パンケーキ

ハミヤ

第1話 ニシジマコウスケ1

 天才だと言われたのは子供の頃だ。

 才能は育たずに枯れ果て、期待は失望に変わりすり減った心を癒すものはなくなった。大人になる事は普通に生きる事だと自分に言い訳して折り合いをつけるのは悪いことじゃない。それが最も効果的に人生を消費するための手段だ。

 華やかな人生を期待してそこにたどり着けるのはごく一部の選ばれたものにすぎず、世界は僕を待ってはいなかったのだろう。

 もうどうでもいいか……さて会社に行こう。

 僕は時計を確認してから部屋を出ようと立ち上がると、重力が逆さに作用して思い切り転倒した。

 何が起こったともわからずに、倒れたまま駅に向かおうともがく自分を肯定する。


「余命三か月です」

 残念そうに告げた医者の言葉だけが静かな診察室に響く、医者が開いたカルテに西島浩介と僕の名前がはっきりと書いてあるのに、それが単なる家電か何かの商品名に見えて気持ち悪い、医者は伝票を持った品質管理者なのだろうか? 僕は管理プログラムにはじかれた不良品で廃棄が決まった商品なのかもしれないと思ってしまう。そんな廃棄決定の僕が診察室の小さな窓から入る西日に晒され余命宣告される様は悲劇的で三流ドラマの一場面に思えてリアリティーが欠如してしまい笑い出しそうになる。たぶん医者が見せた渾身のギャグでさっきから押し黙っている看護師は、実は笑いをこらえていて早く僕に退散してほしいと思っているのかもしれない。

 癌のステージはすでに僕の体を攻略して打つ手なしという段階まで進行してしていると言った医者は困った顔でカルテを見たままこちらを直視してくれない。

 お身内の方といらしてくださいと言われたのだが一人で検査結果を聞きに来た自分の病状に表情も作れず戸惑っている僕に困っているのだろう。自分で望んだはずの告知希望が恨めしくなる。

 それでも心の片隅では希望みたいなまやかしが湧いて出て、何とかなるのでは?と思う僕は現実と向き合う勇気がない愚か者、安アパートに戻った瞬間泣き出すだろうと思った。肉体という檻からは逃げ出す事は不可能で死刑執行の時間は近づいている。

 このまま気が狂い正気を失えばどんなに楽だろう。

 逃げるように高層ビルの屋上からダイブすることが幸せであるように思えるが、落ちながら迫りくる地面のイメージや衝突の瞬間、体中の骨が粉砕されスイカが破裂したみたいに飛び散る血液や内臓がリアルに感じられてすぐに却下した。

 冷房の効いた場所なのにひどく汗が出る。鼓動が少し早い。

 三か月ほど前にわずかな痛みとだるさを感じても我慢しながら仕事に励み、会社に迷惑かけることが申し訳ないと病院には掛からないでいた。どうせその時病院に駆け込んでも余命が数か月延びるだけで現状は変わらないだろうと素人の思い込みで後悔を飲み込んだ。

 それでも手取り25万6千円の仕事を忙しくこなすより何倍も有意義に過ごせたかもしれないと思うと、他人の利益の上乗せのために必死で使った時間が酷く無駄であるように思えて仕方なかった。

 切り売りするほど時間が無い事に気づいていなかったのが敗因だ。

 社交辞令の慰めと、これから始まる治療方針を一通り拝聴して診察室をでた。

 診療時間終了が迫った薄暗い廊下を不安な気持ちと少しの苛立ちを抱えて歩く。

 治療といってもこれから起こる僕の苦痛を緩和するための薬によるコントロールと、経過観察による対処療法を中心とするらしい。対処とは聞こえはいいが死んでいく体を少しでも長らえるための処置だろう。

