第110話 『先生』

 春の温かな日差しが心地いい。

 けれど、そんな中でも、ジェノは自宅の裏庭で毎日の日課を繰り返していた。


「えいっ!」

 威勢のいい掛け声とともに、ジェノは木剣を振り回す。

 だが、まだ八歳になったばかりの幼い体は、木剣の一振りに体勢が崩れて、毎回つんのめってしまう。


 その事を歯がゆく思いながらも、ジェノは木剣を振り回し続ける。


「やぁ!」

 ジェノはいろいろな姿勢から木剣を振る。唯一の手本である、兄の動きを少しでも真似できるようにと。

 けれど、その都度バランスを崩してしまい、木剣は手をすっぽ抜け、顔から地面に転倒してしまった。


「くそぉっ……。どうして、上手くいかないんだ!」

 ジェノは地面から顔を少し上げて、地面を右手で悔しそうに叩く。

 この三ヶ月程、懸命に木剣を振っているが、全く上達しない。その事に、ジェノは苛立ちを押さえられない。


 理由は分かっている。

 自分は誰からも剣術を教わっていないからだ。


 本当は街の道場に通いたい。きちんとした先生から剣を習いたい。


 でも、ペントは自分が危ない事をするのを嫌がる。それに、剣術を習うとなればお金も掛かる。

 いつも自分のために頑張って働いてくれている、ペントと兄さんにこれ以上お金を出してなどとは言えない。


 ジェノは首を左右に振り、重い気持ちを吹き飛ばして立ち上がると、少し離れたところに落ちてしまった木剣を拾う。


「強くなるんだ、僕は。大切な友達を、家族を守れる男になるんだ!」

 もう握力が殆ど残っていない手で懸命に木剣の柄を握る。そして、それを振り被ろうとしたときだった。


「坊っちゃん。ジェノ坊っちゃん! また、そんな無茶をして!」

 背中から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

 そして振り返ると、想像通りの人間がそこに立っていた。


「ペント……」

 丸メガネを掛けた恰幅のいい初老の女性の名前を、ジェノは口にする。


 本当は、彼女の名前はペンティシアと言う。それは一応ジェノも知ってはいるが、物心ついた頃からずっと『ペント』と呼んでいるのだから、今更この呼び方を変えるつもりはない。


「ああっ、手の皮が剥けているじゃあありませんか! ばい菌でも入ったら大変です。今、お薬を持ってきますから、もう剣のおもちゃで遊ぶのはおやめ下さい」

 ペントは、ジェノに駆け寄って来るなり木剣を捨てさせて、ジェノの小さな手のひらを見て慌てる。


「大丈夫だよ、これくらい。それに、僕は遊んでいるんじゃあない。僕は強くなりたいんだ。だから、剣の練習をしているんだ!」

 ペントが心配してくれているのは分かったが、ジェノは少しムッとして言う。

 断じて、これは遊びなどではないのだ。


「坊っちゃん……」

 けれど、ペントが目の端に涙を溜めて懇願してくるのを見て、ジェノの胸は痛む。


「……ごめんなさい。ペントに心配をかけてしまって。でも、僕は強くならないと……」

 ジェノは涙を浮かべるペントに、頭を下げて謝る。


 すると、ペントは嬉しそうに微笑み、ジェノをその大きな体で抱きしめた。


「ジェノ坊っちゃん。坊っちゃんはまだ子供です。そんな風に無理をして強くなろうなどとしなくてもいいのです。私が、ペントがついております。それに、兄上様もおられるのですから」

 ペントの温もりが心地良い。けれど、ジェノは頭を振る。


「でも、ペント。僕のせいで、ロウは死んじゃったんだ。僕の大切な友達で、家族だったのに。だから、僕は強くならないと……」

 ジェノには物心ついた頃から大切にしていた友達が、家族が居た。

 その家族の名前はロウ。

 真っ白な綺麗な猫で、ジェノといつも行動をともにしていた。


 けれど、三ヶ月程前にゴブリンと呼ばれる魔物にジェノが襲われそうになった際に、ロウは彼を庇って殺されてしまったのだ。


「お優しいジェノ坊っちゃんが、ロウの事で未だに心を痛めていることは、ペントも知っております。けれど、いつまでも悲しんでいては、ロウも浮かばれません。ロウの事を思うのならば、坊っちゃんが笑顔にならなければいけませんよ」

