三章 プラネタリウムとパンダの公園

3-1

 俺が初めて愛花に対して抱いたのは、決して良い感情ではなかった。


 あれは多分三歳くらいのことだ。


 親同士が友達だった影響で、俺は幼い頃に愛花と対面することになった。

 当時の俺は活発ではなく、見知らぬ相手に話しかけるような積極性はなかった。

 今でもそれは変わらないが、昔は今以上にもっと内向的だったと思う。


 だからお互いの母親が楽しげに話している間、俺たちはそれぞれ別々に遊んでいた。

 俺は絵本を読んでいたし、愛花はぬいぐるみをさわっていた。


 そのとき、思い立ったかのように立ち上がった愛花は歩き出し、すぐにこけた。


 あまりのことに俺は心底驚いたのを今でも覚えている。

 もしかするとあれが人生で初めて驚くという感情を学んだ瞬間だったかもしれない。


 それから愛花は俺に驚きを与え続けた。


 飲み物はこぼす、おやつの前に手を洗ったらロクに吹かずに足元までびちゃびちゃ、絵本の字が読めないと泣く、などと数々の失態を演じた。


 そのとき俺は初めて知った。

 世の中にはこんなにもダメなやつがいるのだと。


 そして同時にこうも思った。

 俺はこの子が泣かないようにするべきなのだろうと。


 それは理屈ではなく、直感だ。

 それゆえに抗う方法がない。


 だから俺は愛花がこぼした飲み物は正しく注ぎ直したし、濡れた手と床は拭いてやったし、絵本は音読した。


 母に頼まれたからじゃない。

 仕方なくやったわけでもない。

 義務でも使命感でもなく、ただ直感で俺はこいつの隣にいようと思った。


 こうして俺たちの関係は、水が上から下へ流れるくらい自然に決まってしまった。

 多分それは一生続くのだろう。


 俺たちが決定的に離れることでもない限りは。



 ***



 異世界に行ってしまった愛花と再会する方法。


 愛花に対しては自信満々を装ってはみたが、世界を隔てて別れた相手と会う手段なんて、正直思いつかなかった。

 地続きなら電車や新幹線、離島ならば船、海外なら飛行機に乗ればいい。

 だが異世界となるとどうすればいいのか皆目検討もつかない。


 たとえば俺が愛花のいる異世界へ行く、という方法であれば思いつくこともある。

 できれば避けたい方法だが、愛花のようにこちらで命を落とすという手段も一応考慮に入れることができるだろう。


 とはいえ、確実な方法じゃないだろうし、俺にそこまでのことをやってのける勇気はない。

 そもそも、愛花が望んでいるのは彼女自身がこっちの世界へ戻ってくることだ。


 ならば俺にできるアプローチは――



「急になにを始めたんですか」


「なんだろう、悪魔召喚かな」



 月曜日の放課後。

 チョークを使って自分の机に魔法陣を描く。


 美術の成績は低いので、まずフリーハンドで綺麗な円を描くことができない。

 やや歪んだ仕上がりになってしまったが、このほうが悪魔も好きなんじゃないかな。



「いよいよ頭がおかしくなったと思われますよ」


「久しぶりの学校と授業で、本当に頭がおかしくなったのかもしれない」



 今日の朝、委員長は本当にうちまで迎えに来た。

 おかげで逃げることなく学校に来て、授業を受けた。


 クラスメイトからは事情を聞かれたり、多少は好奇の目で見られたがそれだけだ。

 恐れていたほど、怖い場所ではなかった。


 教室から愛花の机はもう消えていたけれど、そのことに喪失感はあまり感じない。


 これが良いことなのか、悪いことなのか、という判断はできそうもなかった。



「大体そんなのどこで勉強してくるんですか?」



 呆れ顔の委員長が魔法陣を指差す。



「ネットとか、図書館の本とか、結構あるよ。土日の間に調べたんだ」


「その参考資料に儀式は学校でやれと書いてあったと?」


「うん。こういうのは学校とか、病院みたいな、たくさんの人の情念が集まる場所のほうがいいんだって。本に書いてあるとどんな奇天烈な内容でも不思議な説得力があるよね」


「それは少しだけわかります」


「しかしこっそりやってたつもりだったのに、見つかるとはね。委員長はどうして教室に戻ってきたの?」


「帰ろうと思ったら、奥野くんの靴がまだ下駄箱にあったので」


「心配して探してくれたのか」


「まぁそんなところです」



 早足で近づいてきた委員長は、机の魔法陣を見下ろす。



「悪魔召喚についてはよく知りませんが、魔法陣ってこんな形でいいんですか? もっと正確に書くものだと思ってましたけど」


「試行錯誤中。もしかして委員長もオカルトに興味あるの?」


「いえ、全く。ただ対象が魔法陣であろうと、歪んだ形の図形は気になります。悪魔については知りませんが、どんなものでも出入り口が歪んでいると行き来はしにくいでしょう」


