線香と袋麺
@ja_da___
第1話
ことが起こったのは7月にしてはやけに涼しい夕方。僕は大学4年生で、内定や卒業などの報告を兼ねて実家に帰っていた、そんなある日のことだった。
実家には、兄夫婦と、彼らの娘である愛菜が、父とともに暮らしていた。兄はまるで気の抜けたマイルスデイビスみたいな風貌で、いつも不機嫌そうな態度を取っている。「暇だわ」が彼の口癖であった。一方で彼の妻は、とても美人で、しかも周りに気配りのきく、彼には不釣り合いそうな人だ。ふたりは同級生で、彼らが高校3年生のときに、兄は彼女を誤って妊娠させてしまい、地元の不動産会社に就職し家族として養うことを決めた。生まれた娘は愛菜と名付けられた。僕が9歳のときのことだった。
彼らは12年間、地元の団地に部屋を借りて親元から自立して暮らした。僕はその間、思春期の殆どをある意味一人っ子として育てられた。しかし、一年前に母が他界したのをきっかけに兄夫婦は実家に戻った。兄と彼の妻は30歳、愛菜がちょうど小学校を卒業するときのことだった。一方で、そのとき僕は上京して大学に通っていたので、実家のそういった面倒ごとに関わるのは免れることができた。兄夫婦の住んでいる実家は初めてだったけれど、大体のことは自分のいないところでうまくいっているように感じた。
その日、僕は喉が渇いたので二階の寝室から階段を降りていた。階段の正面には、畳の敷かれた、仏壇を置いた部屋があって、ちょうどその部屋から何か囁き声がしている。不思議に思ったのでそろりそろりと部屋を覗いた。すると中には愛菜がいて、彼女は仏壇の前で何かモゴモゴと囁きながら、ときどき手足を痙攣させているようだった。それは神とか宇宙のような、我々の次元を超えた存在と交信しているかのような所作で、僕はただじっとして見つめることしか出来なかった。結局10分ほど続いただろうか。彼女の瞳に焦点が戻ったのを見て、僕は急いで二階に戻った。兄夫婦と父は、居間でテレビを見ていた。兄夫婦は仲睦まじく笑い合っていた。
それからずっと、僕は実家にいながらも他人のなかで生活をしているような心持ちだった。それは、目の前で起きた愛菜のあの行動について、真実を知らない限り解放されない呪縛であるように感じた。
その日からちょうど一週間後、兄夫婦と父は用事で遠出をして、僕は愛菜の子守りを任されていた。朝起きて兄夫婦達を見送ると、愛菜は居間でずっと衛星放送のアニメを見ていた。まるで付け入る隙のない集中をもった眼差しである。それから3時間ほどしてから昼飯に袋麺を茹でた。グラグラと音を立てる鍋に卵をふたつ入れ、そっと火を止めてスープの素を溶かし、卵が中で割れないように、どんぶりにゆっくりと麺をよそった。ラーメンの匂いが部屋に広がると、愛菜はアニメを見るのを中断して僕をやたらと急かした。僕がラーメンに胡椒をたくさんかけて食べると愛菜も真似をして、なんだか微笑ましく感じられた。
しかし、僕は、麺を啜る箸を止め、彼女にあの出来事について問いかけることにした。一週間前さ、夕方なんかあった? というような感じだ。
「おばあちゃんと会ってたのよ」
暫く無視を決めるように麺を啜っていたが、探りを入れて話を聞いていると、愛菜はやれやれと言うような感じで口を開いた。僕は思わず啜っていた麺を咽せてしまった。
どうやらそれはあの日一度きり起きた現象で、彼女自身も何が起きたのか分かっていないようだ。ただ、愛菜が母、彼女の言うところの「おばあちゃん」であるが、と何らかのファクターによって会ったことはどうやら確からしかった。少なくとも僕は信じることにした。しかし、あの日以降、もちろんそれ以前にも、母が仏壇の前に現れることはないのだという。
袋麺を食い終え、食器の片付けを終えてから、僕は愛菜に言った。
「もう一度、おばあちゃんに会いに行こう」
つづく
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