 そう言いながら、ペントは優しくジェノの頭を撫でる。


 その行為はずっとジェノを安心させてくれる。

 でも……。


「ペント……。それでも、僕は……」

 ジェノはこみ上げてきそうになった涙を懸命に引っ込める。


 ロウのお墓の前で、自分は誓ったのだ。

 強くなると。もう泣いたりしないと。


「坊っちゃん。今日は坊っちゃんの大好きなポトフですよ。さぁ、お家に入りましょう」

「……うん」


 これ以上何を言っても、ペントを困らせるだけだと思い、ジェノはペントの言葉に従う。

 けれど、ジェノの心には、強くならなければいけないという気持ちが溢れそうになっていた。








 季節が暑い夏に変わった。

 けれど、ジェノは勉強やお手伝いの時間以外は、もっぱら木剣を振り続けていた。


 それは、その日も同じだった。

 炎天下の中でも、ジェノは木剣を振り回す。

 やはり未成熟な体では、遠心力の加わった木剣の重さに耐えることが出来ず、何度もバランスを崩してしまう。


 強くなりたい。

 でも、強くなるために何をすればいいのか分からない。

 今できることは、何度か見せてもらった兄さんの動きを、記憶をたどって真似することだけだった。


 けれど、仕事が忙しいため、兄さんとは冬からもう顔を合わせていない。

 だから、お手本を見せてもらうわけにもいかない。


 せめて見るだけでもと思い、街の道場を覗いたことも何度かあったが、同年代の子供の姿はなかった。

 そして、その道場の関係者に見つかって、「君にはまだ早い」と言われてしまった。

 元々、お金もないので通えないのだが、そう言われたショックは小さくなかった。


 八方塞がりだった。

 強くなりたいのに、その方法が分からない。教えてくれる人もいない。


 でも、この胸の思いは日増しに大きくなるのだ。

 強くならなければいけない。

 今度は、僕が守れるようにならなければいけないのだと。



「坊っちゃん、ジェノ坊っちゃん!」

 いつものように、ペントが走って来た。

 ジェノは、今日の稽古はここまでにしないとけないと思った。


 だが、ペントは思わぬ事を口にした。


「坊っちゃん。坊っちゃんの、剣術の先生が来てくださいましたよ」

 満面の笑みを浮かべて、ペントが言ったその言葉の意味を、ジェノはしばらく理解することが出来なかった。


「ペント? 今、なんて言ったの?」

 ジェノが尋ねると、ペントは笑みを強める。


「ふふっ。ですから、坊っちゃんの剣術の先生が来てくださったんですよ。私が相談したところ、デルク様が、ジェノ坊っちゃんのためにと先生を雇って下さったのですよ」

「えっ……。ほっ、本当なの! 僕のために、兄さんが?」

「ええ。本当ですとも。デルク様は先日も大きなお仕事を成功させたとのことで、ペントの他にも人を雇えるようになったのです。

 先生には、ジェノ坊っちゃんの剣術の先生と護衛をお願いすることになりました。今日から私達の家に一緒に住んで頂くことになりますので、仲良くしてくださいね」

 ペントが涙を浮かべながら嬉しそうに言う。


 ジェノもあまりの嬉しさに涙がこみ上げてきてしまったが、なんとか堪えた。


「ペント。その先生は、もう家の前にいるの?」

「ええ。坊っちゃんをお待ちですよ」

「うん。分かった!」

「ああ、坊っちゃん! ペントを置いていかないで下さい!」


 ペントの声も耳に入らなかった。

 やっと、やっと剣術を学べる。その嬉しさで頭が一杯で、ジェノは早く自分の先生を一目見たくて仕方が無くなってしまったのだ。


 いかにも達人といった雰囲気のお年寄りだろうか?

 それとも、厳しそうな人だろうか?

 もしかすると、意地悪な人かもしれない。


 でも、関係ない!


 自分は強くならないといけない。

 そのためなら、どんなことでも乗り越えてみせる。


 ジェノはそう決意を新たにし、家の入口に走る。


 一体どんな男の人だろう?

 期待と不安を両方持ちながら、ジェノは裏庭の角を曲がった。


 けれど、そこでジェノは困惑する。

 家の入口には、一人の女性が立っているだけだったのだ。


 見間違えではない。

 兄さんと同じくらいの、十五歳くらいの女の人。


 紫の髪を肩の辺りで切りそろえて、黒い上着の上に、短い白いジャケットを身に着けている。

 その開かれたジャケットから分かる大きな胸の膨らみは、間違いなくその人が女の人だということを表していた。


「はぁ、はぁ、坊っちゃん、速すぎです……」

 ようやく追いついてきたペントが、呆然とするジェノに声をかけてくる。


「ペント……。あそこには、女の人しかいないよ。その、先生はどこにいるの?」

 ジェノはなにかの間違いであって欲しいと思い、ペントに尋ねる。


 けれどペントは不思議そうな顔をし、

「ええ。あの女性が坊っちゃんの先生ですよ」

 笑顔でそう言った。


 ジェノの高揚感は、音を立てて崩れていく。


 だが、そんなジェノの胸中など知らず、紫髪の若い女性はこちらに向かって歩いてきた。


「へぇ~。ペントさんが可愛い男の子だと言っていたけれど、本当に可愛いのね」

 女性は腰のスカートのベルトに剣を差している。

 どうやら、ペントの言うことは間違いないようだ。


「初めまして、ジェノ。私の名前はリニア。先生って呼んでくれると嬉しいわ」

 愕然とするあまり言葉を失うジェノに、リニアと名乗った少女は、満面の笑みを向けてくるのだった。

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