしい態度を取っているように見えてきて、なんだが腹が立ってきた。小橋川は田中がまじめな話をすると、聞いていないフリをしたり茶々を入れたりする。いつでも自信満々で俺は何でもわかってるぜ、という態度をするのだ。
「あと、女の子を脱がす前に乳首の色を当てるゲーム、同期の女子が聞いててめっちゃ引いてたぞ。それに賭けても確認できるのお前しかいないから賭けにならねえよ。お前ほんとバカだよな。頭いいくせにバカだよな」
乳首、という単語に、ピクッと反応したような気がした。田中は食い入るように小橋川を見つめる。変化はないようだ。呼吸器と点滴の管がなんとも痛々しい。
「巨乳。乳首。スレンダー美人。Tバック。下乳。挿入。未経験。合体。どM」
思いつく限りの小橋川が好きそうな卑猥な言葉を田中は淡々と羅列する。ひょっとしたら、と思ったが小橋川に反応はない。
「お前が狙ってたA社の営業だけどな、すまんが俺がいただいた。食事の約束を取り付けてある。残念だったな」
小橋川に反応はない。
「田中さん?」
突然後ろから声をかけられ、田中は素早く振り向いた。
病室の入り口にはプレゼンメンバーである佐々木がいて、なぜか呆れた顔をしていた。
「田中さんは病人に卑猥な言葉を言う性癖が?」
「佐々木ちゃん違うからね。これはそういうアレじゃないから」
「アレ?」
「いやアレっていうか…何て言ったらいいのか」
若くてキレイ系女子に若干引かれて焦る田中。
「ほんとですか?」
「こいつがエロい言葉に反応するかもって思って実験してたんだよ」
「ああ」
佐々木は納得がいったようだ。
こんな説明で納得される小橋川は常にアホでスケベな言動をしていたようだ。正真正銘のバカだ。
二人は小橋川の病室を掃除して、花瓶の水を入れ替え、しばらく雑談した。出てくる話題は小橋川の事と、準備していたプレゼンの内容がメインだ。とりとめもなく、思いつくままに話をする。小橋川の話題には二人とも事欠かない。
会社からも異端児扱いされており、営業力、プレゼン能力は折り紙付き。人の上に立って取り纏める能力はそこまでなかったものの、天才的な発想とコミュニケーションの上手さで、どこのチームに入っても問題のない人材だった。自分で自分のことを『スーパーイケメン営業』と言っていたのでチームメンバーのありがたみは半減していたが。
「わたし思ったんですけど、もし小橋川さんが女だったら凄まじくモテると思うんですよね」
「こいつが女? 想像したこともないな」
「他の部署の子が、一瞬だけ小橋川が窓によりかかってぼーっとしているところを目撃したそうなんですよ。そのときの顔が女の子みたいだったって言うんですね。確かに言われてみれば、角度によっては中性的な顔に見えますよね」
「まあ、そうかもな……」
田中はそう言われて寝たきりの小橋川を眺める。
二十九歳の顔にしては皺一つない。
「この性格と能力で女の子。すごくないですか?」
「俺は完全に手玉に取られるね」
「でしょう?」
「どこかの誰かに憑依したらやばそうだな」
「それはとんでもないことになりますね。その子、きっとすごい美人になりますよ」
「あーなんかそれ分かるかも。こいつ変なところで完璧主義だし」
「いつもふざけてますけど自分に厳しい人ですからね」
「バカだけど」
「スケベですけど」
そう言って二人は笑い合った。なんだか小橋川が寝たきりのまま「うるせーよ!」とツッコミを入れてきた気がしたのだ。
「どこに行っても何かしらヤラかしてそうだよな」
「ですね。それこそ常識を破壊していそうです」
「俺たちも何度破壊されたか…」
「悔しいですけど、この人は天才です。本人には言いたくないですけど」
「言ったら調子乗るだけだな」
「意識不明のくせして不敵に見えるってすごいですよね」
「たしかに」
「今にも起き上がって、うそでしたードッキリ大成功、とか言いそう」
田中と佐々木は軽く笑ったあとに小橋川を見てため息をついた。
彼の顔は白いままだ。
「田中さん。小橋川さんが目を覚ます可能性って……」
恐る恐る、といった様子で佐々木は聞いた。
「0.001パー」
「れーてんれーれーいちぱー……?」
「十万人に一人の割合だな」
「つまり十万人の中に目を覚ました人が一名いたってことですか?」
「そうらしい。まあ奇跡って言ったほうがしっくりくるな」
「こういう言い方は好きじゃないですけど、はっきり言って絶望的ですね」
「それでもこいつなら、って俺は思ってる」
「そう……ですね」
田中は真剣な表情でベッドに眠っている小橋川を見つめていた。現実主義の佐々木は複雑な心境で田中と小橋川の寝顔を交互に見やり、悲しめばいいのか笑えばいいのか分からず曖昧な笑みをこぼした。
病室には心電図の音だけが一定のリズムで響いていた。
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