第34話 『気配』
「あの、何処かでお会いしたことはありませんか?」
自分は何を言っているのだろう、と今更ながらにメルエーナは思ったが、発してしまった言葉を戻すことはできない。
もう手遅れだった。
絶対に変な娘だと思われたに違いない。
「村長さん、この子は? 今回の依頼に関係があるのですか?」
黒髪の少年はメルエーナから顔をそらし、村長に尋ねる。
その顔からは、すっかりと驚きの表情は消えていて、感情がまるで読めない。
「あっ、いえ、この娘は、メルエーナと言いまして、今回の案内人の娘です。普段はとてもおとなしい娘なんですが……」
メルエーナが突然声をかけておかしな事を口走ってしまったことを、優しい村長は庇ってくれる。
「……メルエーナ?」
黒髪の少年はそう自分の名を口に出すが、やはり感情の変化が顔に出ないため、メルエーナには彼が何を思っているのかまったく分からない。
「すっ、すみません。うちの娘がお話の邪魔をしてしまいまして」
駆け寄ってきたリアラが、そう言って村長達に頭を下げた。メルエーナも慌てて「突然、すみませんでした」と非礼を詫び、母に倣う。
「いえ。謝罪は結構です。私はジェノと申します。そして……」
「イルリアです」
名前を聞いてしまったからなのだろう。黒髪の少年と彼の隣にいた赤髪の少女が挨拶をしてくる。
「これはご丁寧に。リアラと申します。そして、こちらが娘のメルエーナです」
母に改めて紹介されて、メルエーナは再び頭を下げた。
「さて、自己紹介も済んだところで、話を戻してもよろしいですかな?」
「はい」
村長さんがそう切り出して、それにジェノが同意したことから、リアラとメルエーナ達は、「失礼します」と断って、家に戻ることにする。
「もう。驚いたわよ。貴女があんな大胆な事をするなんて思わなかったわ」
距離が離れて、誰にも声が聞こえなくなってから、リアラが話しかけてくる。
「そっ、その、ごめんなさい、お母さん」
メルエーナは謝ったが、リアラはにんまりといった笑みを浮かべた。
「何を謝ることがあるのよ。うん。あの出会い方はありよ、あり。インパクトは十分。それに大丈夫よ。貴女みたいに可愛い女の子に声をかけられて、不快になる男の子は居ないわ!」
「あっ、あの、お母さん。私は別に、あの人……その、ジェノさんに対してそんな下心があったわけじゃあないです。本当に何処かで会ったことがあるような気がしてしまって……」
メルエーナは先程の自分の考えなしの行動を反省する。
けれど、実際に会って声を聞いてしまったら、その気持ちはますます強くなってしまった。
「出会ったことがある気がする、ね。でも、ずっと貴女はこの村から出たことはないわよね?」
「それは……」
母の言うとおりだ。自分は生まれてからずっとこの村を離れたことはない。でも、それでも……。
過去に体験したことがないのに、同じような体験をしたことがある感覚。それは『既視感』と呼ばれるもの。だが、メルエーナはその言葉を知らない。そのため、自分の胸のその気持ちが整理できず、何とも収まりが悪い。
顔を俯けるメルエーナに、リアラは微笑み、口を開く。
「なら、こう考えたらどうかしら。きっと、この出会いは運命なのよ」
「うっ、運命? そっ、そんな! 今日、初めて出会ったのに……」
そうは思いながらも、自身の頬が熱を発するのを抑えられない。
「あらあら。顔を真っ赤にしちゃって。これは完全に一目惚れね、一目惚れ」
「ちっ、違います。本当に、何処かで会った気がするんです!」
メルエーナはそう言ってぷいっと顔を横に向ける。
リアラはそんなメルエーナに微笑みを向けていたが、不意にそれが消えた。
「ねぇ、メル。さっき、村長さんが貴女のことを紹介したときに、変なことを言っていなかったかしら?」
「変なこと? ええと……。あっ、そうです。私のことを案内人の娘と言って……」
「うん。そうよね。どういうことなのかしら? あの子達も例の貴族様の荷物の捜索に来たのなら、うちの人が案内人になることなんてありえないわよね?」
村の近くの森のことであれば、父のコーリスも精通しているが、件の山近くの森までとなると、流石に距離がありすぎて管轄外だ。
「まぁ、いいわ。流石にこれからすぐに森に入ることはないでしょう。帰ってきたら聞いてみるわ」
