episode 1. 赤ん坊の泣き声

 無名の魔法使いは、冷めた瞳で自分が燃やした研究施設を見つめた。

 金糸とも銀糸ともつかぬ少し癖のある長髪が、赤い炎に照り映え風に揺れる。同様に、透明度の高い瞳は、激しい炎の揺らめきをうけて苛烈な光を放っていた。


 灰色の建物は、今や赤い炎にまかれ見えなくなりつつあった。黒い煙がもくもくと太陽のない空へ立ち上る。


 建物内の人間は一掃した。彼らが後生大事にしていた研究資料とやらも、この炎が残らずめとってくれるだろう。


 世界の秩序を乱した者たちへの、当然の報いであった。


 いらないのだ、核兵器など。原子力の研究施設など。

 そんなものは、千年以上の昔に、白い闇に葬り去られた都市伝説でなければならない。現代を生きる人間たちにとって、禁忌ですらあってはならない、完全に無知の領域に属する事柄であらねばならなかった。


 ふと、無名の魔法使い形のよい唇が、自嘲の形にゆがめられた。

(千年前の不手際の後始末をせねばならんとは)

 原子力に関する資料は、燃やし尽くしたはずだった。関係者は抹消したはずだった。

 それでもなお、古い遺跡からその痕跡を持ち出し、研究にいそしむやからは後を絶たない。

(旧世界を滅ぼしたエネルギーを研究することに、どんな意味があるというのか)

 自らの世界を滅ぼすエネルギーを自ら生み出す――その人間の愚かさは、無名の魔法使いの理解をはるかに超えていた。

 もっとも、人間の考えなど理解するつもりなどさらさらなかったが。


 熱風に身を任せる無名の魔法使いの背後から、ゆらりと立ち上がった白い煙のようなものがあった。

 それは次第にはっきりと四足歩行の獣の形を取り、四本の脚を折ってうやうやしく地面に伏した。そのままおとなしく、主人から言葉がかかるのを待つ。まるで巨大なホッキョクグマが、無理やり体をまるめてうずくまるような奇妙さがあった。

「戻ったか、フォ・ゴゥル」

『はい、あるじ様。ご命令はつつがなく』

「そうか、この国の老いぼれどもは死んだか」

 無名の魔法使いの笑みは、氷の彫刻の冷たさを思わせるとともに、抗いがたい魅力に満ちていた。

 フォ・ゴゥルと呼ばれた白い大きな獣は、静かに次の命令を待った。

 無名の魔法使いは、やがて立ち上る黒煙に背を向け、うずくまるフォ・ゴゥルに視線を落とした。

「赤と黒ばかりの景色は見飽きた。私はどこか、緑の豊かな場所でひとやすみするとしよう。お前はしばし、この国に留まれ。国家元首を失って混乱するこの国には、近く憎悪の嵐が吹き荒れるであろう。お前は、存分にそれを食らっておのれの糧とするがよい」

『はい、かしこまりました』

 来た時同様、うやうやしくこうべを垂れるフォ・ゴゥルの隣をすり抜けて、無名の魔法使いは歩を進めた。

 一陣の風が炎を高く巻き上げると同時に、その美しい姿は、殺戮の現場からかき消えていた。


 若々しい緑のぶどう畑の上を、風がはしる。遮るもののない広大な畑を自在に吹き抜ける風は、乾いた土の匂いがした。

 その風に身をまかせ、小高い丘の上から一面のぶどう畑を見下ろす背の高い影。

 無名の魔法使いは、青い空と緑の大地が見渡す限り視界を埋め尽くす光景に満足していた。ぶどう畑は人間の営みの一部。自然との共生を実現したそのやり方を、愛しいと思う。そう、どうせ研究するのなら、今年のワインの味や、来年の葡萄の品種を研究すればよいのだ。それはこの世界の秩序を損なわない。

(大地の香りはいいものだ。しばらくはこの地に留まるとしようか)

 無名の魔法使いは、長い衣をはためかせ、ふわりと空へ舞い上がった。太陽の光をいっぱいに浴びた髪と瞳は、虹色のきらめきを振りまく。長いまつげが、白皙の面に影を落とした。

