灸を据えてやる
どこまでも真っ白な空間だった。
その視線の先の真ん中に、あの人は空間のシミのように存在感を放っている。
腐って黒斑だらけの身体、折れて変な曲がり方をした四肢、赤黒くてらてらと彩りを放つ漏れた腸、破れた制服からこぼれる干からびた乳房、顔の斜めに肉が削れて晒される下半分の白い頬骨。
すえた臭いは鼻が曲がるようで、すぐにそれから逃れようとした。しかし、身体はまるで動かない。
わたしの身体は、どこにもなかったのだ。
『結局、ダメでしたね』
墨で塗りつぶしたような真っ黒な瞳で、あの人が鼻で笑う。
うるさい。
そう言おうとして、声も出なかった。身体がどこにもないのだから、当然声だって出ない。
『
いやらしく
そうだ。こんなことをしている暇はない。
あの後、わたしはどうなったんだ。ここはどこだ。自分の記憶をたどっていく。
わたしは『オイヌサマの城』を脱出しようとして、毛むくじゃらの白い犬と出会い、そいつの吹き矢で意識を失って――
そこで、ぞくりと背筋に寒気が走る。
その後は……?
わたしは、いまなにをしている……?
『どうなったと思います?』
あの人が意地の悪い笑みで、心の声に問い返す。
まさか、死んだのか?
そう思うと、あの人はふふっとふき出した。
『死んだ、ですって』
なにがおかしい。
『あちらの世界で、人は死ねませんよ?』
幻覚からの揚げ足取りに、ふつふつと怒りが湧く。
じゃあ、どうなったんだよ!
出せない声で、精一杯の感情で、あの人に向けて叫ぶように思考した。
先輩は、
『そうですね。それじゃあ、そろそろ正解を教えましょうか』
ゾンビのように不安定な足どりで、わたしの方へと近づく。
臭いが強くなる。実体がないのに吐きそうで、どうにもできない現状にもどかしくなる。
あの人はわたしの間近に来て、震える腐った手を介してそっと囁いた。
『死よりもつらいこと、でしょうか』
くすりと浮かべた微笑みを最後に、意識がぼんやりと滲んでいく。
頭蓋骨を揺すぶるような頭痛とともに、はっと目を覚ました。
ぼんやりとした意識のなかで、周囲を見回して置かれた状況を確かめる。
手首は鎖によって痛いほど拘束され、クレーンに吊り上げられたまま動かない。服はすべて脱がされ、一糸まとわぬ姿にされている。
その両隣には、同じ状態の先輩と嵐がいた。その口には、
「ふぁっ、ふぁほ――」
ここでようやく、自分にも同じものがつけられていることに気づいた。
「全員目覚めたようだネ」
声の先を見る。
ダークスーツを身にまとった、人のような体格のドーベルマン。背後には、先ほどの体毛で目を隠した真っ白な犬が古びたパイプ椅子に座り、先ほどの二人の女の子の鎖を握っている。
ドーベルと呼ばれていたそいつは、舐めるような視線をこちらへ向ける。そうして、マズルの周りをじゅるりと舌なめずりする。
わたしだって年頃の人間だ。先ほどあの二人にしていたことを鑑みて、これから何をされるのかがだいたい分かってしまう。
想像して、生理的悪寒が走る。
「ようこソ、『オイヌサマの城』ヘ」
ドーベルは自らの右手のひらをれろりと舐め回し、
「喜びたまエ。ここではキミたちガ、ボクらの
唾液で濡れきった指で、そいつは間近にいた先輩に迫る。そのまま、すらりとした下腹部を下から上へなぞっていく。
「ッ――」
先輩は身じろぎしながら、細く白い足をドーベルへと蹴りつけようとする。
しかし、それはいともたやすく受け止められ、がしりと掴まれて左腕で抱えられた。
「
先輩はどうにかそれから逃れようとして、しかし抵抗むなしくまるで動かない。ただ、ドーベルがはんっと嗤うだけだった。
その獣はマズルから舌をだらりと出し、先輩の細い首筋を撫でるように舐める。
「ぁ――」
「バター犬っテ、知ってるカ?」
その問いに、誰も答えない。どのみち、答えられないからだ。
「ニンゲンが自分の身体のある部分にバターを塗っテ、そしてイヌに舐めさせル。するト、ニンゲンはとても気持ちよくなるんダ。そしてボクの御主人様ハ、大層それを好んでいタ」
そいつは器用に、先輩の口に着けた拘束具のベルトを外していく。咥えられたボールがれろりと落ちて、口から溢れ出した唾液が
