不夜校
百瀬
第1話
今宵も月が校舎を爛々と照らしている。
昼ともなれば、義務教育の定めに従い、嬉々として、あるいは、憂鬱として学徒が足を運ぶこの学び舎も、夜ともなれば一転、人っ子一人いない不気味な静寂に支配される。
そんな不気味な静寂と、月の光に照らされて、僕はここに立っていた。
僕がどうしてここにいるのかは分からない。自分が誰なのかもわからない。
水中に沈んでいた何かが、浮力によってゆっくりと水面に浮かび上がる様に
或いは、どこからともなく集まった黒い粒が、ざわざわと一堂に会し、人間の姿を形作る様に
夜になると、僕の意識は再構築される。
何がなんだかわからないが、毎日何が何だかわからないので、何が何だかわからない事にも慣れた。
今日の倶楽部活動場所は、体育館の、その屋根の上であった。
通常の校舎とは違い、体育館の屋根の上は緩やかな曲線を描いていて、どこを歩こうにも上り坂か下り坂である。歩きにくいことこの上ない。
少し息を切らせながら、屋根の頂に向かう。かすかに紅茶の香ばしい香りが、鼻先をつついてくる。袋田くんは既に来ていたみたいだ。
「やあ、遅かったじゃないか。」
袋田くんは、この部活動の長、部長にあたる人物である。
初めて僕が夜の学校に出現した時に、半強制的に『屋根裏倶楽部』に入部させられた。
屋根裏倶楽部は、夜の学校で行われている部活動で、夜な夜な校内の、どこかしかの屋根の上で、優雅に紅茶を嗜むといった活動を行っている。
屋根の上なのだから、それは屋根裏ではなく屋根上なのでは無いかと、袋田くんに尋ねたことがある。
彼曰く「それだと語呂が悪いじゃないか」との返答だった。
「今日の開催場所、きちんと覚えていてくれて嬉しいよ。」
袋田くんは、体育館の屋根の形状と会う様に足の長さが調整されたガーデンチェアに腰掛けたまま、そう続けた。
「お待たせしたね。」
僕は、袋田くんとは、円形のガーデンテーブルを挟んで、真正面に腰掛ける。
「今日は、レディグレイにした。」
「レディグレイ?」
「この前飲ましてやった、アールグレイに、柑橘系。オレンジやベルガモットを加えたものさ。」
「それはそれは、目に染みそうな飲み物だね。」
「面白いことを言うね、君は。安心してくれ、紅茶は目から飲むものじゃない。」
ふふん、と、彼は鼻を鳴らして笑う。
袋田くんは、世にも珍しく、自分の鼻を自在に動かすことが出来る。
前に、どうやっているのか気になって尋ねてみたが、それは秘密だとあしらわれてしまった。
彼にはとても秘密が多くて、実を言うと、校舎のおおよそ八十箇所に、屋根裏倶楽部で使用するための茶器や、ガーデンテーブルを隠してあると言うが、僕はその隠し場所を一つも知らない。
そんな物思いに耽りながら、僕は紅茶を一口啜った。勿論口からだ。
彼も僕に合わせる様に、紅茶を一口啜ると、音も立てずにソーサーにカップを戻す。
僕たちが居るこの学校は、周囲を森や林に覆われて居る、昔ながらの学校だ。
ただでさえ、山の小高い位置にある上に、体育館は校舎とは少し離れた位置に作られて居るので、遮蔽物が少なく、辺りを見回すことができた。
今夜は穏やかだ。風も穏やかで、湿度もカラカラとは言わず、しかし、じっとりとして居る訳でもなく、その景観や、時折聞こえる木兎の鳴き声が心地よかった。
「そういえば。」
僕がカップをソーサーに戻したのを見計らって、袋田くんが声をかける。
「理科の有栖川には会ったかい?」
「今日は、まっすぐここにきたから、会ってないよ。」
そうかそうか、と、彼はマジックで書いた様な眉毛を上下させた。
「どうしたんだい。まさか、また?」
彼は再度、カップからお上品に紅茶を口に含むと、
「ああ、またやったらしい。」
理科の有栖川先生は、僕もお世話になって居る。
