第50話 『口惜しさ』

「ありがとうございます。いいお湯でした」

 イルリアは、満面の笑みを浮かべてお風呂場から出てきた。

 革鎧や機能性を重視した無骨な旅の格好から、年頃の女の子らしい衣装に着替えた彼女は、同性のメルエーナから見ても驚くほど綺麗で魅力的だ。


 美しい赤髪に、それ勝るとも劣らない美しい顔立ち。

 瞳には力強い光が宿り、とても頼りがいがありそうな強さと美しさが両立されている。

 それに、何より……。


「ごめんね、メル。先に入らせてもらって」

「いいえ。気にしないで下さい。お客様優先です」

 メルエーナはにっこりと笑顔を返したが、隣で洗濯をしていた母のリアラは、「ほほう、これは……」と興味深そうに、イルリアの豊かな胸に不躾な視線を向ける。


「う~ん、メルにもこれくらい胸があればねぇ。色気で完全に負けてしまっているのが悩みどころね」

「訳のわからないことを言わないで下さい! イルリアさんに失礼です!」

 メルエーナは怒って、母に文句を言う。


「あらっ? 男の子はみんな、おっぱいが大好きなのよ? 由々しき問題じゃない」

「ですから、そういう事を平然と言わないで下さい!」


 あまりにも開けっぴろげな性格の母に、年頃のメルエーナは、怒りと羞恥で顔を真っ赤にさせて抗議する。


 どうしてメルエーナが自分の家で、彼女の悩みの種でもある体型をイルリアと比較されているのかというと、全てこの困った母が原因だった。


 自分と父に内緒で、ジェノとイルリアに護衛を依頼していたかと思えば、今度は突然彼らを夕食に招待すると言い出したリアラ。

 だが、彼女は更に、イルリア一人を先に家に招待すると言い出したのだ。


『こんなに可愛い上にスタイルの良い女の子が、一人で公衆浴場に行ったり、無防備に宿で眠ったりするなんて危険だわ! 私の家に来なさい! 大丈夫、ベッドに空きがあるから。ああ、もちろん洗濯物も全部持ってくるのよ』

 イルリアは驚き、遠慮したが、結局は強引な母に押し切られて、家にやってくることになってしまった。


 いや、たくさんお世話になったイルリアを家に招いて、お風呂と安全な寝所を提供することには、メルエーナも賛成こそすれ反対するつもりはなかったのだが、あまりにも母が強硬に家に来るように言ってしまったことが申し訳ないのだ。


 申し訳ないと言えば、父には更に悪いことをしたと思う。


『というわけで、あ・な・た。ジェノ君と二人で公衆浴場に行って、体をしっかり洗ってきて。そうね……二時間くらい掛けてゆっくりしてきてね。それまで、我が家は男子禁制よ』