「聞きたいナ。悦びに満ちるキミのこエ」
「ふざけ――」
ドーベルが耳を舐めると、先輩から声にならない声が出る。
耐えようと噛みしめて漏れる息と、じゃらじゃらと擦れる手首の鎖。苦しみに歪んで赤らめた顔から、そっと目を離す。
これから先輩があいつに受ける仕打ちを考えると、ひどく嫌悪感が湧き上がる。
わたしたちがなにをしたのだろう。少なくともわたしは、人生で犬に対してこんなさせたことなどない。悪意に晒される理由がない。
きっと先輩も、嵐も、先ほどの四人もそうだ。
こいつらになにがあったか、どうしてこんなことをするのかなど知らない。それでも、このまま理不尽に慰み者にされたくもない。
もう一度ドーベルへと視線を戻し、キッと睨みつける。
ドーベルはわたしのことなど気にも留めず、先輩の綺麗な胴をれろりと舐め回し、上目遣いで聞く。
「どうだい?」
「…………」
「我慢しなくていいんだヨ? 早く受け入れちゃいなっテ」
「……ざ、けん、なっ」
「ア?」
ドーベルの荒げた声に、先輩は苦し紛れにわたしをちらと見て言った。
「後輩が、見てん、だ……お前、なん、か――あっ、」
「……キミはオロカだナ。これからキミハ、ボクのことしか考えられなくなるのニ」
毛深い両腕で、先輩の白い両足が軽く持ち上げられる。とっさに抵抗した膝がぐわっとこじ開けられ、ドーベルの顔が股ぐらにぐいと寄せられる。
ちゃぷちゃぷと不快な音、先輩の泣きそうな喘ぎ声、じゃらじゃらとむなしく立てる鎖の音。
「んっ、んんっ――」
「最初はみんなそうやって拒むガ、いずれキミたちも後ろの二人のようにかわいいペットになル。なにも知らなイ、キミのその子羊のような身体モ、いますぐ開放してあげるヨ」
「や、ァ――」
……やるしかない。
とっさに右足を高く持ち上げ飛び上げる。しかし、あいつはわたしのことに気づく様子もない。
揺らぐ鎖の軌道のまま、裸の足の爪先をみぞおちへと狙いつける。そのまま、勢いづけて足を振るう。
爪先はドーベルの身体に思い切り食い込み、身体を折ってくずおれさせた。
「キサマ――」
咳き込みながら大きく開いたその口に右足の先を蹴り入れ、そのまま背後へと蹴り飛ばす。
仰向けに地面に叩きつけられたそいつは
「ダメじゃないカ……御主人様ニ、傷をおわせチャ。オマエ、そんなに調教されたいのカ? 待てないのカ? オマエからしてやろうカ?」
ゆらりと立ち上がり、こちらへと迫る。
両足を即座にぶんと振り上げ、間合いに入ったドーベルの首を両太腿で強く挟む。そのまま、マズルを下げることも開くことも叶わないほどに強く絞めていく。
これで時間を稼げる。
しかし、ここからはどうしようもない。
ここから、死ぬこともなく怪異の核でもないこいつをどうするか。
「おイ、コリー! こいツッ、どうにかしロ!」
案の定、背後のコリーと呼ばれた犬が、ドーベルに呼ばれて立ち上がる。
またあの吹き矢を使われたら最悪だ。次に意識を失う間じゅう、わたし以外の二人がこれからなにをされるか。
コリーが吹き矢を出して構える。その先端を、わたしへと狙う。
まずい――
「発射ァ!」
張り上がる声。
途端、
ドーベルを挟む脚に手応えが抜けて、代わりに犬の唸り声が聞こえ始めた。
そのなかで、二つの足音が白い
「大丈夫ですか?」
品の良い制服を着た、気品のある巻いた黒髪。ガスマスクで顔は隠れているが、それが誰だかすぐに分かった。
「
「ある方に呼ばれたもので。……まあ、それはいいですが」
大型ペンチで鎖をぱちんと切り飛ばす。
手が開放され、すぐに絡みついた残りの鎖も解いていく。
「あ、ありがと……」
「オ、前ッ……いきなりなんダ――」
「眠ってていただけませんか?」
流れる動作で腰からデリンジャーを抜いて、撃つ。ドーベルの額に銃弾が食い込み、狂ったような吠え声が上がる。
哀れな獣の顔をすかさずごつい靴で踏みつけると、椿妃ちゃんがこちらへと向いた、
「わたくしたちは救助を終えたら、後で向かいます。あなたたちは逃げてください」
「わかった!」
「ハハハハハハハ! でかいゴキブリ相手にしてるみてーだ!」
「お姉様! 消火器もういいです!