 ターミナルケアへの入院をお勧めしますと言う医者の声が耳に残る。


 一日たっぷりと過ごしたわりには病院の清算時間は思っていたより短くなりそうだと感じるのは余命を知ったからだ。

 憂鬱な顔をした清算待ちの人間が次々と呼ばれ消えていく、そのスピードは残された時間を惜しむ暇さえ与えてくれそうにない、すり減っていく音まで聞こえてくる。

 僕は清算カウンター前の長椅子に座り名前を呼ばれるのを待ちながらふと視線を感じて後ろを振り返った。

 はっきりと刺さるような視線が僕を見ている。

 細身で黒いスーツがスタイリッシュなモデルさんか? かなり綺麗なお姉さんの眼差しは明らかに獲物を見据えるような瞳でネコ科の動物のようだ。

 医療関係のMRだろうか? 僕を見る視線を完全に捕らえたのにその人は視線を外そうとしなかった。それどころか鋭く睨んでいるような気さえする。

 僕に何か気に入らない立ち振る舞いがあったのか?ガンを飛ばして喧嘩でも売ろうとしている中学生かっ! と思いながら一度視線を外すが気づいてしまったことは気にせずにはいられないのが人間だ。

 温厚な僕もたまりかねて立ち上がるとお姉さんに近づいた。

「ちっ!」

 今、舌打ちしたよね。

 僕が一声かけようとした瞬間視線を逸らして立ち上がり僕の横をスルーしていく、幾分ショックを受けて遅れて振り返ると女は跡形もなく消えていた。

 どんなマジックを使った? 僕は呆気にとられ立ちすくむ。

 狐に騙されたと言う語彙がしっくりとくる状態、この無駄な動きをどうしてくれると抗議したいが相手は消えてしまった。しょうがなく女の座っていた席に腰かけた。

 腰かけた瞬間、思わず体が痙攣するように背筋を伸ばす。

 たった今立ち去ったのに尻にぬくもりがない、それどころか座面が氷みたいに冷えきっていることに驚いてしまった。一度身震いして消えてしまった女に対して悪態を言いかけた時、僕の受付番号が電光掲示板に表示された。すごすごと清算カウンターに歩み寄り料金を払い健康保険証と処方箋を受け取った。


 病院棟を出て通りの横にある指定薬局で薬を受け取った後、暮れていく空を見上げる。どこからかホタルの光とか聞こえてきそうな空が自分の人生と重なりため息が漏れた。

「嫌な事ばかりだな」

 口に出してますます落ち込んだ。

 早く休みたいのにボロアパートに足が向かない、仕方なく病院の敷地に戻り案内図にあった中庭の園路に向かう。目的はさっきの女、文句でも言ってやろうと萎えた気持ちを奮い立たせる。

 一秒ごとに削られる残り時間をかみしめながら敷地内にある散策路をしばらくうろついたが結局すぐにしんどくなってベンチに腰掛けた。

 さっきの女は……いない、か。周りを見たが遠くに車椅子の老人がいるだけでそれらしい人影は見つからない。

 九月になりたての風は夕方になっても爽やかとは言えない温度を保って僕に絡み付いてくる。僕は背もたれに背中を押しつける様にノビをして空を見上げると顔を出したばかりの月を見つめあくびをした。しばらくそのまま空を眺めていたがもうすぐ空の住人になるのだと思うと急に怖くなって姿勢を戻したチキンな自分にあきれた。そんな僕を置き去りにする様に遠くの夕日はどこかに行ってあたりは紺色に染まる。

 建物の影が暗く沈み横の街路灯に明かりが入った。

 やけにうるさいむしの音だけが念仏みたいに耳につく。

 あと三ヶ月、いや、動けるのは実質一ヶ月と見よう。どう過ごせばいいのかぼんやりと考えてみる。入院はすぐにしたほうが良いといわれたが断った。たぶんこのまま入院すればそのままゲームオーバーになるので、とりあえず痛み止めと通院でしのごうと思うがどれだけ持つか判らない。自暴自棄になって暴走とかしない僕はいい奴のまま死ぬのだろうか……死ぬ……ああ僕は死ぬのか。ふつふつと湧き上がるのは恐怖ではなく後悔なのだろうか無意識に涙が溢れ出した。

