711号室 原田トモヤ
「そうですか……智哉が」
「クロマネギテチコって、何ですか? トモヤくん、その人のことすごく怖がってた。連れてかれるって」
トモヤの母親は、あるベテランタレントの名前を挙げた。
「智哉がうんと小さい頃、テレビで見たあの人のことを怖がって。だから、悪いことしたらこの人に連れて行かれるよって、脅かしたんです。よくあるでしょう? オバケとか鬼が来るよって、怒るの。ナマハゲって知ってるかしら。ちょうどあんな感じで」
知っていると示す様に、蒼一は小さく頷いた。母親の言い訳めいた視線から逃げたくて、椅子を降りてベッドから少し離れ、部屋の隅に座っている片平桃香の方へ数歩近づいた。
「クロマネギテチコって、あの子がまだ上手く名前を言えなかった頃の……たしか6歳ぐらいまでだったかしら。玉ねぎみたいな髪型とその人の名前が混ざって、そんな呼び方をしてたの。あの子きっと、夢の中でよっぽど怖い思いをしてるんだわ」
「退行してるってことか? 恐怖のあまり、幼い頃に戻ってしまっていると? そうなのかな、蒼一くん」
今まで黙ってトモヤの手を握っていた男性が、初めて口を開いた。どっしりと落ち着いた見た目とは違い、声が少しうわずっている。
「よくわかんないけど。自分では5年生って言ってました。3年の弟がいるって」
「そうか。じゃあ、精神に問題は無いんだな。少なくとも、幼児退行とかそういう意味では」
父親は握りしめた我が子の手を、ポンポンと軽く叩いた。蒼一は少し俯くと、「あの」と言いづらそうに切り出す。
「トモヤくん、弟に意地悪しておもちゃを川に捨てに行ったって。でも、やっぱりやめようと思ったんだけど、おもちゃを落としてしまって、それで川に拾いに入って溺れた、みたいです」
「あぁっ、俺のせいだ」
突然、父親が大きな声をあげた。眠っているトモヤの手を頬に寄せ、苦しげに眉を顰めてゆるく頭を振る。
「智哉、お父さんも悪かった。もう、お兄ちゃんなんだからって我慢させたりしない。もう、仕事を言い訳に約束を破ったりしない。キャンプも魚釣りも二人で行こう。な、智哉」
「そうね。お兄ちゃんだからって、まだ5年生だもんね。寂しかったね。ごめんね。お母さん謝るから。智哉は悪くないのよ、だから起きなさい。安心して、目覚めなさい」
蒼一は自分の部屋に戻ると、ドサリとベッドに腰を下ろした。不機嫌に口を結び、ペットボトルの水を飲む。そのままコロンと倒れこみ、青地に白い星柄のタオルケットに包まった。
桃香がタオルケットの裾を整えてやる。
「そうちゃん。ありがとうね。無理させてごめんね」
「別に無理してないし。桃香ちゃんが謝ることじゃないし」
ペットボトルを手がぶつからない程度の距離に遠ざけ、桃香はベッド周りを手馴れた様子で手早く片付けた。
「……今日は抱っこで寝よっか」
「いいよ。赤ちゃんじゃないんだから」
「赤ちゃんじゃなくても、抱っこで寝たっていいのよ」
背中を向けて布団にくるまった蒼一の隣に、桃香は添い寝した。腕を伸ばし、布団ごと小さな体を抱きしめる。
小さな身体を固く強張らせ歯を食いしばって、泣いている。声を殺して。
「ねぇ、明日ね、止めようか。トモヤ君に会うの」
蒼一は声を出さぬまま、首を振った。
「無理しないでいいの。辛いでしょう」
さっきより強く、首を振る。
「約束、したから。迎えに来るって。絶対に、また来るからって。トモヤくん、すごく怖がってた」
「でも、そうちゃん」
「もっとあそこに居られたら……もっと、話せたら連れて来れた。疲れて、力が無くなっちゃった。トモヤくん、あんなに怖がって泣いてたのに、置いてきちゃった」
「疲れたのは、あなたのせいじゃないんだよ。責任を感じなくていいの」
「絶対行く……ちゃんと迎えに、行くから……待ってて、そう……」
小さな呟きは、寝息に消え入るように終わった。布団を固く握りしめたまま、蒼一はあっという間に眠りに落ちた。
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