第24話 初恋

 渉の荒屋に珍しい訪問者が現れた。その訪問者は亜麻色の髪をしている少年で、異人のように瞳が深い青である。しかし、学生帽を被り、袴を履いていることからも日本の小学生であることは、火を見るよりも明らかであった。

「ごめんください」と少年は一言渉の部屋に向かい、声をかける。渉が眼鏡を直しながらその声に応え、扉を開けるとそこにいたのは愛弟子結城秀臣であった。

「秀臣くん、どうしたんだい。俺の家に来るなんて珍しいね」

 渉は顔を綻ばせながら秀臣に話しかけるが、秀臣はむすっとした表情のまま渉に抱きついた。

「どうしたんだい。秀臣くん」

「父様と喧嘩しちゃったんです。先生、僕を匿って下さい。なんでもします」

 秀臣は結城氏のことを一途に尊敬をしていることを渉は認識していた。渉は秀臣の帽子をとり、優しくその頭を撫でる。

「でも、瑠璃子さんや結城さんも心配していると思うよ」

「いまはうちに帰りたくないのです」

 秀臣は子供らしく目を潤ませる。普段の澄ましたような少年がそのような顔をするとは一体何事があったのだろうか。渉はこの少年が段々と哀れに思えてきた。

「仕方ないですね。とりあえずお茶でも入れますから。うちにお入りなさい」

「先生、ありがとうございます」

 渉に手を引かれ、秀臣は渉の城に入る。渉の城は本がうず高く積まれている。ボロボロのちゃぶ台に欠けた茶碗には茶漬けが入っている。秀臣に綿のはみ出した座布団を渡した渉は台所へと向かう。ヤカンに火にくべる。秀臣は物珍しそうに本の山を見る。

「これ、全部先生の本ですか」

「いや。これは借りてきたものだよ。どれでも好きなものをお読み」

 秀臣はそこいらに放ってあった本を手繰り寄せる。どれもこれも国史に関係するものだ。秀臣も国史が一番好きであった。秀臣は心を躍らせながら本を開く。二人の間にヤカンが蒸気を吹き出す音だけが流れている。やがてヤカンが鳴り出すと、渉は湯呑みに薄い煎茶を入れる。

「秀臣くん。お茶が入ったよ。飲みなさい」

 渉はそのまま畳にどっかりと座り込むと、残っていた茶漬けを音を立ててすすりはじめる。秀臣は湯呑みに入っている液体を眺める。それは薄らと色のついた水のようであった。

「先生はいつも、こんなものを食べているんですか」

 返事の代わりに茶漬けをすする音が一瞬止まる。

「もっと栄養を取らないと長生きできませんよ。姉様も長生きを望んでいると思うのに」

「マァ……ウン。瑠璃子さんには内緒だよ。それより、なんでうちに来たんだい」

「実は……僕、好きな人がいるんです。隣の組の幸ちゃんなんですが、僕は産まれながらに許嫁がいるらしくて」

 この少年は色々な意味で早熟だ。マルクスの資本論を愛し、国史が大好きな少年とだけ思っていた。おそらく初恋の子なのだろう。

「そうなのかい」

「僕、幸ちゃんのことが大好きなんです。前に野球をやっていた時にたまたま見つけて……可愛らしい女の子なんです。僕も先生と姉様みたいになりたくて、父に婚約を解消してほしいって言ったら『お前までそんな親不孝なことを言うのか』と」

 恐らく、彼の父親は渉のことを未だ認めていない節があるのだろう。それは渉にも少しだけわかる部分がある。

「マァ、許嫁の子がどんな子かにもよるのではないかね。幸ちゃんより、可愛いのかい」

「幸ちゃんは世界で一番可愛いですよ、先生。許嫁の子には未だ会ったことがないです」

「なら、会ってみるのがいいんじゃないかい。まだまだ君の人生という道は長い。一時の感情かもしれないし、それが永久の感情かもしれない。いまはまだ判断はつかないさ。だって君は若いのだから」

「先生だって、姉様が一番最初に好きになった人でしょう。僕だって最初に好きになった人がいい」

「初恋とは特別なものだよ。叶った俺は幸せなものだけどね。世の中、叶わない方が多いのさ。でも、叶うと素敵だね。よし、俺と一緒に幸ちゃんに告白する作戦を練ろうじゃないか。成功したらおめでとう。成功しなかったら、仕方ない。人の気持ちだから。これをやってすっきりしてから御家に帰ってお義父さんと向き合うというのはどうだい」

「でも、先生……恥ずかしいです」

 恋に溺れた少年は赤い頬をしている。

「言わないと分かるものも分からないさ。サテ、どうするかね、今日は泊まっていきなさい」

「ありがとう、先生」

 その時、扉が小さく叩かれた。瑠璃子の可愛らしい声が聞こえる。渉は慌てて、押し入れに秀臣を入れた。

「渉さん、秀臣いらしませんでした」

「来ていないですよ、瑠璃子さん」

「そうですか……。どこ行っちゃったのかしら。秀臣が来たらこっちに連絡くださいね」

 瑠璃子が階段を下る音が聞こえる。渉はそうっと押し入れを開けて秀臣を部屋に引き戻す。二人は何故だか面白くなってしまい、笑い合う。その後、夜を徹して二人は白紙に向かい、会議を始めた。

 夜が明ける。二人は戦装束に着替えた。今日は決戦である。渉は秀臣から少し離れたところからそっと秀臣を見守っている。

 山手尋常小学校に着く。渉は鳥打帽を被り、新聞を立ち読みしている。秀臣は昇降口に仁王立ちし、恋しい少女を待ち伏せしていた。

 やがて児童たちが登校してくる。その中に、可愛らしいおさげ髪の女の子がいる。おそらく初恋の君であろう。秀臣は叫ぶように恋しいその名を呼ぶ。その子はハッとしたように立ち止まる。その子のもとに秀臣が駆け寄る。渉は新聞を持つ手に力を入れ、それを見守る。

「幸ちゃん、ずっと好きでした。僕のお嫁さんになって下さい」

 大きな声が学校の敷地内に響く。返事は聞こえない。渉が聞き耳を立てていると、肩を叩かれていることに気がついた。後ろを振り向くとそこには、瑠璃子が人形のように冷たい顔をして立っていた。

「渉さん。何故ここにいらっしゃるのですか」

「イエ……アノ……秀臣くんが心配で」

「本当ですか」

「ほ、本当です」

 秀臣がそのとき、涙目で駆け寄ってくる。

「先生、振られちゃいました。幸ちゃんは僕の友達が好きだって……」

「あ、秀臣くん……よく頑張りましたね」

「渉さん、詳しくお話しを聞かせていただきますね」

 そう言って瑠璃子は渉をずるずると引きずっていく。秀臣は、瑠璃子と渉の関係は羨ましく思えていたが、自分は女性の尻には引かれないようにしようと固く心に誓った。

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