まだ明るいとはいっても、これから太陽は沈んでいく一方だ。母の予想は正しいとメルエーナは思う。
「メル……。私の顔から視線を逸らさないで」
「えっ? はっ、はい」
不意に真顔になったリアラが、メルエーナだけに聞こえる大きさでそう言う。
「このままのペースであの角まで歩くわよ。でも、角を曲がったら全力で家まで走るわ」
「はっ、はい」
ただ事ではないことを悟ったメルエーナは、母と談笑をしている様に見せかけながら、言われるがままに歩き続ける。
「今!」
角を曲がったリアラと一緒に全力で走り出す。後ろを振り返ることなく真っ直ぐに。
それが良かったのか、メルエーナ達は何事もなく自分たちの家に帰り着くことができた。
「はぁっ、はあっ。おっ、お母さん。いっ、一体何が……」
家に入るなりドアを施錠する母に、息も絶え絶えのメルエーナが尋ねる。
「もっ、もう。だっ、駄目よ。あんなに分かりやすい気配に気づかないなんて」
リアラも息を整えながら、メルエーナを嗜める。
「私達、いいえ、間違いなく貴女を追いかけてくる人が居たわ。逃げる最中に確認したら、ちょっと小柄の男の人だったわね」
「えっ? 私を?」
驚くメルエーナに、リアラは嘆息する。
「まったく、あの人が過保護に育てたものだから、こういったところが少し抜けてしまっているのよね。貴女は。
いいかしら? 何度も言っているように、貴女は可愛いの。だから、男の人が放っておかないのよ。ただ、そういった貴女に向けられる感情が、必ずしも好意的なものとは限らないの。その辺のことをしっかり自覚しなさい」
リアラはそう言うと、メルエーナの頭を叩く真似をする。
「自分の身は自分で守らないと駄目よ。嫁入り前の大切な躰なんだから。その辺りの教育は、私が付きっきりでしっかりしてきたでしょうが」
「はっ、はい……」
一般教養としてだけではなく、自分の身を守るためにと、メルエーナは母から性的な知識を教えられている。
ただ、その、何がとは言わないが、あまりにも実践的な内容も多かったので、メルエーナは羞恥のあまりそれを思い出すと赤面してしまう。
基本的な知識だけで十分なのに、どうしても自分の母の場合、普通の家の娘以上のものを教え込もうとしている気がしてならない。
「恥ずかしがらないの! 大事なことよ。自分を守るためには。そして、貴女が全てを委ねたいと思える人が現れたときにも、あの知識は役に立つわ。私達がいつも側についていられるとは限らないのよ」
「はっ、はい。分かりました」
メルエーナはリアラにそう答え、頷く。
「それなら、早く手を洗ってきて準備をしなさい。今日は久しぶりに料理を見てあげるわ」
「はい。お願いします!」
母の言葉に元気を取り戻したメルエーナは手を洗うために水場に向かう。
だが、これからの調理のことで頭が一杯になっていたメルエーナは気づかなかった。
母であるリアナが、顎に手を当てて何かを考えていた事に。
◇
久しぶりに料理ができるということで、メルエーナは嬉しかった。だから、一生懸命に家族のための夕食を作ることにする。
「うん。これなら大丈夫ね。ただ、もう五分程煮込みなさい」
「はい。あと、この魚料理なんですけれど……」
メルエーナの家での調理は、他の家で行われているであろう、母と娘で楽しく料理を作るといったものではない。
少し前までは、もちろんメルエーナも母と楽しく料理をしていた。しかし去年、メルエーナが十五歳の誕生日を迎えたときからそれが一変する。
料理人を目指したいという彼女の意思を汲み、母のリアラは、調理場限定でメルエーナの『先生』になった。
料理店のシェフの経験があるリアラに、メルエーナがそうしてくれるように頼んだのだ。
そして、それ以来ずっとメルエーナは先生の厳しい指導を受けて料理作りに精進している。
「うん。まぁ、及第点ね。ただ、前から言っていることだけれど……」
「はい。あっ、そのとおりです。気をつけます」
ただ、メルエーナは母の厳しくも優しい指導を受けて切磋琢磨を続けてきたが、流石に最近は限界を感じてしまっていた。
彼女の調理技術の進歩が頭打ちになってきてしまったのがその理由。
原因は分かっている。一つは、調理に掛ける時間が少ないこと。もう一つは調理環境が整っていないこと。
