第34話 重い天秤

「あ……う……」


 意識を取り戻したときに最初に感じたのは、酷い倦怠感と体の痛みだった。顔を顰めながらルナはゆっくり目を開くと、周囲を見渡す。ここはどうやらどこかのビルの屋上のようで、冷たく硬いコンクリートの床に彼は横たわっていた。よほどの速度で激突したようで、彼が倒れている地面はクレーターのように大きく窪んで割れており、雨水が溜まって水たまりとなっている。彼自体の損傷も相当激しかったのだろう。その水たまりは赤く染まり、彼の周囲も飛び散った血が雨水を染めている。


「生きてるよ……俺……」


 いつの間にか小雨にまでなっている雨だけが、彼が最後に意識を保っていたときからの少なくない時間の経過を教えてくれる。だが、それだけの時間をかけても彼の体は治っていない。修復するにはもう彼の中の魔力もエネルギーも底を突いているのだ。彼は自身の感情にほとんど起伏がなくなってしまっていることを感じた。これ以上魔法を使えば、デルカのように抜け殻になってしまうのだろう。


 遠くから爆発音が断続的に聞こえてくる。雨脚も雷鳴も遠のいたせいで、その音が以前よりずっとはっきり耳に届く。


「……」


 虚ろな目で空を見上げたまま、ルナは動けない。まだ戦いは終わっておらず、そして事態は何も好転していなくても、それに反応できるだけの心と体のリソースがない。


 コツリ、と足音が聞こえた。


 視線を向けると、そこにはボロボロの姿になったスピカが立っていた。肩を大きく抉られ、体にいくつも大きな傷を負いながらも、彼女は長い白髪を靡かせて笑う。


「アハハッ。ほんとにアークトゥルスやっちゃうなんて! でも意味ないけど!」


 彼女は足に装備していた大型の銃をルナへと向ける。


 銃声が雨空に響き渡る。


「は……?」


 虚ろな目を向けたままのルナは無傷。代わりに、何十発も銃弾を撃ち込まれたスピカが膝をつく。彼女が振り返ると、そこには屋上の出入り口の前に這うアークトゥルスがいた。その体は雷に焼け焦げ全身真っ黒で、地面に叩きつけられたせいか、下半身すらない。白髪も黒く染まり、大きく抉れた顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。


「邪魔だぁ……。そいつを……殺すのは……俺なんだ……!」


「はぁ……? ネットワークからいなくなったと思ったら……壊れちゃって……」


 彼女がそう言い終わる前に、さらに銃弾がスピカの体を貫き、傷口から電撃が迸る。彼の魔法と合わさった特殊な弾丸になすすべもなく、スピカは数十秒の内に動かなくなった。


「ハハハハ……!」


 真っ黒な姿のアークトゥルスは笑い、ルナへと銃口を向ける。


「勝つ……! 俺は勝つ……!」


「それは……何になるんだ?」


 ルナの口から思わずそんな言葉が漏れていた。


「そんなの……決まってる……! 俺がお前に勝って……それで……」


 言葉の続きはなかった。彼から笑みが引いていき、引き金にかける指が止まる。


「それで……なんだ……? それが何になるんだ……? どうして俺はスピカを撃ってまで……」


 ルナは目を細める。


 今までは、彼らはやるべきこととできることが行動理由だった。だが、今は違うのだ。彼らはもう、最大効率と結果を遂行するだけの存在ではなくなった。


「いやもういい。勝ってから……考えればいい……! どっちにしろお前らが終わりなことは同じなんだ……!」


 その言葉に呼応するかのように、町中を覆っていた緑の壁、六花天蓋宮にヒビが入って砕け散った。


「ほらな……。結界も……他の奴らが壊した……。これで世界中の機傀ドールが魔法を理解する……! 終わりだ……終わりだ……!」


 空から透明な緑の欠片が降り注ぎ、先ほどの銃声を聞きつけた機傀ドールたちもルナたちのいる屋上へ上がってくる。彼らにやられる前にと、今度こそ引き金を絞ろうとしたアークトゥルスであったが、次の瞬間、彼は大きくのけ反ってその手から銃を取り落とした。


「ガッ……アアァァッ! な、なんだ……頭が……!」


 頭を抱えてのたうち回ったのは、彼だけではない。屋上に到着したばかりの機傀ドールたちもみな頭を抱えて蹲っている。


「……?」


 起伏の薄い表情が怪訝に曇るが、その彼の目の前で機傀ドールたちの体に星型の花びらを持った黄色い花が咲いていく。


「これは……」


 空を見上げれば、そこに舞っているのは結界の破片だけではない。星型の花びらが雨の中で無数に舞っている。


 ルナは知っている。この魔法は、咲いた花へ近づくものを心から縛って行動不能にするものだ。ルナがこれを使われた時は、加減されていたそうだが、それでも十分動けなくなるほどの頭痛を味わった。


 あたりを見渡せば、周囲の新月樹にはどれも星型の花びらを持つ花が咲いており、突然春が訪れたかのような光景が戦場に広がっていた。


 ルナは悲鳴を上げる体に鞭を撃って立ち上がる。


 知っている。この魔法も、この魔法を使う魔法使いも。視線を上げると、数百メートル先のビルを貫く新月樹が、一際強く輝いている。


「があぁ……あ、あぁ……。なん、だよ……これ……!」


 アークトゥルスはしばらくのたうち回っていたが、しばらく苦しそうな声を上げた後、ついには二度と動かなくなった。屋上に来ていた機傀ドールも同様に、突然に動きを止めていく。


 その光景を無感情に見下ろしていたルナは、誘われるように強く輝く新月樹へ向かった。


 覚束ない足取りで地上に降り、砕けた道路を歩いてただただ進む。


 いつしか町は静かになっていた。戦場の音は何も聞こえず、途中で見かけた機傀ドールもみな蹲ったままその機能を停止していた。


「……」


 この時代に初めて意識をとり戻したときのように、思考を巡らせることなく彼は歩く。ただあの時と違うのは、行きたい場所と会いたい人がいること。目的のビルを見つけ、その階段を登り切り、彼は壊れた屋上の扉を開け放った。


「よぉ……遅かった……じゃねぇか……」


 そう彼へ声をかけたのは、下半身を失ったまま床に横たえられたラピ。だが、彼はラピよりも目の前で起こっている光景の方に目を奪われていた。


 そこにはサーニャの姿があった。だが、彼女の体のほとんどは、ビルの中央を貫く新月樹に取り込まれかけていた。新月樹へ背を向けて手を合わせる彼女の体は、光を放ちながらゆっくりと抱かれるように新月樹に体を包まれていっており、その足元では、金属の花が満開になって。金色の光を放っている。


「サ、サーニャ……?」


 足をもつれさせながら彼女に駆け寄ると、彼女はゆっくりと瞼を開いた。その顔には腕に見た緑のひび割れが走っており、顔色も今までで一番悪い。


「ル……ナ……」


「これは、一体……。た、助ける! 今から助けるから!」


 僅かに戻った感情を驚きの一色に染めながら、彼女を取り込もうとしている新月樹の端に手をかけるが、


「駄目……だよ……。機傀ドールたちを……中から壊す魔法が……解けちゃうから……」


「……!」


「今……新月樹を通して……町中の機傀ドールの心を縛ってるの……。結界は割れちゃったけど……まだ……誰にも魔法の情報を……外に飛ばさせてない……。今、町中の機傀ドールを壊せば……まだ……間に合うから……」


 そしてそれが彼女にはできる。機傀ドールたちが心を持ったゆえに、彼女の魔法で機傀ドールを精神から破壊することができる。


「でも、そんなことしたらお前の体が……! それにこの木もなんだよ!」


「これは……仕方がないの……私が魔法を使うと……新月樹が強く反応しすぎちゃって……こうなるの……。私の体のことも……心配……しないで……絶対にやり遂げるから……」


 そう言う彼女の顔色はさらに悪くなり、新月樹も表皮を盛り上げて彼女を飲み込んでいく。


 そうじゃない。と、彼は言えなかった。


 これを逃せば人類は終わり。サーニャに頑張ってもらうしかないのだ。例え彼女が……。


 自分が言葉を詰まらせたという事実に、彼は強く拳を握って歯を食いしばった。だが、しかし、現実はさらに非情であった。


「ルナ……お願い……聞いて……くれる……?」


「な、なんだよ! なんでも言ってくれ! 俺の魔力か? 俺も全然ないけど、足しになるなら……」


「全部が終わったら……私を……殺して……ほしいの……」


「は……?」


 サーニャの表情が歪み、顔の表面から割れた皮膚が欠け落ちる。


「ごめんなさい……。こんなこと……あなたに頼むなんて……酷いと思ってる……でも、駄目なの……。私の体……病気……でしょ……? このまま新月樹に取り込まれたら……新月樹全体に……悪影響が……出ちゃう……。新月樹は世界中で繋がってるから……世界中の魔法使いに……影響が……」


 新月樹のおかげでインヴォーカーシステムも、プルートーも存在している。そしてそれがなければ魔法使いはまともには戦えない。


「私が……全部の機傀ドールを……壊すころには……きっと……新月樹から出られなくなってると思うから……だから……ごめんなさい……本当にごめんなさい」


「でも……でも……」


 サーニャの目が開き、二人の瞳に互いが映る。


「ルナ……お願い……私たちで……できることを……。人類を……救って……」


 これが今、二人にしかできないこと。


 遠くから爆発音が響いてきた。見れば遠くの空でアルデバランがゆっくりと墜落している。サーニャが機傀ドールを操ってそうさせたのだろう。


 サーニャの息は荒く、顔色も走るヒビもどんどん酷くなり、苦しげに震える様は全てが終わる前に命を落としそうですらある。


 彼女は今まさに死ぬほどに苦しいはずだ。それでも彼女は魔法を止めない。それが彼女にできることだから。


 サーニャは笑みを綻ばせた。


「これで……やっと……私にも……生まれてきた意味が……あった……」


「……!」


 問い。なぜ生まれてきたのか。自分は何者なのか。


 この世界の誰もがそれを抱いている。


 魔法使いも、機傀ドールさえも。


 ルナはアークトゥルスを思い出した。最後の最後に見た彼の笑みは……。


 彼は問う。自分という存在に。


 ルナは雨の上がりつつある空を見る。目に落ちた雨粒が彼の瞳から一筋の雫となって頬を伝って流れた。歯を食いしばって俯いた後に、ルナは背中のリュックを漁りはじめた。リュックの中の魔道具は、どれも壊れていたが、ただ一つ無事だった兵器があった。


 それは一丁の拳銃。


 数時間前にアンドウがルナに投げて寄越したそれは、シンプルな機構ゆえにアークトゥルスの雷撃でも壊れなかったのだ。


 弾はある。震える手でそれを確認したルナは、銃を構えた。


 遠方でアルデバランが地に激突し、地響きが二人を震わせる。


「ルナ……」




 乾いた銃声が街に木霊した。




 空薬莢が地面を跳ね、濡れた床に転がる。


 硝煙の上がる銃をルナが向けた先は、サーニャではなく、その足元にある金属の花であった。


「ル、ルナっ……?」


 目を見開くサーニャをよそにルナは二発三発と銃弾を撃ち込んでいく。金属の花は火花を散らして鋼鉄の花びらを散らしていき、魔術の光も不規則に明滅する。


「ルナ一体何を――」


「人類が救われなくたっていい……!」


 銃声が鳴り、火花は飛び散る。


「ここで人類の負けが決まっても! これが間違いでも! 俺はお前に死んでほしくない!」


「駄目! やめて……! やるべきことを……最善を尽くさないと……!」


「そんなの機傀ドールと同じだ!」


「……!」


 最善手、最高率を実行するだけ。そこに挟まる自我も感情もない。もちろん得られるのは最良の結果。だが言ってしまえばそれだけ。何がしたかったのか、なんの思いがそうさせるのか。結界以外のすべてが虚無だ。機傀ドールたちでさえ、最善手だけを撃ち続けてなお、『問い』を満たすことはできなかった。


 デルカの笑みがよぎる。


 問いの答えは、外にはない。


「俺はお前に生きていてほしい! 死んでほしくない! 俺がやりたいから今こうしてるんだ!」


 その答えは与えられたものでも、言うべきことでもなく、確かに彼の中にある感情。


 すべての弾を撃ち尽くし、カキンカキンと撃鉄が空振る音が鳴る。サーニャの前で開いていた花は、酷く損傷しているものの、魔法自体が持つ維持機能によってかろうじて壊れないでいる。サーニャの心が、この魔法を繋ぎとめている。


「でも……みんなが……ここで犠牲になることが……一番……。そうじゃなきゃ……私がいる意味が……。そう……私も……デルカみたいに……」


 死にたい、と。


 ルナの瞳の奥で炎が燃え盛った。


「ふざけるな! 違う! デルカは自分の価値を示すために死んだんじゃない! サーニャ! お前が言ったんじゃないか! デルカは仲間のために命を投げうったって!」


 サーニャの瞳が揺れる。


 違う。サーニャとデルカでは違うのだ。


 ルナとサーニャ、そのどちらの瞳からも涙が溢れて地面に落ちる。


「デルカは仲間を守りたかった! それがデルカの願いで! 生きる意味だった! そうだろ! お前とデルカの心の中にあるものは同じなのか!」


「……!」


 サーニャが唯一心を読めない人間がいる。それはサーニャ自身。


 彼女は知っていた。デルカの中に輝く鮮烈な魂の輝きを。惑いなく、迷いなく、自信を持った生き方をする彼にサーニャは憧れた。そして、彼のその輝きは彼自身が数多の唯一無二なものをその手に持っているからだと思い、さらに憧れた。


 だが今、この瞬間だけ、サーニャはデルカと同じところに立っている。今唯一、機傀ドールたちへの魔法情報の漏洩を防ぐことができる存在。彼女だけが持つ輝き。


 だが……今、自分はどうだろうか?


 彼の中で輝いていた鮮烈な輝きが、自分の中にあるだろうか?


(空っぽ……。まだ……。こんなにも……頑張ってるのに……)


 彼女の魔法が揺れる。


「サーニャ……。教えてくれ。お前の願いはなんだ?」


「ね……がい……?」


「小さなことでもいい。何がしたい……? 何のために生きたい?」


 問う。何のために生きるのかではなく。何をして生きたいか。


 考える。サーニャは生まれて初めて……。


 思い浮かんだのは、些細なもの。矮小と一笑に付されても仕方がないもの。だが、彼女の中で生まれたそれは、たとえ小さくとも、確かな光を放っている。


「私は……そらを……」


 震える唇で、彼女は願いを紡ぐ。


「夜空を……見たい……。本当の……綺麗な……夜空を……」


 ゆらりと花を覆う魔法陣が揺らぎ、その瞬間、安定を失った金属の花は小さな爆発を起こして光を失った。


 町中に咲いていた黄色い花が一斉に散り、町中に星形の花びらが舞い吹雪く。ふわりと髪を透いた風がどこからか僅かな機傀ドールたちの駆動音を運び、それもいつしか聞こえなくなる。


「約束する。いつか、お前に本当の夜空を見せる」


 いつしか雨は止んでおり、雲の隙間から差した光が穏やかに二人を照らしていた。

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