ロンリー・ローリン・スケルトンボーイ
大穴山熊七郎
第1章 最初の夜
第1話 暗いところで目がさめて
スープ。
湯気の立つスープが、マグカップに入って目の前にある。
脂でキラキラ輝く表面の下は、見てるだけで温かな気持ちになる澄んだ琥珀色。
底には何種類もの刻んだ野菜と肉のかけらが沈んでる。その上を、クリーム色のキノコの薄片がゆらゆら漂う。
匙は使わない。
ふうふう吹きながら、カップを両手で持って啜ると、複雑な味わいの液体が口の中に少しずつ入ってきて、全身にぬくもりがひろがる。
誰かの手が、僕の頭を撫でてくれてる。
その優しい手つきに思わずにんまり笑いが出る。心が満たされる。
幸福に包まれながら、喉に落ちてくる旨みをじっくり味わおうとして。
……あ、と思ったときには、何か強い力に、ぐい、とえり首を引っ張られてた。
その瞬間、スープの味も、頭の上の手も、全てがさーっと薄れていった。
見終えていない夢が去っていった後のもの悲しい感覚のなかで、僕は眠りから目覚める。
胎児みたいに丸まった体勢になってて、両手は胸の前で握り合わされてた。
視界は真っ暗だ。
自分がいま、目を開けているのかどうかもわからない。
寝返りを打とうとしたけど、何かに圧迫されて、両腕両足はほとんど動かせない。
なぜか全身が小刻みに震えてる。身体が相当こわばってる気がする。
仕方なく、組み合わされてた両手の指をほどいて揉むように動かしてみる。
ついでに両足の指も動かしてみる。
両手両足とも、指は動かせた。
動かせたけど、何かが指にまとわりついてきた。
指の間に湿って粘り気のある何かが、にゅるにゅると入り込んでくるのを感じる。
知ってる手触りだ、と考えた次の瞬間、僕はその湿ったものの正体に思い至った。
とたんに、ひんやりしてるのに複雑でなまなましい匂いが鼻孔を満たす。
意識のまだ眠ってた部分まで、急激に醒めていく。
鼻だけじゃなく口にも湿ったものが入り込んでることに気づいて、息苦しさに叫びだしそうになる。
けど、叫ぶことすらできなかった。
考えたくもない絶望的な事実。でもたぶん、間違いない。
いま僕は、土中に埋まってる。
☆★☆★☆
胸の前で畳まれてた両手のまわりの土を揉んで掘って、手を動かせるようにする。次に、頭の周辺の触れる範囲の土を揉んでやわらかくする。
そうしながら、身体をくねらせて周囲にわずかな隙間を作って、頭のほうへ身体全体を無理やり動かしてゆく。
僕はまるで、巨大で不器用なミミズだった。
動くたび、口にも鼻にも耳にも土がどんどん入り込んでくる。
なぜ窒息しないのか、自分でも理由がわからない。本当に地表のほうに向かっているのかどうかも、全くわからない。
不安と恐怖を誤魔化すため、取り憑かれたように僕は動き続ける。
その間も、どういうわけか身体はずっと、僕の意志とは関わりなく、ぶるぶると細かく震動しつづけてた。
無明の世界でわずかに足掻き続ける無力な虫。
それが自分だと思うと、心がどろりとした絶望で満たされていく気がした。
だけど、動きを止めることもできなかった。
指や手を動かしながら、数を数えはじめる。
数を数えては途中で忘れ、一から数え直す。
それを何度も繰り返すうち、周囲の土の圧力が、ほんのわずかに緩くなりはじめてることに気づいた。
ただ数を数えながら、手足を動かす。
そして、とうとう左手の指がなにもない空間に突き出た。
そこからは無我夢中で、僕はもがき暴れるようにして、小さな穴から抜けだした。
息も絶え絶えにあえぎながら腹這いになった地面は、じっとり濡れた草に覆われてた。
☆★☆★☆
ずっと転がったまま新鮮な空気を味わっていたかったけど、濡れた草が気持ち悪い。
僕は、のろのろと立ち上がった。