 自分が今生きている時間と言う概念からはじき出されるなんて考えた事もなかった。

 ひどく孤独で吸い込む空気ですら別の物に変わった気がした。

 この二十八年間何をやってきたのだろうかと振り返ってしまう。

 芸術家を目指していたわりに人に迷惑を掛けない、真面目に過ごすとか、普通の常識とモラルに縛られて生きてきた変わり者の美大生だった。

 美大生の中の変わり者って……普通の人だと今頃気づく。

 そんな普通の僕が、たったの二十八年で人生を終えようとしている。天才芸術家として生きて、いくつかの名作を残したのなら、あーそうかと少しは満足して神様の下へ旅立つかもしれないが、所詮普通なだけが取柄のしがないサラリーマンは短すぎる命を生涯年収で換算するしかない。

 費用対効果で言ったら何の利益も生むことのないひどい人生だ。

 苦労して育ててくれた両親には本当に申し訳ない……3年前に進められた1億円の生命保険を断ったことなど今更後悔しても後の祭りだ。

 平均寿命80歳程もある日本でこんな馬鹿な話があるのだろうかと思う、世界を作った誰か様に何を言っても現実は変わらないと判っているのだが、それでもこの状況に言い訳と悪態はビックバン並に湧き出してくるのだ。

 そんなかわいそうでついてない僕の前を一組の夫婦が楽しげに通り過ぎていく。

「ホント良かったわ、ほらね検査してよかったでしょ。あなたってば人騒がせなんだから」

「そんな事言っても尋常じゃない痛みだったし、死ぬかと思ったよ、でもおかげで助かった。感謝しているよ」

 空気読めないオシドリ夫婦の何気ない会話に強い殺意さえ感じて僕の胸は掻き乱れ暴走状態になる。「こっちはホントに死ぬんだよ!」と怒鳴りつけたいのを強引に押さえ込み気づかれないように二、三度地面を踏みつけた。

 目を血走らせ胸ぐらつかんで文句でも言ってやれば気持ちが落着くかもしれない……

 一度大きく息を吸い込んで気持ちを落ち着けたつもりが、この期に及んで常識的に振舞う事しかできなかったと落ち込んで、自分自身に土下座したくなる。

「チクショー!」と蚊のなくような声で叫んだ。

 そんな後悔を抑え込み、とにかく実家に連絡して事情を話して此方に来てもらうか?それとも俺が田舎に帰るか悩んでみる。

 会社には辞表を出して退職の手続きと引継ぎをする。やはり辞めないと迷惑だよな、定期預金と通帳はどうする?あと安物プランの保険会社にも電話しないと、インターネットとスマホ、アパートの解約と、各種パスワードの整理、冷蔵庫にあった冷凍食品は食いきれるかな? そんなこれからのスケジュールを大まかに頭の中に並べていると、なんでこんな時にも迷惑かけないように日程の調整とかしているのだろうと思い吹き出した。

 この若さで終活は無いだろうと自分に突っ込んでみる。

 もしかして僕はスゲー大物なんじゃないかと思わず錯覚する。

 そんな事を思いながら……最大の問題についての対処について思い煩う。

 彼女にはなんと言えばいいだろう、頼めば傍で看取ってくれるだろうか?などと思ってもなぜか彼女の顔がハッキリと浮かばなかった。


 僕が彼女の会社に出入りするようになった二年ほど前、挨拶だけの関係からたまたまエレベーターで一緒になり、その時僕が持っていたTDLの限定キーホルダーを見て彼女が話しかけてきた。それからよく話すように、話と言っても受付で商品を引き渡すときに二言三言話すだけ、半年ほどたった連休前に、食事でもと彼女からのお誘いがあった。

 その時TDLのアトラクションの話で盛り上がり、2件目のバーで大量のアルコールに促されそのままホテルで性交した後、彼女から告白されて付き合い始めた。

 行為に及んだ後だけに断る理由もないし、言い方は悪いが大学から彼女いない歴の続く僕には断る理由もない、むしろ有難いほどだ。

 自分から女の子に積極的アプローチなどしたこともないのですぐにオッケーした。

 美人ではないが不細工でもない、ついでに言えばよくは知らないが結構なお嬢様だ。多少ポッチャリなのが気になるが、僕だって誇れるほどのイケメンではないし中小企業に勤める安月給の普通のサラリーマンである。見た目レベルで言うとお似合いカップルの誕生に驚きはない。


 最近、明らかに結婚を意識している彼女に、病気のことを告げないで別れたほうがいいだろうかと悩む……僕の事など引きずられても困る。まあ、彼女がどんな風に思うかわからないけど、困らせる事はしたくない。