時折、村の宿屋を手伝うこともしているメルエーナだが、それも流石に毎日という訳にはいかない。だから、どうしてもこの台所でできる技術しか勉強できないのだ。
もちろん、元専門家のリアラが設計を頼んだ台所だ。一般家庭のものとは比較にならないくらい調理器具は充実している。だが、それでも流石に専門店の設備とは比較にならない。
もっと料理を本格的に勉強したい。その気持ちが膨らんでいく。
しかし、そんな事を思いながらも時間は過ぎていってしまう。
メルエーナは何とか全ての料理を完成させて、リアラの許可を得てそれを食卓に並べる。
そして、一通りの準備を整えた頃に、
「今帰ったぞ」
ガッシリとした体躯の男性――父のコーリスが帰宅した。
濃い茶色の髪を短くまとめた筋骨隆々な姿は、とても迫力がある。
「おかえりなさい、お父さん」
「おかえりなさい、あなた」
メルエーナたちの出迎えを受けて、コーリスは相好を崩した。
「おお。リアラも今日は早くに上がってこられたのか」
「ええ。というわけで、今日は可愛い娘の美味しい手料理が食べられるわよ」
「おお、それは楽しみだ。いや、宿の残りも十分美味しいから文句はないんだがな」
コーリスはそう言って外套を脱ぐと、リアラがそれを受け取って所定の位置にかける。
そして、父が手を洗ってきて、久しぶりに普段と同じ夕食の時間が始まった。
「そうだ、リアラ。明日の朝早くに森に入らなければいけなくなってしまったんだ。簡単なものでいいから、朝食と弁当の用意を頼む」
メルエーナ達が尋ねるまでもなく、コーリスが話を切り出してきた。
「あら、やっぱりそうだったの。」
「んっ? やっぱり?」
スープを口に運ぼうとしていたコーリスが、怪訝な顔をする。
「村長さんと話をしたの。そうしたら、冒険者とかいう人たちと話をしていてね。あなたを案内人にするとか言っていたから」
「ああっ、そういうことか。そうだ。実は、ハンクの奴が茸を取りに行くと言って森に入ったきり帰ってこないんだ。そこで、明日の朝から捜索隊を出さなければならなくなってしまったんだ」
コーリスはそこまで言うと、スープを口に運び、「美味いぞ、メル」とメルエーナに笑みを向けてくれた。
「ハンクが? またなのね。まったく人騒がせねぇ」
母の呆れの響きの入った声に、メルエーナも思わず同じことを思ってしまう。
ハンクとはメルエーナの二つ上の男性なのだが、一つの物事に没頭しすぎる性格で、茸やら山菜やらを探しに行っては、必ず年に一度はこうして捜索が必要になる困った人物なのだ。
「ああ。まったくだ。だが、放っておくわけにもいかない。しかし、普段なら村の者を集めて探しに行かなければならないんだが、みんな、この冒険者の来訪への対応で忙しくてな。
そこで、冒険者見習いの何人かに村長が声をかけて、捜索を手伝ってもらうことにしたんだ。そして、その案内人に俺が指名されてしまったわけだ」
コーリスは渋面でそう言ったが、メインの魚料理を口に運び、とても嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「なるほどね。ところで一つ聞きたいのだけれど、その冒険者見習いの人たちは、全員仕事を受けてくれたの?」
「んっ? いや、声だけ掛けて、明日の朝に現地に集合した何人かを連れて行くだけだ。報酬も捜索後に払うらしい。まぁ、村長の話だと、まだ若い黒髪の坊主と赤髪の嬢ちゃんは参加することを確約したそうだから、俺一人で山に入ることはなさそうだがな」
父の言葉に、メルエーナの胸が高鳴った。
黒髪の少年と赤髪の女の子がそんな多くいるとは思えない。間違いなくあの時の二人だろう。
もう一度、あの黒髪の少年に会いたい。話をしてみたい。そんな気持ちが溢れてくる。
「そう。それは好都合だわ。ねぇ、あなた。一つお願いがあるのだけれど」
「好都合? お願い? なんだなんだ。話がまるで見えないぞ」
戸惑うコーリスに、リアラは思わぬことを口にした。
「その捜索に、メルも連れて行ってほしいの」
それは、メルエーナにとっても青天の霹靂以外のなにものでもない言葉だった。
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