牛になった話

@azuma123

第1話

 誕生日に知人から松坂牛のベーコン、ハムなどの詰め合わせをいただいた。届いた時点で冷凍されており、賞味期限は解凍後一日だという。自宅には小さいサイズの冷蔵庫 (ビジネスホテルによくある、サイコロ型のもの) しかないため、まともな冷凍庫はない。冷凍保存はできない。そう言ってこのままおいていても仕方がないので梱包をほどき、すべてを冷「凍」ではなく、冷「蔵」庫に詰め込んだ。それだけで庫内はギチギチになり、松坂牛の加工肉以外は何も入らない状態になる。要冷凍品を冷蔵庫に突っ込んでいる。今からこの肉の加工品らは庫内でジワジワと解凍されることになり、二四時間もあれば食べられるくらいまでになるのだろう。そして、賞味期限は「解凍後、一日」。タイムリミットは冷蔵庫に入れてから、四八時間である。

 松坂牛の詰め合わせには多量のベーコンやハム、ハンバーグ、ウインナなどが入っていた。わたしは貧民(財布には常に三百円しか入っていない)のため肉、それも松坂牛のような脂ののった、しっかりした肉なんて滅多に食わない。突然肉なんて食うと腹を下してしまう。こんな肉の塊ども、とても四八時間で処理することはできない。腐るのが早いか食うのが早いか、一世一代の大勝負である。

 とにかく毎日のように松坂牛の加工肉を食うことになった。四八時間、二日経過したが半分も減っていない。初日から腹は下し糞の臭いもひどくなっている。従来、朝飯なんて食わないが毎朝ベーコンを食った。外食が常の昼飯には、五枚入りのハムのパックを持って行きコンビニで購入したパンにはさんで食った。晩はウインナやハンバーグを加熱して食えるだけ食った。そんな生活が五日続いた朝、脚が立たなくなってしまった。

 なんだなんだと焦っていても、出社時間は迫ってくる。社畜のためだろうか、こんな時でも「休む」なんて発想は浮かばなかった。試しに壁伝いに立ってみると、まあ、支えがあれば歩けないこともない。杖なんて持っていないため、かわりに傘を持って出社する。傘を杖替わりにヨロヨロと出社したわたしを見、社内の人々はわたしに「ぎっくり腰か」なんて笑いかける。痛みはないためぎっくり腰でないことはわかるが、説明も面倒なので苦笑いを向ける。そもそもなんと説明していいかわからない。最近目に見えて変わったことといえば「松坂牛の加工肉を毎日続けて多量に食っている」ということだが、それが原因だとは限らないし。仕事終わりに、遅くまでやっている整骨院にでも寄ろうかと思っていたが、その日は職場で人間が二人飛び(飛ぶ/「連絡なく来なくなる」の意)、終電までの残業となってしまった。本日も加工肉を多量に食べた。そろそろ終わりが見えてきた。明日、明後日でやっと全て食い尽くせそうだ。

 翌朝、起きてもやはり脚が立たない。九時には出社せねばならぬ。仕事を遅刻し、病院に行こうかと考えるも職場では昨日、二人も人間がいなくなってしまった。穴を埋めるためてんてこまいになるはずだ。まあ、身体に痛みもないしと定時に出社することにした。昨日と同じように傘を杖にする。これが続くなら杖を買わねばいかんなあと考える。社内の人間にはただの腰痛だと思われているため、特段何も言われない。出社してしまえばデスクワークのため、手洗いに立つときと昼飯、帰宅時くらいしか困ることはない。その日も終電までの仕事となり、病院には行けなかった。本日も、三食ともに加工肉を多量に食べた。明日の朝で、全てなくなる計算だ。

 翌朝、ついに支えがあっても立てなくなっていた。痛みはない。身体に大きな黒い痣が複数できている。さすがに病院に行く必要があるなと携帯電話を手にする。会社の電話番号のあとに、発信ボタンを押す。すでに出社していたらしい同僚が電話に出て、社名を名乗った。「おつかれさまです、」と言おうとして、声が出ないことに気が付いた。のどが痛いとか、痰が絡んでいるとかではない。どのように声を出していたのかがわからない。声を出すとき、息を吐いていたのはわかる。息を吐くことにより、どうしていたっけ。喉とか、声帯を震わせて声を出すんだよな。どれをどのように震わせればいいんだ。どのようにすれば、声帯が震えてくれるんだ。「もしもし、聞こえていますか」電話口で同僚が、何度もわたしに声をかけている。わたしは声を出すことができず、はあはあと喘ぐように息を吐くしかない。そのあとすぐ、電話は切られてしまった。

 どうしようもないので会社に向かうことにする。会社に行き、事情は話せないため見てもらおう。四つん這いで声も出せず、黒い痣のある人間なんてのは重症患者であり、障害者だ。一目見てもらえればわかるだろう。欠勤の許可をもらい、一度きちんと大きい病院に行くのだ。そうと決まればなんとか外に出ねばならんが、支えがあっても立てないため四つん這いで玄関を出る。道行く人の注目を浴びるも仕方がない。なんとか満員電車に乗り、やっとこさ出社するもすでに三十分の遅刻である。

 四つん這いのわたしを見、ふざけているのかと思ったらしい上司がわたしをしつけ棒で突然ぶっ叩いた。「馬鹿なことをしていないで、今すぐ業務にとりかかれ」と問答無用で怒鳴りちらす。できないことを伝えようとするも、声がでない。一目見るだけじゃあわからなかったか、と残念な気持ちになってしまった。思い返せばこの上司はいつもそうだ、熱が四十度近くある人間にも欠勤を認めず、「出社はしろ、無理そうなら帰れ」と言い放つ。何度労働基準監督署に通報しようと思ったことか。これは愚痴である。しつけ棒で叩いた上怒鳴り散らしても、口をパクパクさせたまま自分のデスクにつこうともせず、ただ四つん這いで動かないわたしに、上司はもう一度しつけ棒を振り下ろした。

 ひどい痛みにわたしは叫んだ。声が出ないはずのわたしの口から音が飛び出したと思ったら、「モウ」という鳴き声であった。自分の鳴き声に驚いたわたしは、一目散に職場を離れた。四つん這いだが走るスピードは申し分ない。朝に食った肉が胃から口内にこみ上げてきたため再度咀嚼して飲み込んだ。今朝食った分で肉は全てだった。理解はできないが、牛の肉を大量に食ったことにより、このまま牛になってしまうのだなあと納得していた。

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