桃香、桃を買う
「ねぇ、江木くん。梨花、大丈夫だから。あの調子なら、大丈夫」
そうは言ったけれど。
あの言葉には、私の願望も混じっていた。大丈夫であって欲しいと。
確かに、昔のままの梨花で安心したのは事実だ。
この10年の間に、私の中で梨花の記憶は徐々にあやふやになっていて、あれこれ考え過ぎて不安に陥っていた。でも目覚めてみたら、梨花はちゃんと、梨花だった。
だからきっと、大丈夫。そう思いたいけれど。
梨花は乗り越えられるだろうか。空白の10年。両親の他界。これからの人生への、不安。
26歳になった今ならわかる。あの当時の梨花は、私から見ればものすごく大人びて見えた。けれど……実際はおそらく、周囲の同世代よりちょっと聡明で、本人もそれを自覚して冷静沈着、理知的であろうと背伸びしている、(一風変わってはいるけれど)普通の女子高生だったのだ。
梨花は、乗り越えられるだろうか。
彼女の元へは、アルバムと共に母の日記も置いてきた。一昨年に亡くなる直前まで、梨花が目覚めた時のためにと母が書き綴っていた日記。
世間を騒がせたニュースや、大きな自然災害。そしてもちろん家族の事。特に、お祖父ちゃんの代から続いていた豆腐屋を廃業した経緯や、実家を売って引っ越し花屋に転業した理由、父の事故死、江木くんが実家から飛び出してうちに同居するまでの顛末などが綴られている。そして各ページの端っこには、その時々の気持ちや小さなニュースなど、メモのように書き込まれているものだ。
梨花はきっと、夜まで待てない。今頃、母の心が籠った直筆の日記によって、10年分の空白を必死に埋めているだろう。おそらくは、ひっそりと涙を流しながら。
桃香は、隣で熱心に本を読んでいる碧を見下ろした。
大丈夫。こんな小さな子供だって、一生懸命前を向いて生きようとしてる。
大丈夫。もっと小さなえみりちゃんだって、周囲が驚くほど回復してる。
もし梨花の心が挫けても、ずっと私がついてる。その覚悟はある。だって、たった一人の肉親だもの。大丈夫。私も梨花も、大丈夫。
帰りに、桃を買って帰ろう。梨花の一番好きな食べ物。
小さい頃からよく聞いてた。妹が来るのが嬉しくて、梨花は世界で一番好きなものの名前を、私に付けてくれたんだ、って。
母が桃を切ってくれると、梨花は必ず大きい方を私にくれたっけ。
うん。今日はたくさん、桃を買って帰ろう。
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「桃だああああああっ!」
その手土産を見た瞬間、梨花は小さな歓声をあげた。
桃を剥いている間じゅうずっと、「もーもっ♪ もーもっ♪」と上半身だけで踊っていた。江木くんは、リズムをとって顔の横で手を打ち鳴らす梨花を眺めながら「イメージと違う……」と呟いていたし、みぃはちょっと引いていた。
ひとかけらの桃を口にした途端、目を閉じてベッドに倒れこんだ時にはかなり焦ったけれど、「美味しすぎる……沁みる……」と感動している様には思わず笑ってしまった。
そんな梨花に、涙の跡は見えなかった。でも、ベッド下の屑かごには、おそらく涙を拭き洟をかんだであろうティッシュが山程捨てられていた。もちろん、桃香も亮介もそれには触れることはなかった。
塚田邸にてえみりちゃんと遊んだ話などしながら和気藹々と過ごしていると、あっという間に夕食の時間だ。
今日もここで一緒に食べることにして、桃香と亮介は買ってきた惣菜やパンを広げた。病室なのに、ちょっとしたピクニックみたいだ。
朝と同じ玉ねぎのコンソメスープを一口飲んで、梨花は舌を出して顔をしかめた。
「ウエ。なにこれ、まっずい」
桃香が味を確かめてみる。
「朝のと同じだよ味だよ、これ」
「うっそだぁ。朝と昼のは美味しかったもん」
「それ、味覚が回復してるんじゃないか? 俺も入院してた時、似たようなことがあったよ。絶食後に初めて食べた全粥が死ぬほど美味かったんだけど、次からは何の味もしなかった」
「そういえば、部活後のポカリの一口めって、すごく甘く感じたっけ……」
たった半日で、こんなに変わるんだ………お姉ちゃん、元気になってるんだ……
桃香は思わず泣きそうになったが、何とか堪えた。ちょっと涙ぐんだぐらいで踏みとどまって、笑ってみせる。
「梨花、食い意地張ってるからねぇ」
「食い意地じゃない。グルメなの。こんな不味いスープ、飲めません。カラスミ食べたい。キュウリか大根と一緒に海苔で巻いたやつ。あと、からし蓮根」
「完全に酒のつまみだな」
「冷奴に、おろし生姜と大葉とミョウガ乗せたの食べたい」
「やっぱりつまみ系か。しかもチョイスが渋い」
「かにみそ。イカの塩辛。手羽先。なんこつのから揚げ……」
「君らやっぱり姉妹だな。桃香と好みが一緒だ」
「酒飲みの家系なのよ。梨花も多分呑んべえだね」
「梨花ちゃん。あたしの焼き鮭、食べる?」
「だーめ。みぃは自分のをちゃんと食べて」
笑いながらもう一切れ桃を差し出すと、梨花は嬉しそうにそれを頬張った。
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