 あれ? また人に迷惑を掛けない事だけ考えていた。

こうなると僕の精神構造は平穏に生きるための癖がついているとしか言いようが無い。

 僕は潤んでぼやけた視界のまま自虐的に笑った。

 そういえば大学の時に付き合っていた人に言われた事がある。

 もうすぐ終わる僕の短い人生で一番幸せだったと思える時間と深い傷をくれた人、今でも時々思い出す別れた彼女。

 いや別れてないな、捨てられたのだと嫌なことを思い出した。

 当時の僕は画家になるのが夢で、まだ自分に才能があると信じていた青臭い男だった。高校の時に地方の新聞社が主催する作品展で洋画の最高賞をいただいていたので自分は天才だと勘違いしていた。

 今では口に出す事も憚られるようなセリフをためらいなく語ったものだ。

「将来はアーティストとして世界の都市で個展を開くよ、フッ」とか恥ずかしいを通り越して死にたくなる様な事を公言したりして自分のエセ天才っぷりをひけらかしていたのだ。

 そんなとき僕の才能を信じくれた美由紀と出会い恋をした。そんな美由紀が僕の絵を見て言ったことがある。

「あなたの絵って何かうますぎるのよね、うまいというのは悪いことではないよ、技術もしっかりして商業的にはウリになるけど、でも芸術にとってはきっと終わりでしかないと思うの。完成ということにこだわらないで自分をぶつけてみたらきっといいものが描ける。いい加減、人目なんて気にせずに迷わないで殻をやぶって、そんなに才能あるのにこのままじゃ無駄になるよ、もったいないよ」

「いい人病は止めて」そう言って僕を見つめていたのを苦々しく思い出した。

 同じ大学で美しい水彩画を描く彼女は僕の才能が羨ましいといっていた。表面だけアーティストを取り繕って技術だのみな僕に、美由紀はきっとイラついて言ったのだろう。

 そして4回生の作品展の前に僕の前から姿を消した。

携帯もつながらない、僕は美由紀の友達から無理を言って実家の電話番号を聞き出した。

 いざ電話しようと携帯を見つめるが向き合う勇気がなかった。結局、僕に対しての事情説明の機会が訪れる事はなかった。

 美由紀は僕が追いかけるとでも思っていたのかもしれない、それなのにプライドだけは人並以上な僕は美由紀の本当の気持ちを知るのが怖くて逃げていたと最近思う。

 結局その事が原因だ、などとは思いたくないけど最後の作品展は予想通り散々な結果に僕の夢は崩れ去った。

 そして僕は筆を置いてなるべく芸術を遠ざけ普通のサラリーマンになる事を選んだのだ。

 あの時続けていたら美由紀は戻ってくれただろうか、そんな思い出話まで浮かんでくるとはすでに本当の末期だ。ほんとなだけに笑えないなと俯いた。


 通り過ぎたおしどり夫婦が見えなくなったのを確認してから僕は立ち上がるとのろのろと歩き出した。

「腹イテーな……」

 わき腹から腰のあたりを擦りながら歩く。病院の敷地を出るころにはすでに汗だくで、かいた汗が暑さのせいなのか痛みによる冷や汗なのか判らなくなる。

「家まで15分ぐらいか」

 溜息をついて立ち止まると歩道の端に立って手を上げた。

 タクシーが急ブレーキ気味に止まる。

無理に歩く必要の無い事に気付いた。徒歩で帰ろうとした自分自身に力ない突っ込みを入れてタクシーに乗り込むと、車の中は程よく冷やされ快適だった。自分が住むアパートまで歩く道は車だとこんなにも楽だとは知らなかった。

 僕の真面目さは損な役回りを選択する事が多く、それで皆に迷惑がかからなければいいと思い生きてきたのは、親の教えによるところが大きい。短い距離だとタクシーに乗るのも遠慮していたと思う。自分がちょっとだけ我慢すれば世の中まるく収まる事が多かった様な錯覚に支配されていたのかもしれない。それはただの勘違いで、世の中、僕の事など意にかえさずに回っている。まあ、それを承知で小さな徳でも積む事ができれば一生幸せに暮らせる。かも、なんて事はない。