 夢の中を行くように空を飛び、ぶどう畑、牧草地、民家、協会、小高い丘――そういったものを飛び越え、北に向かった。このあたりは、かつてブルゴーニュと呼ばれていた地域である。牧歌的美しさの中に、人間たちのつつましやかな暮らしがある。

 無名の魔法使いは、森の小道に降り立った。適度に人の手が入った森には、地面にまでじゅうぶん太陽光が差し込み、空を見上げれば木々の新緑が、足元見れば若い草場が瑞々しい息吹を吹きかけてくる。木々の間を吹き抜けるそよ風を受けながら、少し歌を歌った。なんの歌かは分からない。記憶の井戸からふいに顔をのぞかせた旋律を、気の向くままに口ずさむ。

 軽やかな足取りで新緑の森を進んでいた無名の魔法使いの耳に、遠くから弱々しい泣き声が届いた。人間の赤子のようだ。だが、親らしき人間の気配は感じない。

(さて、赤子がひとりなにをしていることやら)

 気付けば、泣き声のほうに向かって足が進んでいた。


 森から集落のある丘へと続く坂道の途中で、赤子は泣いていた。地に伏して動かない母親の腕の中で。その声は今にも途切れそうな、たよりないものだった。

(腹を空かせているのか)

 母親はもう死んでいた。骨が目立つ痩せ細った体はつぎはぎだらけ衣服に汚れたエプロンに包まれ、か細い腕に抱く赤子のくるみも繕いの跡が目立った。

 どの時代にも、どこの国にも、富める者と貧しき者がいるものだ。そう考えると、赤子の泣く声は、貧しさを呪う呪詛のようにも聞こえるのだた。

 無名の魔法使いは、無造作に赤子を抱き上げた。あやしてやるつもりは毛頭ない。単に気まぐれから出た行動だった。

 すると、ピタリと泣き声がやんだ。

 痩せすぎた赤子は、ぎょろりとした大きな目で、無名の魔法使いを見つめていた。じっとただひたすらにこちらを見つめる、この森のような明るい緑の瞳の中に、好奇心の光がちらついている。

 その様子に、思わず笑いを誘われた。

「お前は私を見ても泣かないのか。それどころか、私の本質を見抜こうとでも言うのか、ん?」

 無名の魔法使いが語り掛けると、赤子は「あー」とか「うー」とか意味をなさない返事をした。

「今にも命の灯が消えそうだというのに、のんきなものだ」

 無名の魔法使いの言葉には侮蔑が含まれていたが、赤子はそんなことは気にせず、「あー」と言いながら右手に握ったものを差し出した。

「おや、シロツメクサか」

 赤子が握っていたのは、道端に生えていたシロツメクサだった。一部が枯れてみすぼらしいそれを、何故かこちらに向かって懸命に振る。

 その行動に、無名の魔法使いは苦笑した。

「いらぬよ、そんなもの。お前にやろう。ついでに、その命、拾ってやる」

 このままここに転がしておけば、赤子は母親と同じ運命を辿るだろう。だが無名の魔法使いの魔力ちからを以ってすれば、消えかけた命の灯を再び燃え上がらせることなど容易たやすい。

 左手で赤子を抱えると、右手で包み込むように赤子の痩せた腕を握った。

 その箇所から、魔力が赤子の体内に流れ込む。赤子の体を壊さないようゆっくりと時間をかけて魔力を注げば、栄養状態は改善され、死の足音は遠のいていった。

(まぁ、こんなものか。あとは、これをどこへやるかだが……)

 無名の魔法使いは顔を上げ、森の向こうに続く道を、その道が刻まれた丘を、その丘の向こうに存在する村を視た。肉眼ではなく、魔力で透視したのだ。おせじにも、豊かな村とはいえないようだ。おそらくこの子の母は村から来たのだろうが、そこへ赤子を送り返しても、同じように死の危機を迎えるだけだろう。

