一矢

DA☆

一矢

 八回の表ワンナウト一塁三塁、敵さんの七番打者の打球は、当たりはよかったがセカンド曽根の真ん前だった。どうにかダブルプレーを成立させてチェンジ。


 その瞬間、監督め、快哉を叫びやがった。


 気持ちは解らんでもない。この夏の、県大会屈指の右腕を擁する優勝候補を向こうに回して、ここ一二年間一回戦を勝ち抜いたことのない我が高校が、なんと最後の九回まで戦う権利を得たのである。一〇点コールド制のこの大会、もちろん、校内に流れていた戦前の下馬評は三回コールド、佐々木がよくもって五回コールドだろう、だった。


 キャプテンにしてピッチャー佐々木はここまでよく投げた。打撃だって全国レベルのチーム相手に九点しか取られていない。あの忌まわしいくじ引きを済ませてきたのはキャプテンなんだから、当然の責任であるが。その佐々木に言わせると、「だいたいあいつらがノーシードってのがおかしいんじゃ!」なのだが、あの右腕は、悲しいかな一年生なので、春大会の成績には関係していない。そう、悲しいかな、おれたちは一年生相手に三振の山を築いているのである。


 スコアは当然のように○対九。八回の裏も、速球変化球とりまぜてのらりくらりと攻めてくる一年生右腕の前に、三振ふたつを含む三者凡退でチェンジとなった。これで三振は一七。県大会奪三振記録は確か一九だから、おれたちは、九回まで戦う権利と同時に、めでたくそれを破っていただく権利まで得たのである。いやいや、それ以前に、おれたちはまだ、ヒットどころか、ひとりのランナーも出していない。完全試合も夢ではないのだ、ってされる側のおれが言ってどうする。


 とはいえ、もともと勝てるなんて思ってないから、とかく守備面で目立つ上々の健闘に、ベンチの雰囲気は明るかった。今だって、あのピッチャー卑怯くせぇとか、石ぶつけてやれとか、とかくベンチから声が出ているというのはいいことだ。


 「ここまでふんばったんだ。あと少し、もう少しふんばってこうぜ! ファイトゥ!」

 「オゥッ!」


 キャプテン佐々木が檄を飛ばして円陣が解かれ、おれたちは九回表の守備に散った。


 空は青く晴れ渡っていた。最高の野球日和だ。おまけに、観客らしい観客はまばらなこの狭い球場に、応援団だけは双方陣取り、声を嗄らして応援合戦を繰り広げている。野球部の応援くらいしかやることがないんだから連中もたいへんだが、おれたちの最後の夏にはふさわしからぬ、できすぎた舞台に思われた。乾いた砂を蹴立てて、守備位置へ走る。


 ……最後の夏、とはよくいったものだ。


 少なくとも、高校のユニフォームを着るのは、この九回で最後になる。だが、あまり実感はない。はっきりいって、おれたちの夏は、一回戦の対戦相手が決まった時点で終わっていた。今後、もう二度と、ユニフォームを着ることはないだろう。少なくとも一〇年くらいは、グラブを手にすることさえないんじゃないだろうか。


 別に、野球が取り立てて好きなわけではない。入部したのは、とりあえず運動部に身を置きたかったが、できるだけ楽そうなところがいいなと思ったのと、小学生の頃親にむりやりリトルリーグに行かされた経験があったからだ。確かあの時は飽きて半年でやめたんだったっけ。


 女子マネージャーなんて夢また夢。必死こいて部員獲得作戦を繰り広げても、毎年春に入部してくるのはせいぜい五人程度。おれたちの代は四人だった。三年になれば、おれみたいに打撃はすかんぴんでも、自動的にレギュラー格上げが決まっている。そこそこ足が速いというだけの理由で、センターのポジション。


 監督がいい加減なヤツなので、試合もせいぜい月に一回。練習は、サッカー部とグランドを取り合いながら週に三日、放課後二時間だけだった。練習の後、ゲーセンにいる時間の方が長かったような気がする。


 そんな野球部の、二年半。おれ、佐々木、キャッチャーの出井、それからサードの野沢。いつだってばかばかしくチームメイトだった。今日負けても、おれたち同期の四人の関係が変わることはない。ただひと区切りがつくというだけ。おれたちは、おれたちの敵のように、勝つために野球をやってきたんじゃないのだから。


 それでも、なんだか、いつものセンターの守備位置が、やけに遠い。


 「先輩」


 ライトで、打順はおれの次の九番の柏木が、話しかけてきた。彼は二年だからまだ来年がある。


 「やっぱ、くやしいっすよね」

 「まぁな……」

 「次、僕と先輩に打順回ってきますよね。こっちから当ててきませんか」

 「わざとデッドボールか?」

 「バントですよ! ダメもとでやりましょうよ、完全試合はヤですよおれ」

 「バントもできねーよ、あの球は」

 「でもやっぱし、このまま負けるのは……」

 「その意気を覚えてるうちに、打順が来ればいいけどなァ」

 「はい?」


 柏木はおれの言葉の意味がよく解らなかったようだが、マウンド上の佐々木はもう限界だった。球威が落ちてるのがセンターからでも解る。さっきの回も、一点で済んだのは、ダブルプレーに救われたんだ。初戦から、おれたちみたいな弱小相手にあの一年生をもってくるくらいだから、敵さん、獅子は兎を捕らえるにも全力で、という心構えできている。……もともと、テクニックで抑えられるピッチャーじゃない、佐々木はこの最終回、コテンパンにされるだろう。


 予想通りになった。


 今日めだっているのは、野沢を中心とした内野陣の好守だが、おれたち外野陣だって、とにかく長打は許さないという目標のもと、よくがんばった。八回まで、三塁打二本、二塁打四本に抑えた。上出来だ。


 だが、この回だけで外野オーバーを四本打たれた。スコアはたちまち、○対一五になった。この回六点取られて、なお、ノーアウト満塁。いよいよ、実力差らしい試合展開になってきた。


 頭にきていたが、どうにもならなかった。自分の守れる範囲にくれば絶対アウトにしてやるのに、みんなそう思っていたろうが、守れる範囲に守れる打球の速度でボールが飛んでこない。


 『やっぱ、くやしいっすよね』柏木のさっきのセリフが頭の中をぐるぐる駆けめぐる。○対一五。完全試合で負ける。これが、せいぜいおれの野球に妥当な最後の夏だ。だが、この場は、とにかく今は、腹に据えかねる。なんとかできるもんなら!


 マウンド上の佐々木の状況はいっそう悪くなっていた。次の打者に、ボール、ボール、ストライク、ボール。全部緩いストレートだ。カウントワン-スリー。次の球、どうぞ打ってくださいと言わんばかりの、最低のカウントだ。でかいのが来るぞ、と思ったおれは、こころもち守備位置を下げた。


 ストライクを取りにいくしかない佐々木の次の投球は、やはり打ちごろの甘い球。待ってましたとばかりに金属バットが一閃する。快音がした。


 そのときおれは、人生には運があるのだと知った。


 そう、おれたち素人に毛が生えた程度の選手には、どの野手に打球が飛ぶか、そんなのは運だ。行き当たりばったりに来た打球を処理する。それでずっとやってきた。


 だから、まっすぐに弾き返されたその打球が守備範囲に飛んできたとき、おれは頭にかっと血が上るのを感じた。左中間のややセンター寄り、かなり深いところ。さっきまでなら完全に破られているところだが、少し守備位置を下げていたのが幸いした。打球は速かったが、おれは落下点に入ることができた。ダイレクトキャッチでワンナウト。


 当然タッチアップしてくる。だが三塁ランナー、そんなに足が速くない!


 「んでゃらぁぁぁぁぁぁあぁぁっ!」


 おれは、何が何だか解らない叫び声をあげながら、思いっ切りホームに返球した。


 矢のような返球。おれには今まで、こんなシチュエーション自体がなかった。最初で、最後の、明確すぎる肩の痛み。


 ホームで構えるキャッチャー出井のミットに、ボールはワンバウンドで吸い込まれた。ランナーはそこに、まるでタイミングを計ったかのように突っ込んできた。出井がランナーをミットでぶんなぐってツーアウト。同時に、ネット際にバックアップに走っていた佐々木が、疲れた体から声を振り絞って叫ぶ、「サード!」二塁ランナーは、おれが三塁に返球しないのを見てから、やや遅れてタッチアップしていた。出井からやはり矢のような送球がサード野沢へ。ランナーのスライディングと、三塁ベースの間を、野沢のグラブが塞いだ。審判の拳が鋭く高く上がる。……スリーアウト。球場全体が、一瞬しんと静まり返り、それからわずかにどよめいた。


 トリプルプレー。


 最後の夏となる四人の間で成立した、なんだかんだ言ってみんなで何度も練習した、セットプレー。「こんなの、実戦であるわけねーよな」とか言いながら。


 おれは、自分の手のひらを見つめながら、ベンチに駈け戻った。おれのこの手が、あの球をほうった。


 ベンチの前でおれは立ち止まり、立ち尽くした。高い青空を見上げた。なんだか涙がこぼれそうだった。


 意味は、少し違うかもしれないけれど。この、どこから見てもワンサイドゲームで。


 おれたちは、おれたちにできる方法で、確かに一矢を報いたんだ。




 九回裏最後の攻撃は、曽根が見送り三振、おれが空振り三振、柏木がスリーバント失敗記録は三振で、試合はあっけなく終わった。○対一五。


 完全試合に、奪三振新記録。不名誉な記録をふたつも残して、おれたちは負けた。一三年連続一回戦敗退のおまけつきだ。結局、おれたちの打球は、一発も外野へ飛ばなかった。


 こうしておれの野球は終わり、おれは、地獄の補習授業の待つ学校に戻った。


 もちろん、教師の間でも生徒の間でも、あのトリプルプレーのことが話題に上ることはなかった。むしろ、廊下を歩いていると、女生徒にくすくす笑われたりした。みんなが知っているのは、新聞にも報じられた完全試合と三振記録の方で、トリプルプレーのことは誰も知らないのだった。


 だけど、おれには解った。おれの手には、あのボールの感覚が、今なお残っている。手をぎゅっと握り直せば、球場の芝の色までが、まざまざとよみがえってくる。


 こいつはいい思い出なんかじゃない。努力の実りや達成感でもない。人生には必ずチャンスがある。チャンスが生きれば、何かが起きる。そうだ。おれには一矢を報いる能力がある。


 がらんどうの未来が、少しだけかたちになった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一矢 DA☆ @darkn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