フィルター

空閑漆

それが真実だとしても現実ではない

 夕食が終わり、私は居間のソファーへ腰を落とした。革張り特有の音が私を受け入れる。次に私がすべき事は、リモコンのスイッチを入れる事。壁に張り付いた巨大な画面が映像を撮し出す。

 画面に現れた物は紛れもない現実で、この世は弱肉強食であると見せつけるように、弱者に襲いかかる強者をカメラが追う。

 シマウマの腰に深々と突き刺さる爪。身を震わすシマウマを押さえ込むライオン。首へ噛みつき生きの根を止めるのに、そう時間はかからなかった。リアルタイムではないにしても、現実に起こったことだ。カメラを通し観る遠い異国、真実であるにしても実感は沸かない。

 戦争で人が死のうと、それはどこか遠い現実として映る。感情は湧くが薄く、記憶が残ったとしても片隅だ。

 カメラという媒体を通すことで、それは限りなくリアルな非現実となる。

 例え見知った街の一角で殺人が起ころうとも、事故現場が撮されようとも、それは身近な異国である。物騒だと思いつつも、用事があればその街へ出向く。私の現実は平穏で、揉め事があろうと殴り合うこともない。シマウマのように襲われている人も居はしない。況してやライオンのように襲う人もだ。

 

 平穏であろうと事件は毎日起こっている。罪を犯す前の殺人犯と通りすぎている可能性もある。運良く被害に合わなかっただけで、後に事件になっているかもしれない。

 他人の目を隔てた情報は真実だとしても、現実味がない。真実を伝えようと努力して、伝わっているのは何パーセントなのだろうか。情報が入り乱れる世の中にあって、虚偽の情報も混じってくる。国家ぐるみの情報操作もあり、真実が見え難くくなっている面もあるだろう。

 カメラを通すことでカメラマンの主観が入り、それを編集し、どう伝えるかで真実は薄まっていく。それらを取捨選択して出した答えが私の真実だとしても、それは間違っているかもしれない。知らぬ間に事件に関わっていたとしたら、この身に何かが降り係っていたとしたら、私は気付けるだろうか。


 世に出てこないものなど掃いて捨てる程ある。

 夕飯の材料として出た鳥肉の現実。食用として生まれ、狭い囲いの中で糞尿にまみれ、動くこともままならないまま太らされる。立つことしか出来ぬほどの場所で、足が折れ他の鳥に踏まれれば死へと繋がる。空間が空くことは他の鳥にとって良いことなのかもしれない。それで生き延びれるのなら、生き絶えたものを踏むしかない。だが、数ヵ月後に待っているのは食肉という死だ。


 画面の中では、横たわるシマウマに子供のライオンが食らいついている。自然という厳しさを伝える番組。しかし、不自然な厳しさを目にする番組はないに等しい。

 他にも加工される動物は沢山いる。現場の過酷さを知らず、出来上がったものを容易く買える時代。出来上がった物がある前で、行程の事など考えるはずがない。


 今観ているテレビの先に本物があろうとも、画面のように平面的なもの。この考えも何れは……

 私はリモコンへ手を伸ばす。革の軋む音は私にとっての現実だった。

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フィルター 空閑漆 @urushi1

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