有栖川先生は、よく自殺未遂をすることで有名で、噂によると、自宅に保管されて居る遺書の枚数は、優に三桁を超えるとか。
僕は、もし今後自殺をすることがあれば、遺書の添削は彼にお願いしたいと思って居るくらいだ。
「へえ、それで、今日はどうだったの?」
別段いつものことであるため、あえて掘り下げようとも思わなかった。
彼の自殺の理由なんて、毎度毎度「月が綺麗だったから」とか、その程度のものだし、不思議なことに彼の自殺は毎回失敗に終わってしまうのだ。どうせ、今日もそうなのだろう。
「それがね、分からないんだ。」袋田くんは、態とらしく、伏し目がちに、まるで良くないことが起こったかの様にそう言った。いや、自殺そのものが良く無いのだけれど。
基本的に、袋田くんは知らないことが無い。いや、知らないことが無いと言うのは些か大袈裟なのかもしれないが、この学校で起きる事象について、彼は大体の事柄を把握して居る。
そんな彼が、素直に「分からない」と言ったことが、意外であった。
嫌な予感を覚え、一筋の冷や汗が、僕の顔面を流れた、様な気がした。
「君に分からないことがあるなんて、珍しい。」
「僕だって、分からないことぐらいあるさ。ただ、君より圧倒的に物事を知って居るだけだ。」
先程の、伏し目がちな態度とは打って変わって、いつも通りの不遜な態度に戻った彼は、そんな嫌味を言ってくる。
その後も、屋根裏倶楽部の活動はと言うと、恙無く進んだ。
だけれど、先の有栖川先生の話題から、時間が経てば経つほどに。先の話を反芻すれば反芻するほどに、僕の心の中は、不安に包まれていく。
けれど、そんな不安を袋田くんに悟られても、なんだか癪なので、さして気にしていない、と言う風を装って、紅茶を嗜んでいた。
「さてと、今日の活動は終わりにしよう。」
「え?」
唐突に、袋田くんは、本日の屋根裏倶楽部の活動の閉会を宣言した。
基本的に、屋根裏クラブの活動は、夜通し行われる。本日の解散は異例だった。
校舎の正面に設置されて居る大きな時計は、まだ三時を指して居る。
「今日は、随分と早いんじゃ無いか?」
「暇人の君とは違うのさ。」
「暇人の君に言われたらお終いだ。」
「バカ言え、僕は暇じゃ無いさ。この後も、やらなきゃいけないことが、僕のお腹みたいにパンパンに詰まってるんだ。」
そう言って、彼はポッコリと膨らんだお腹を、軽く平手でたたく。
ポコん、と、小気味の良い音が響く。
屋根裏倶楽部の活動終了後、僕は真っ先に理科室に向かった。
理由は言わずもがな、先の袋田くんの『またやった』の言葉が、気にかかって仕方がなかったからだ。
それにしても、今日に限って倶楽部の活動が早期に終了するなんて、なんとも作為がかったものを感じるが、そんなことを考えていても仕方がない。
僕は、有栖川先生の安否を確かめずにはいられなかったのだ。
体育館から、校舎に入り、二棟あるうちの、奥側。体育館とは本校舎を挟んで対面側に位置する棟内の、もっとも隅に、理科室がある。
古めかしい引き戸に手をかけ、教室の戸を開こうとするが、扉には鍵がかけられており、僕の侵入を拒んだ。
生きてるのか、死んでるのか、よくわからない僕にとって、鍵なんて有って無い様な物だ。流石にすり抜けるまではいかないが、目を閉じて、意識を集中させる。鍵穴の、その奥。詳しい施錠の原理を知っているわけではない。ただ、閉まっているものを開けることをイメージする。奥にある何かを、ひねる。
かちゃり、と音がして、鍵が外れた。この解錠の方法は、袋田くんに教わった。彼はこうして、色々な場所に出入りしているらしい。
今度こそはと意気込んで、立て付けの悪い引き戸に手を掛ける。
ドクン、と、有るのか無いのか分からない心臓が、鼓動打つのを感じた。