もう一人は
舞い上がる粉を吸い込んでげほげほと咳き込みながら、どうにかその個室を離れる。
「はあ……危なかった……」
先ほどの部屋から離れて、ほっと息をつく。
いきなり引いていた腕がいきなり離れて、どうしたのかと振り返る。嵐が
「なんで……」
どうして自分も連れてきたのか、というところだろうか。
わたしはひとつため息をつくと、離れた手をもう一度掴む。
「置いてくわけないでしょ。嵐は、わたしの相棒なんだから」
「でも……」
「それで、いい映像は撮れた?」
「……あっ」
嵐は自分の身の周りを確かめて、手で大事な部分を隠しながらこちらへ向く。
「カメラがない!」
「そういえば、脱がされた服って……」
「まさか、さっきの部屋とかじゃ……」
ちらと、先ほどの部屋を見返す。
隙間や中空に濃く白い粉塵が舞い上がり、相変わらず二匹の獣の吠え声が聞こえた。中はビニールシートで見えないが、これだけで悲惨な状況はうかがえる。
やがてビニールシートの下から、ガスマスクを着けた二人が這い出てくる。その後から、コリーという犬に手綱を握られていた二人も出てきた。
「まったく! 消火剤撒きすぎてひどいことなってたじゃないですか!」
「いやでも、あんぐらいやっておいてちょうどよかっただろうが! あいつら死なねえんだぞ!」
「目的は救出です! 救出対象が見えないほど粉撒いたら、意味ないじゃないですか!」
「でもお前、それでもなんとかやるだろ!」
「やりますけど! でもですね――」
言い合いをしながら外へと歩いてくる。
すぐさま、ガスマスクの二人がこちらに気がついて合流する。
「あの、服がないんですけど……」
「あっ……」
「多分、粉まみれになってんじゃねえかな」
魔薙さんが右手に携えた消火器を上げてへへっと笑うと、椿妃ちゃんが呆れたような視線を送る。
なんて適当な人だろう。本当に、椿妃ちゃんが「お姉様」と呼び
わたしが呆れていたところで、背後に強い気配を感じて振り返る。
「なんの騒ぎだと思ったラ……」
垂れた顔の皮膚に、ガタイのいい茶の身体。トサと呼ばれたダークスーツの犬がそこにいた。
部屋の方をちらと見て、ハンッと鼻で笑う。
「ドーベルの野郎ォ……大口叩いておいテ、ペットの管理もまともに出来てねえじゃねえカ」
トサは大きな手を伸ばすと、手近なわたしの首を片手で絞め上げる。
とっさのことで動けなかった。いくら抵抗しようともがこうと、嵐と先輩が引き剥がそうとも、その手はまるで離れない。
「ニンゲンがイヌに歯向かうなヨ。見苦しいゾ」
「ふざっ、け――」
ふたつの銃声。
火薬と、空気の音。
トサの手から力が抜けて、
振り返ると、二人はそれぞれに銃を構えていた。
「サディストめ。反吐が出るな」
「まったくです……って、ちょっと、お姉様?」
「
魔薙さんはわたしの横を通り過ぎ、倒れたトサの方ヘ向かう。
それから、間抜けてあんぐりと開いた口に銃身を突っ込み、何度も何度も銃を撃ち込む。
「ウチからの
口から遊底の下がった銃を抜き、立ち上がって軽蔑した視線を送る。ついでのように、黒い安全靴でその身体を蹴りつける。
気絶したトサの顔が傾き、半開きの口から白いBB弾がこぼれた。
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