 神も仏も所詮は人間の作り物、すがっても無駄で救いなど無いと気付く。

 そういえば去年の冬のボーナスは業績不振と言われ、かなりのダウンだったにもかかわらず社長が新車の高級外車に買い換えた事にも腹は立たなかった。損な世の中で生きる事に不満すら持たずに生きていた自分の馬鹿さにあきれながら小さな決意をする。

 明日で会社は辞めよう!ばかばかしいので辞表も出さずに無断欠勤でいつまで雇用してくれるか試すのも悪くない。営業成績トップの僕がいなくなりきっといい迷惑だろう。会社の連中がバタバタするのをこっそり近所のカフェで大好きなパンケーキなど食いながら覗くのも面白いな、僕は性格まで癌に侵され始めたようだ。

「お客さん着きましたよ、こちらでいいですか?」

 運転手の言葉に一瞬ドキリと体が萎縮したのは自分の濁った考えを見透かされたように感じたからだ。

「お客さん、なんだか楽しそうだね、いい事ありました?」

 千円札を受け取った中年の運転手が言った。

「判りますか、なんだか気分良くていい絵が描けそうなんです」

 運転手が気さくな笑顔で画家なのですかと聞いてきたのに「ハイ」と切れの良い返事をして車を降りた。

「いい絵が描ける……ね~」

 タクシーが行ってしまってから、ふと運転手の笑顔を思い出す。なぜかどこかで見たことのある顔、自分の記憶を辿ると鮮明に思い出した。確か数年前まで映画やドラマに出ていたベテランの俳優さんに激似だ。一度出演した映画の舞台挨拶で本物を見たことがある。

 映画では物凄く魅力的な演技をする人だったような……気のせいかな、確か癌を告白して治療に専念したはずだけど……

 僕は自分の思い過ごしかもしれないしどうでもいいかと部屋に急いだ。

 部屋に入るとすぐに押入れに直行して中にしまっていた画材一式を引っ張り出した。

 まだ使えるのか不安だがとりあえず準備を始める。もうまじめな偽善者生活なんかどうでも良かった。やりたい事だけやると決めると一瞬だけ楽になれる。

 3年前にウッカリ描きかけた50号のキャンバスをイーゼルにセットする。

 今見ると謎な線が数本描いてあるだけのキャンバス、数本描いただけで最後に描いた枯れた風景画を思い出して怖くなったのを思い出す。

 一息「ハー」と息を吐き体の力を抜きパレットを持つ。

 時間ないんだ、直描きで一気に仕上げる。昔テレビで見たボブ・ロス画法なんてのもあったな、なんでもあり、全て自由だ。

 生活していくと言う人としての行為は捨てた。僕は神になる。だれも逆らうことを許さない、後は想うまま筆を走らせればいい。

 筆を握ってから心のどこかで何かが壊れるように胸が高鳴っている。

死を受け入れると、もう怖いものなんてなかった。ただ描けばいい、誰も咎めも酷評もしない、筆を握った指先が熱くなり周りが見えなくなった。筆は意識の先へと進む。脳みそからあふれ出るイメージを具現化していく作業に溺れる。

 興奮状態で快楽を受け入れるように体が熱くなる。筆を動かすたびに自身から途轍もないエネルギーが放出されていくのを感じる。それはそのまま絵の中に吸い込まれていく様に見えた。絵は僕の一部となって精神的な境目がすべて取り除かれた。

 一生たどり着くことはないだろうと決めつけていた理想空間へもうすぐたどり着く。

 そして僕の意識の全てはカンバスの中だけになって光出す。


 部屋は絵具とテレピン、ぺトロールの混ざった油彩独特の香で満たされていて、学生のころを思い出した。世界が僕を待っているとか大学で天狗になっていたころの気持ちに戻る。冷蔵庫から冷えた缶ビールを持ってきて疲れたからだに流し込むと脇腹が痛んだが言い知れない充実感で満たされた。