ガラリと、夜の校舎では些か大きすぎる音を立て、引き戸を開けた。
理科室の中は、月に照らされ、薄暗いながらも一瞥することができた。
理科室は一般的な教室とは異なり、6人がけの大きな長方形の机が、黒板に向けて六つ設置されていて、それぞれの中央には、小さな流し台と、ガスの供給管が設置されている。
その、入口から見て奥、一番後ろの席に当たる場所の、テーブルの上に、有栖川先生が腰かけている。
少なくとも、死んで居る様には見えない。先生の無事に安堵する。
「先生。」
僕は、不安を悟られてくなくて、一呼吸置いて平静を装い、声を掛ける。
「なんだよ。こんな夜更けに。」
薬袋先生は、窓側に体を向けたまま、顔だけをこちらにみやり、表情を変えずに話した。
なんとも呑気な返事である。今夜は月が明るいおかげで、表情だけでなく、だらしのない無精髭まで目に取れた。
「今日、またやったらしいじゃ無いですか。」
「またやったって、何をだよ。」
「またやったって、」
そこまで言って、ふと思った。
僕はあくまで「またやった」と、袋田くんから聞かされただけで、自殺未遂をした、とまでは聞いていない。
不安に駆られて細部まで確認しなかったことを悔いたし、敢えてそう濁した袋田くんを恨んだ。
「または、またですよ。」
「はぁ?相変わらずよくわかんねえ奴だな。」
そう言って、有栖川先生は、視線を窓の外に移した。
僕もつられて窓の外を見やった。
月明かりに照らされていたからと言って、月が望める訳ではなかった。もう1棟の校舎が、月との邂逅を阻むかの様に、そこに有った。
先生は、さしてきにする風でもなく、言った。
「風の噂で、有栖川先生がまたやったって。」
「だろうと思ったよ。」
それっきり、先生は何も言わない。
気まずい沈黙が訪れた。
「まあな。やったよ。けど、今日は本気だったんだぜ。命を掛けるぐらいのつもりでやったんだ。」
まあ、失敗したんだけどな、と照れ臭そうに口角をあげた。
「自殺に命を掛けるも何もありませんよ。」
「はははは。そりゃそうだな。一本取られた。」
そう言って、彼は再びこちらに顔を向けると
「まあ、過ぎた自殺を悔やんだりしねえよ。今日の自殺未遂より、明日の自殺ってな。」
「なんですか、その格言じみてるけど、全く格言じゃ無い言葉。」
「どっかの物理学者が言ってたんだよ。まあ、俺の専門は化学だからな。」
そんなことを言う先生の専門分野は、生物学だった。
有栖川先生が、ビーカーとアルコールランプを使って淹れた珈琲を、二人で窓の外を眺めながら啜った。
実はと言うと、先ほど屋根裏倶楽部でレディグレイを飲んでいたので、お腹はタプタプしていたが、僕は有栖川先生の淹れる珈琲が好きだったので、苦にはならなかった。
袋田くんが、どんな高級な飲み物を出してくれようとも、こうして薬品の匂いに包まれながら飲むコーヒーが、堪らなく美味しく感じた。
ふと、隣に並ぶ有栖川先生を見やると、一口啜っただけで、只々、カップにため息を注いで居る。
「先生?大丈夫ですか?」
僕の問いかけに、有栖川先生は「はっ」とした様に、我に返り
「ん、ああ、なんでもねえよ。」
有栖川先生がそう答えた刹那、後方から、ガチャン、と大きな音が理科室に響き渡った。
ふと音のした方を見やると、アルコールランプに炙られっぱなしのビーカーが粉々になっていた。
「やばい。うっかりしてた。」
先生は、すぐさまアルコールランプに蓋をかけ、その炎を消した。
ランプの灯りで、ほのかにオレンジ色に染まっていた理科室は、また月明かりだけに照らされる、薄暗い空間に戻った。それが少し残念に思えた。
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