 無名の魔法使いとしては、気まぐれとはいえせっかく救った命であるからには、長生きしてほしいと思った。

「仕方ない。南の豊かな村へ連れてゆくか。おい、空の上でぎゃあぎゃあ泣くなよ」

 そう釘を刺し、赤子を抱いて再び空へと舞い上がる。

 言葉が理解できたわけではないだろうが、赤子はおとなしく抱かれていた。相変わらず興味津々のまなざしで、無名の魔法使いを見つめていたが。

「やれやれ、好奇心は猫を殺すという、古い言葉を知らんのか?」

 問いかけた直後に「知るはずがないか」と独語した。赤子の好きにさせるほかなさそうだ。

 空を南下していた無名の魔法使いは、やがて緑の大地に、石造りの建物を見つけた。この国有数の大きな孤児院で、教会に併設されている。

(この教会も、五人の魔法使いを祀っているのか)

 教会の門の上に、赤、青、黄、緑、黒の五色の旗が掲げられている。これは新時代を作ったとされる「始まりの五人の魔法使い」を表す色で、現代ではこの五人を聖人として信仰する宗教が圧倒的に普及している。

 自然崇拝やその他の神を祀る宗教もないではないが、数は少ない。宗教と武力が結び付くとろくな結果を生まないため、いくつかの宗教団体や国をあげてそれを信じる国家については、無名の魔法使いがせっせと滅ぼしてきた歴史がある。

 かといって五人の魔法使いをあがめる宗教を精励しているわけでもないが、消極的な選択の結果、この宗教が信仰を集めるにいたったようである。五人の魔法使いは、無名の魔法使いとは浅からぬ縁がある。無名の魔法使いとしては「あの五人をあがめるのもどんなものかな」と思うのだが、秩序を乱すものでない限り、人間たちの信仰を否定するつもりはなかった。

 孤児院の中庭に降り立つ。子どもたちが遊具で遊び、その様子を見守る黒い衣服の職員たちがいる。その間をゆったりと歩いて、壁際に生える細い木の枝を一本拝借した。無名の魔法使いの手の中で、その枝はみるみる大きく伸び、葉を落とし、くるりと丸まって、木で編んだバスケットが出来上がった。指を鳴らすと、つぎはぎだらけの赤子のおくるみは、清潔な綿で出来たふわふわのタオルに変わった。

 その一連の動作は衆目の中で行われたにも関わらず、誰も無名の魔法使いに注意を払っていなかった。ただ草木がそこにあるのが当然であるように、魔法使いの存在も当然のものとして受け入れられていた。言うまでもなく、これは人心を操って自分を関心の外に置くように仕向けたのである。

 子どもたちのはしゃぐ声の中、無名の魔法使いは石の階段にバスケットを置き、その中に清潔なおくるみに包まれた赤子を入れた。

「あー」

 赤子はあいかわらず大きな目で無名の魔法使いを見つめ、手に持ったシロツメクサを差し出そうとする。

「まだ持っていたのか。お前にやると言ったろう」

 無名の魔法使いは苦笑すると、シロツメクサを受け取り、そっと布にかざした。するとシロツメクサの姿かたちは空中に溶け出し、一本の糸となって布に縫いつき、シロツメクサの刺繍ができあがった。

 自分の周りで何が起こっているのか分からない赤子は相変わらず「あぁーうー」と意味の分からない声をもらし、無名の魔法使いはいささか呆れながら、ぽんぽんと赤子の腹をおくるみの上から叩いた。

「今日からここがお前の家だ、元気に育てよ。もし、お前が私の力を必要とする日が来れば、その時は再び相まみえよう」

 無名の魔法使いは、赤子の右手を取った。手首から肘へといたる白くぷにぷにした腕に、魔力を送り込んだ時につけたが残っていた。人間の目には、赤っぽいあざに見えるはずである。

 無名の魔法使いは立ち上がった。そして誰にも気づかれることなく、つむじ風となってその場から消えた。

 直後、今まで何もなかったところに赤子が捨てられていることに気付き、孤児院は騒然となった。

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