あたりは真っ暗で、小雨が降ってるみたいだ。
目をこらすとそこらじゅうに、樹木の幹らしい影が見えた。たぶん森の中だ。
呼ばれてる。何かに呼ばれてる。
<我がもとへ来るのです。来るのです……。>
不思議な力のある神秘的な声が、僕の頭にしみ込んでくる。
声に導かれるように、足がひとりでに動き出す。
そのとき、周囲でいっせいに葉ずれの音が鳴って、木々の間から雨まじりの強い風が吹きつけてきた。
僕の全身が、誰かに揺さぶられたように震えた。
歩きかけた姿勢で硬直しながら、やっとわかった、と僕は思った。
なぜ、目覚めてからずっと小刻みに震え続けてるのか、自分でも不思議に思ってた。その答えがわかった。
……僕は、寒くて震えてたんだ。
地中から抜け出すのに必死で、自覚する余裕がなかった。やっとわかった。
寒い、という言葉を意識した瞬間から、僕は、その感覚から逃れられなくなった。
寒い、ということしか考えられなくなりそうだった。そのくらい寒かった。
ガチガチガチガチ。ガチガチガチガチ。
自分の身体から、盛大にそんな音がしてる気がする。
何かが呼んでる方へ歩きながら、僕は震え続けてる。
なぜ、こんなに寒いんだろう。
考えてみれば地中はまだ暖かかった。あそこに戻りたい、という思いが一瞬よぎって、僕は自分に呆れる。
もしかしたら僕は相当長いこと、あの土中に埋まってたんだろうか。だからこんなに身体が冷えているんだろうか。
……そこまで考えて、愕然とした。
自分が何者で、なぜこんなところにいるのか。なぜ生き埋めになってたのか。
僕は、何ひとつ憶えていなかった。
☆★☆★☆
目の前に樹の幹が現れる。よけて歩く。また樹の幹が現れる。よけて歩く。
飛び出た根に足を取られそうになる。またいで、また、樹をよけて歩く。
ときおり吹きつける冷たい風から逃げるように、風に背中を押されながら歩き続ける。僕を呼ぶ何者かのほうへ。
僕の意識は、ほとんど麻痺したみたいになっていた。真っ暗で、寒くて、何もわからない。
悪い夢をずっと見てるようだ。地中でもがく夢が終わったら、震えながら暗闇をさまよう夢。
ガチガチガチガチ。ガチガチガチガチ。何かがぶつかる乾いた音が大きくなった。
さっきからずっと聴こえてた音だけど、いまはあちこちから聴こえてくる気がする。
僕は足をゆるめて周囲をうかがった。
そして、はっ、と気がついたときには、何かが僕のすぐ横にいた。
夜目にも、その身体が白いのがわかった。白い棒みたいなものが、組み合わさって動いてる。
動くたび、その棒がぶつかって音を立てる。
頭がぐりんと動き、僕のほうを向いたとき、思わず叫び出しそうになった。
その顔には何もない。鼻も、唇も、眼も。
骨。人に似たものの骨が、僕のすぐ横にいて、カチャカチャ音を立てながら動いてる。
一体だけじゃない。その向こうにも、その向こうにも骸骨がいた。そして、同じ方向へ歩いてた。
これは夢だ。悪い夢だ。
そう思いながら、僕の足も、骸骨たちと同じ方向に動きつづける。
やがて、木々の向こうに小さな光が見えてきた。
僕を呼んでいる何者か、僕を起こした何者かが、そこにいる。
神か、聖女か、悪魔か、邪神か。
何でもいい、あの光にたどり着いたら、とりあえずこの悪夢は終わる。そうだ。きっとそうだ。
やがて、僕と骸骨たちは森の中の小さな空き地にたどり着いた。
そして、たいまつを持って立っている、その何者かを見た。
「ブワッハハハハハハアア!!! 来たナ来たナ、下僕どもオオオオ!!!」
なんてこった。
僕を呼んでいたのは、豚に似た何かだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます