月夜に機傀は魔法に陰る

那西 崇那

第一章 月

第1話 かつての月が上った日

 何も思い出せないのに、ただ懐かしさだけが心に溢れる。


 目を覚ましたときにはじめて訪れたのは、そんな感覚だった。


 薄暗い部屋の中で、冷たい床に一人の少年が倒れ込んでる。一糸纏わぬ少年の体からはわずかに粘性を持った液体が滴り落ちており、喘ぐように激しく呼吸する音が無機質な部屋に木霊する。


「げほっ」


 大きな咳とともに、ようやく呼吸を落ち着かせた少年はあたりを見渡す。


 大型の機器が何台も鎮座している部屋だった。機器は広い部屋のスペースをほとんど占領しており、太い配線が機器の隙間を縫うように天井や床へと流れ、部屋には機械の駆動音が常に満ちていた。


 窓もなく明かりはどこにもついていない。しかし、少年の背には日の光が降り注いでいた。


 見ればそこにあるのは、大きく破壊された壁と、砕かれた円筒形の容器。


 自分はこの容器に入れられていたのか、と理解すると同時に、少年は注ぐ淡い日光にすら強い目の痛みを感じていた。


 彼の頭の中にあるのは、ただただ混乱の渦だった。


 体のあちこちが硬く、動かそうとすると筋肉や関節に鈍い痛みが走るうえに、頭痛やめまいも襲われている。そして、なぜ自分がこんなことになっているのか、なぜ自分がこんなところにいるのかもわからない。


 それどころか、


「……何も、思い出せない……」


 かすれた声が虚しく響く。


 自分が何者なのか、なんという名前なのかも彼はわからなかった。


 ゆっくりと体を起こす。体に痛みが走るが、頭痛も含めこれらの痛みは、病気や怪我によるものというよりは、長い間使われていなかった体の悲鳴であることは明白だった。とはいえ、それがわかっても、やはりなぜ自分がそんな状況におかれているのかという疑問に結局帰ってくるのだが。


 破壊された壁から吹いてくる風に寒気を感じ、近くに放置されていた白衣を纏って彼は破壊された壁へと足を運ぶ。


 少年の姿が日にさらされていく。


 17歳くらいだろうか。白衣から覗く四肢は骨ばっていて大人の体つきだが、顔にはまだどこか幼さが残っている。特徴的な吊り眉と目つきの悪さが、どうにも少し怒っているように見えてしまう。薄い茶色をした髪からは、液体が滴っており、長めの前髪が目にかかっている。うっとうしそうに彼はその髪を適当に分けた。 


 そして、壁際にたどり着いた彼の瞳に、風と共に景色が飛び込んできた。


「な……なんだ……これ……」


 広がっていた光景は彼に数分の絶句を強いるほどのものであった。彼には思い出せるような記憶はなかったが、常識や知識までがなくなっているわけではない。彼が目にしたものは、それらをはるかに超えていた。


 眼前に広がるのは、夕日を背にした立ち並ぶビルたち。少年のいる場所もまたその一つのようで、十数階分の高さからは、遠方にある高層ビル群まで見ることができた。


 典型的な大都市の光景であったが、しかし、それらの建物のあちこちは激しく損傷し、倒壊してしまっているものさえある。あちこちから立ち上っている黒い煙や、風にながされてくる焦げ臭い空気が異様さを引き立てている。


 しかし、それらの光景すらも霞むような異常なものがあった。


 それは大樹だ。


 大樹といっても、全くもって普通ではない。なにせその大樹は、直径数十メートルはあろうかという埒外な太さを持ち、ビルに巻き付き、あるいは突き破って生えているのだ。それも一本や二本ではない。視界に移るだけでも数十本の大樹が、道路や建物を蹂躙している。まるで植物が都市を食い荒らしたかのような非現実的な光景だった。


 少年のいるビルにも大樹は侵食している。人間ほどの太さがあろう枝が、破壊された壁から室内へ倒れ込んできている。少年の足元に横たわるそれは、枝葉を茂らせているのだが、不思議なことに、その大半は折れ、散ってしまったような跡が見受けられ、全体的に黒く焦げていた。


 少年に悪寒が走る。


 今の状況を何も理解できないが、これはその中で飛びぬけて異常で不気味だ。


 ついさっきできたかのように新しい傷や焦げ。普通では考えられない太さの枝が破壊された壁から入り込んできている様はまるで、この枝が自ら動いて壁を突き破ったようではないか。


 そんな馬鹿なとさらなる混乱を受け入れられない脳が否定する。


 しかしその瞬間、腹に響くよう衝撃とともに、巨大な枝が動き出した。


「なっ⁉」


 衝撃にバランスを崩したところへ、巨大な枝に足を掬われ、少年は転倒してしまう。しかし、悲運はそこに終わらず、外へ出ていく枝の流れに巻き込まれ、彼の体は十数メートルの空中に投げ出された。


「うっそだろ……!」


 とっさに手を伸ばして、腕ほどの太さの枝を掴むが、体にうまく力が入らず、手が離れてしまう。内臓を襲う落下の感覚に悲鳴が絞り出されそうになるが、僅かな落下の後に別の枝に激突し、声が引っ込む。しかし、勢いはそれでは殺しきれず、枝を折って彼の体はさらに落ちていく。


 うごめく大樹の上を転がり、何度も枝に体をぶつけ、ようやく落下が終わったときには、彼は元居た建物の二階ほどの高さの枝に引っかかっていた。


 大樹は再び動きを止め、焦げ臭い空気の中に少年の荒い息遣いが流れていた。混乱と突然に晒された命の危機にしばらく呆然としていた彼だったが、どこか遠くから響いてきた爆発音にハッとする。


 あたりを見渡しても、樹木に蹂躙された都市の姿と、遠くに上がる煙ばかりの光景は変わっていない。何も状況を理解できないが、とりあえずこの不気味な木からは離れたい。彼は体を起こすと、慎重に枝を伝って、道路まで下りた。


 アスファルトを踏みしめたとたん、僅かな安心感が彼に訪れる。


 眉を顰めながら少年は振り返る。


 さっきまで自分がいた無機質でくすんだ色をしたビルと、それに巻き付く大樹。ガラス張りの洗練されたデザインだったのであろうこのビルは、今やほとんどのガラスは割れてしまっており、かつての面影は遠い。


 またどこか遠くから爆発音がした。


 しばらく逡巡した後、彼はその音のほうへと歩を進めることにした。 自分の今も、これからもわからない脳の痺れた彼にとって、その音だけがただ縋れる行動指針だった。少しだけよぎった身の危険の可能性も、心を覆う虚無感への恐怖には敵わなかった。


 ガラスも散乱したひび割れた道路を裸足で歩くわけにもいかなかったので、道中で拾った布切れを足に巻き付けて靴代わりとして先へと進む。


 まだ暖かい季節であったことは幸いだった。白衣を羽織ったのみの格好でも、彼は震えずに済んでいた。


 街には人の気配はなかった。荒れ果てた道路を進んでいくが、風に揺れるもの以外に動くものはない。どの建物も窓は割れ、壁は焦げ、そしてその半数近くが大木に侵食されている。完全に崩れてしまっているビルもあり、本来街が持つ華やかな息遣いはどこからも聞こえてこない。この街は死んでいる。もしかしたら、人も……。


 ことここに来て少年の目は虚ろであった。この異常すぎる事態にもはや頭が追い付かず、今はまだ恐怖や孤独感も遠く感じていた。ただ、音のするほうに亡者のように歩を進めていた。


 多くの車が車道、歩道問わず見受けられるが、そのどこにも人の姿はない。


 カタリ、と。風が生み出す音以外が耳に入り込んだ。


 なんとなく、足元に落としていた視線を上げると、彼の目に人の姿が飛びこんできた。


 その瞬間、さっきまで遠くにあった孤独感が一気に彼の心を突き上げた。この状況で誰かに会えた安心感が堰を切って、彼を飲み込み、目端に涙が浮かぶほどであった。


「お、おぉーい!」


 声を掠れさせながらそう言って、歩を早める。


 道路の中央に佇むその人は、同い年くらいの少女のようで、短い黒髪からその横顔が僅かに覗ける。黒ずんであちこちが破れた少し異様な服装だったが、そんなことは彼にはどうでもよかった。


 少年の声に反応し、少女がゆっくりと彼へと顔を向ける。

 

 少女の顔の半分はなかった。

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