第四章

第50話 初めての彼氏

 夏織ちゃんとお付き合いをすることになってから数日が経つ。


 けれど、生活の流れはこれまでとさほど変わらない。


 朝、公園で夏織ちゃんとバスケをして。

 学校へ行き。

 部活が終わったら家へ帰る。

 帰ったら夏織ちゃんが作ってくれたご飯を食べて。

 他愛のない話をして寝る。


 だいたいこんな感じだ。



 今は夏織ちゃんと夕食を取っているところなのだが。


 ”あーんしてあげる!”と言って俺の口に箸を伸ばされることも、

 ”あー、ご飯粒ついてるぞ!”と言って俺の口元に着く米粒をとってくれることもない。


 これまで通り、「今日学校どうだった?」だの「今日の社食がねー」と日常の話をするだけだ。


 ……なんか、告白しても何も変わらないような。


 初めはだんだん恋人っぽいことも増えてくるかなと期待していたが、変化は起きそうにない。


 俺はここ数日の鬱憤をちょっとだけ込めて、夏織ちゃんに聞いてみる。


「あのさ、夏織ちゃん」


「ん? なーに?」


「俺たち……その、付き合ってるんだよね?」


「……うん」


「けど、その。これまでとあまり変わってないような気がするんだけど……」


「……やっぱり? そうだよね、ごめん……」


 夏織ちゃんは箸を置き、俯いてシュンとしてしまう。


 やっぱり、ってことは夏織ちゃんも思ってたのか。

 しまったな。


 俺は夏織ちゃんを元気付けるため、箸を置いて必死に弁解をしていく。


「ああ、ごめん! 別に夏織ちゃんのせいっていうわけじゃなくてさ! 恥ずかしいんだけど、俺、これまで彼女とかできたことなくってさ。どうしたらいいかわかんなくって。だから、夏織ちゃんに甘えちゃった。ごめん」


 焦りからか両手は意味のない動きをしながら早口でフォローをすると、夏織ちゃんは「私だって」とボソリと言った。


「私だって、恋人できたのなんて、初めてだもん……」


「…………え?」


 嘘だろ?


 こんなに美人なのに?

 こんなに明るくて性格もいいのに?


 もう一度、いや、何度でも言う。


「嘘でしょ?!」


 驚きのあまりあげる俺の大きな声に、夏織ちゃんはさらに肩をすぼめてしまう。


「十歳も上なのに、恋人できたことなかったなんて言ったら笑われると思って……言えなかった。し、私もどうやって恋人っぽいことすればいいかわからなかったの……」


 本当か?

 本当に夏織ちゃん、誰かと付き合うの初めてだったのか?


 信じられない気持ちは少しも収まらないが、同時に嬉しさもこみ上げてくる。


 ——俺が、夏織ちゃんの初めての彼氏。


 こんなに可愛い女性をの初めての彼氏……。


 思わず口角が上がってしまう。

 それ自体はやむを得ないことだったが、タイミングがよくなかった。


「……ほらあ。やっぱり笑われたあ……」


 夏織ちゃんの目が潤んでしまう。


「えっ! あっ! これは! 違うんだ! 夏織ちゃんの初めての彼氏になれたことが嬉しくって、つい……」


 俺がそう言うと、夏織ちゃんは潤んだ瞳のまま俺の目を見て首をかしげる。


「……初めての彼氏は嬉しいものなの?」


「そりゃあそうだよ! なんていうか、その……うまく言えないけど。汚れてない、っていうか。いや、違うな。生まれたままの夏織ちゃんがいい、って言うか……」


「……よくわかんない」


 そりゃそうだ。

 俺も自分で何言ってるかわからないです。


「うぐっ。……ああ! その、俺も恋人ができるの初めてだからさ! 夏織ちゃんと同じで嬉しいんだよ!」


「……でも、さっきは私にリードして欲しかったみたいなこと言ってたよ?」


「あれは、リードして欲しかったんじゃなくて、俺からいけなくてゴメンっていうことだから。事情がわかったならもうあんなこと言わないよ」


「……そっか」


 納得してくれたのか、夏織ちゃんの顔に笑顔が少しずつ戻ってくる。


「じゃあ、これから一緒に恋人っぽいこと勉強してこうね!」


 夏織ちゃんはそういうと、箸をとり今晩のおかずの里芋の煮っ転がしを一つつまんで俺の口に近づける。


 ——まさか。


「はい、あーん!」


「あ、あーん」


 ここでくるとは!

 夏織ちゃんは悩みっぽいところもあると思えば、意外なところで行動力を発揮してくる。


 夏織ちゃんの箸に挟まれた里芋が俺の口の中に入る。


「おいしい?」


「う、うん。おいしいよ!」


 正直、味はわからない。


 さっきまで夏織ちゃんが使っていた箸を俺の口に……。


 そう思うと味よりも幸せな何かが口の中から頭に広がっていった。


 そして、この弾ける笑顔。

 艶のある唇。

 さらりと流れる黒髪。


 ——俺は、とんでもない幸せ者だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る