 イルリアを家に招くことを決めると、母は父に、お願いという体裁をとりながらも拒否を許さない笑顔でそう告げた。

 結果、父は物悲しそうに公衆浴場に向かって行った。


 一瞬だが、あの普段感情をあまり見せないジェノが、哀れみの表情を浮かべていた気がしたのは、見間違いではなかったのかもしれない。


「メル。その、なかなか凄いお母さんね……」

「すみません、イルリアさん……」

 苦笑するイルリアに、メルエーナは心底申し訳無さそうに謝る。


「でも、羨ましいわ。いいお母さんね」

「えっ?」

 少し寂しげな表情をしたように見えたが、イルリアはすぐに微笑んだ。


「メル、貴女もお風呂に入りなさい。分かっているの? 今の貴女は、年頃の女の子が決して男の子に見せてはいけない顔をしているのよ。

 イルリアさんには先に昼食を食べてもらって休んでもらうから、貴女も体をしっかり綺麗にして、食事と睡眠を取らないと!」

「はっ、はい」

 昨日は水場でタオルを使って少し体を拭いたものの、入浴はできなかったので、メルエーナもお風呂に早く入りたい。


「イルリアちゃん。服の洗濯は、貴女が眠っている間に全て終わらせておくから安心して。大丈夫、裏庭に干しておけば、誰の目にも止まらないから」

「……何から何まですみません。ありがとうございます」

 イルリアは頭を下げて、リアラに感謝する。


 やはり、女性が旅をするというのは、いろいろと大変なようだ。

 けれど、それでも……。


「いいのよ。私の大切な家族を守ってくれたお礼なんだから。ほらほら、遠慮しないで。昼食の用意も、ベッドの用意もばっちりできているから、食べたらしっかり休んでね」

「はい。お言葉に甘えさせてもらいます」

 イルリアが母に促されるまま食卓についたので、メルエーナは浴室に向かうことにした。







 髪と体をしっかりと清めた。それから湯船に体を浸すと、思わずメルエーナの口から安堵のため息が漏れた。

 母に見られてしまったら、また色気がないと怒られてしまいそうだが、それを抑えることはできなかった。


 本当に、大変だった。

 こうしてみんな無事に帰ってこられたことを、後でしっかり神様に感謝しておかないといけない。

 もちろん、改めてジェノさんとイルリアさんにも。


「……怖かった……」

 あの三人の冒険者見習いが、自分に向けていた視線を思い出すだけで、メルエーナは体が震えてしまう。


 今まで、過保護な父の事を少し煩わしく思っている部分もあった。

 だが、あの下卑た笑みと欲望を自身に向けられて、メルエーナは自分がどれほど父に守られていたのかを理解した。


 冒険者達がこの村にやってきた頃から、外出を禁止されていたことをずっと不満に思っていたが、今なら父と、そして母の気遣いが分かる。

 自分は、何も分かっていない子供だったのだ。どれほど愛されて守られているかさえ理解できずにいたのだから。


「それに、私は何もできない……」

 いざという時に自分を守ることもできない。いや、それどころか、何をすれば良いのかさえ分からなかった。


 そして、自分はそれなりに料理が得意なつもりだったが、野営の際に料理を作る事もできなかった。簡易的なかまどの作り方など全く知らなかったのだ。

 さらに、ジェノの料理を口にして、その素晴らしさに驚き、喜ぶのと同じくらいに、別の感情がメルエーナに芽生えていた。


「……悔しいです。ジェノさんは、私と同じ年で、男の人なのに……」

 自分は料理人になると決めている。だが、どれほど自分が未熟で物を知らないのかを、嫌というほど見せつけられてしまった。

 それは、母の真似事を少しできるだけで自惚れていた自分の殻をたしかに壊してくれたが、口惜しい気持が抑えられない。


「私はもっと料理を、いいえ、それだけではなく、いろいろなことを学んで身につけたい」

 ずっとメルエーナの心のうちで燻っていた気持ちが、今回のことで燃え上がった。


 できることならば、村を出て、もっと勉強をしたい。

 でも、自分はあまりにも世間知らずすぎる。


 それに、村を出てどこで暮らす事ができるのだろう?

 お金の蓄えなど殆どない。

 いや、そもそもこの村を出ることなど、父も母も許してはくれないだろう。


 ……現実は残酷だった。

 結局、自分はこのままずっとこの村で暮らしていくしかできないのだ。


「メル……」

 不意に、母の声が聞こえた。


 そちらに視線を移すと、お風呂場の入り口のドアを一枚隔てたところに母が立っているようだった。


「はい」

 メルエーナが返事をすると、リアラは、


「良かった。お風呂場で眠っていないか心配だったのよ。イルリアさんももう眠ったから、貴女もそろそろ上がって、お昼を食べて休みなさい」


 そう優しい声で言ってくれた。


「……あの、お母さん。少し相談したいことがあるんです……」

 母の優しい声につられて、メルエーナは思わずそう口にしてしまった。

 しまったと思ったが、もう遅かった。


「そう。やっぱりね。そんなことだろうと思っていたわ」

 てっきり、いいから早く休むようにと言われると思っていたが、リアラはそう言ってくれた。


「お父さんには相談できないものね……」

「お母さん……」

 娘の気持ちを察してくれた母に、メルエーナは心から感謝する。


「大丈夫よ。貴女は私の自慢の娘なんだから。だから、安心して。私は何があってもメルの味方よ」

「……ありがとうございます。……お母さん……」

 優しい母の言葉に、メルエーナは涙さえこみ上げてくる。


「だから、大丈夫! 胸くらいすぐに大きくなるわ! なんせ私の血が流れているんですもの!」

「…………えっ?」

 母の言葉に、メルエーナの涙は引っ込んでしまう。


「それに、仮に大きくならなくても大丈夫よ。私がしっかり指導してきたから、形はものすごく良いんだから。清楚な貴女が見せる、その美しい胸を見て、男の子が黙っていられるはずがないわ!」


「そんな事は聞いていません!」

 メルエーナの怒声が、浴室に響き渡る。


 母に相談しようとした自分の愚かさを呪い、メルエーナはお風呂から上がることにするのだった。

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