「そうだね。ツノとかつっかえたら気の毒だ」



 愛花が出てくるとしても、入り口は広めに確保しておきたい。

 ツノはないが、頭や尻が引っかかったら泣いてしまうだろう。



「良ければ手伝いましょうか?」


「いいの?」


「帰るまでに掃除しておけば問題ないでしょう」


「まさか協力してもらえるとは思ってなかったよ。てっきり委員長はこういう非科学的なのは嫌いなのかとばかり」


「これでも一応反省したんです」



 手伝う理由の説明はそれで十分だという風に委員長は俺の顔と魔法陣とを見比べた。



「それで、悪魔を召喚してなにをするんですか?」


「具体的にはワープゲートみたいなものを作りたかったんだよね」



 つまりオカルト知識を利用して、異世界と現実世界をつなげる。


 最初から魔法陣で異世界とつながればそれでいいし、悪魔が出てきたら愛花のいる異世界につながるトンネルでも作ってもらおうかと思っていた。


 俺が異世界とのアクセス手段について二日間考えた結果がこれだ。

 多少空回りしている自覚はあるが、どうしようもない。


 望み薄だとはわかっている。


 それでも一応挑戦してみた。

 結果はご覧の有様だけど。



「行きたい場所があるならワープではなく、公共の交通機関を利用するのほうが便利ですよ」


「それでたどり着ければいいんだけどね」



 そもそも行きたいというよりかは、帰ってきてほしいというほうが正しい。


 せっかく委員長も協力してくれるようだし、ここは知恵を借りてみよう。

 俺の頭では思いつかなかった名案を授けてくれるかもしれない。


 かといって、事情をありのまま説明するのは抵抗がある。

 異世界に転生した愛花を現実に連れ戻す方法、なんて言い方をすれば再び正気を疑われかねない。

 愛花と異世界についても幻覚や幻聴で片付けられるのがオチだ。


 俺が幼馴染の死を受け入れられない、か弱い人間だと誤解されてしまうのは困る。

 なら問題だけを簡潔に伝えるのがいいだろう。


 方針をまとめてから、魔法陣を綺麗な円に書き直してくれている委員長に声をかける。



「これは仮定の話なんだけど」



 そう前置いて、俺は続けた。



「たとえばさ、委員長がまったく知らない場所にいるとして、どうすればここまで戻ってこれると思う?」


「ここというのは、つまり学校に?」


「もうちょっと範囲を広げて、この町とか」


「状況をもうちょっと細かく設定してください。私は拉致されたんですか? だとすれば移動にかかった時間などから、ある程度の距離は推察してみますが」


「いや、もっと距離がある。たとえば委員長が悪魔召喚に失敗してさ」


「私はまずそんな怪しげな儀式に挑戦しません」


「今のこれで失敗するんだよ」


「だとしたら奥野くんのせいですね」


「かもしれない。で、悪魔によって遥か彼方に飛ばされちゃうわけ。辺りは見たことのない植物や建物ばかり。さぁ、どうやって帰ってくる?」


「そうですね」



 最初は呆れた表情だった委員長も、次第に乗り気になってきたようだ。

 こうして話してみると一種の思考実験みたいで面白いのかもしれない。



「そのときの私の持ち物はなにかありますか? 携帯電話や財布があるのとないのとでは答えが変わってきます」


「なにもない。着の身着のまま放り出される感じ」


「厳しいですね。ちなみに、その場所では言葉が通じるんですか?」


「うん」



 異世界に行った愛花とは日本語で意思疎通ができている。


 愛花も異世界で新たな言語を習得したとは言ってなかったので、少なくとも体感としては日本語が通じていることになるはずだ。


 そもそも異世界で別の言語を話す必要があったらその時点で愛花は泣いている。

 英語の成績すら怪しいのに、この上新しい言葉など覚えられるはずがない。



「日本語が通じるなら、国内ということになりますから最寄りの交番を探します」


「いや、日本国内ではない。むしろ周りの人は日本どころか世界情勢すら知らない人ばかりだと思ってくれ」


「なのに日本語が通じるんですか? それって変な状況ですよ」


「まぁまぁ。これはたとえ話だから」


「わかりました。では建物を調べます。建築様式で、どこの国なのか判断ができるでしょう」


「委員長、建物に詳しいの?」


「いえ、特には。でもこれがたとえ話ならそういう技能を持っていると仮定してもいいでしょう」


「なるほど」



 愛花に置き換えても、専門知識は俺が調べて伝えればいい。

 たしかに、このたとえ話では状況に適した専門知識を持っているという前提にしてもいいか。



「じゃあ建物を調べた結果、今まで見たこともない建築様式でした」


「残念です。では夜空の星を調べましょうか」


「星?」


「遭難したときの鉄則ですよ。北極星を見つければ方角がわかります。もしも詳しい星座の知識があれば、見える星から北半球か南半球かの推測もできるでしょう」


「おぉ、それは面白いかもしれない」



 慣れないオカルトよりかはまだしも現実的だ。


 愛花と俺が交信できている以上、愛花はこの現実と地続きのどこかにいると考えてもいいだろう。


 そういえば異世界にいる愛花と初めて言葉を交わした日、夜空に浮かぶ無数の星を見た記憶がある。

 あれはつまり異世界がどこかの惑星だということになるのではないか。


 もちろん常識の通じない異世界だから可能性は尽きない。

 愛花のいる世界が今の時代よりも遠い未来の地球だという可能性もあるし、異次元の場所だとしても文句は言えないだろう。


 ただ仮に時間や次元を隔てていたとすれば、俺のいる場所からできることはなにもないことになってしまう。

 それではあまりに寂しい。


 なので今はあくまでも、愛花のいる異世界はこの現実と地続きのどこかという可能性に限定して考える。

 その上で「別の惑星」というのは、今までに思いつかなかった面白い発想だ。



「その方向で試してみるかな」


「よくわかりませんが、この魔法陣はもういいんですか?」


「うん。次は天体観測の方向からアプローチしてみる。ありがとう、委員長」


「お役に立てたならなによりです。では早いところ掃除をして帰りましょう。もうすぐ完全下校の時間ですよ」



 委員長はテキパキと帰り支度を始める。

 俺は雑巾を使って自分の机を綺麗にした後、委員長と共に学校を後にした。


 登校だけでなく下校の面倒まで見てもらうとは、小学生に戻ったような気分だった。

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