 乾くまでまだ時間がかかるなと思いながら作品に酔う。出来上がった絵を目の前にすると長く生きる意味なんて忘れるほどの至福を独占したような気持ちが湧いてきた。

 これ以上の作品なんて見たことが無い、どんな有名な巨匠の作品も凌駕している。

 もちろん僕しかそんな事思わないだろうけどそれでいい、これが僕の生きた証となるのだから。

 もうすぐ夜が明ける。

 夢中で描きあげた絵は力強く輝いて、僕自身の分身としてそこにある。

「やればできる……僕はやはり天才だったよ、美由紀」

 思わず言ってしまった独り言に、恥ずかしさを覚え、両手で頬を叩いた。

 美由紀はこの絵を見て褒めてくれるだろうか?褒められることを待つ犬みたいにウズウズした気持ちになる。凡人の殻は破れたのかと問いたい。今となっては、あの厳しい批評と優しさにあふれる所思は聞くこともできない。

 スマホのアドレス帳を開いて美由紀を探す。

いまだに消去されずにあるアドレスはとっくに変えられているだろう。実際、数年前に酔った勢いで送ったメールは返信が無かった。

 僕は絵の写真を撮ってメールに添付した。

〈また描き始めるよ〉メッセージを一言添える。アドレスが変えられていなければ見てくれるかも、などと甘い期待と徹夜の作業で上がりまくったテンションのまま送信した。

 こんな朝早くにバカじゃね! と、思いながらも僕は少しだけ満たされた。

 急に眠気が襲ってくる。いい夢が見れそうだ。このまま逝けたら幸せなのに……

 そんな馬鹿な思考は突然のチャイム音でかき消された。

「なんだよ、こんな時間に」

 僕は酔っ払った彼女が訪問したのだろうと思いながらインターホンに応答する。

「どちら様ですか?」

 極力不機嫌に出ようと勤めたが、素直ないい返事になってしまった。

「朝早くにスイマセン、わたくし技能仲介業の買取人をしていますマキタと申します。よろしければお話させていただきたいのですが」

 聞き覚えの無い女の声。

 こんな朝っぱらにこいつは何を言っているのか理解するのに時間を使ったが、早々に無理と判断して「お断りし……」と言いかけた。が、急に返事にかぶせるようにセールスらしい女は声を上げた。

「お待ちください西島浩介さん、もっと生きたくないのですか!」

 なんで僕の名前を知っている?

 理解できないが、今の僕は〈生きる〉と言う単語には敏感になる習性が芽生えたようだ。

 数秒の沈黙がインターホン越しの世界を隔離する。

 僕の寿命を延ばすとでも言いたげな女の息づかいが受話器のスピーカーから聞こえるのが僕のなかで飲み干したビールと混ざり合いながら染み込んでくる。

「鍵、開いてますのでどうぞ」

 普段ならこんな怪しい人物を部屋に招き入れるような事は絶対にしない。

〈金をくれると言っても常識外れの面倒に巻き込まれるのはゴメン被る〉が、信条で生きて来た。それなのに残りの人生を剥奪された事で僕の中にある何かが変わったのかもしれない。ドアが開くと、女は真冬のような冷気とともに現れた。室温が一気に五度ぐらい下がったような気がした。

 僕は狭いキッチン兼廊下でナントカ業の買取人を出迎えた。

 上がり込んだ女を見ると、その忘れる事のない美貌を押し付けがましく晒さしてきた。

「はじめましてじゃありませんね」

 病院で見かけた失礼な視線を送る美人のお姉さんだ。

 僕は呆気にとられ、ただ突っ立ったままで薄ら笑いの女から目が離せないでいる。女と言う生き物にしておくには惜しいほど機械的で無駄がない整った顔立ちに、人を寄せ付けない冷たさがまるで孤高の芸術のようだと思った。

「絵を描いていたのですか?」

「えっ、わかるの?」

 玄関先で自慰行為を見抜かれたような気がして心臓の鼓動が早くなる。それでも少しだけ恥を含みながらも照れたのはこの女が美しいと理解したからかもしれない。無意識に雪のような白い肌と美しく長い髪の毛を弄びたい衝動が僕の中に湧き上がる。

 彼女がそこにいるだけで僕は男だと証明される。すぐに性癖を晒され恥辱に満ちた自分と向き合うことになる。胸に嫌な感触が走るが男の本能的想像力は一度動き出すと止めようがない。まったく人間死ぬとわかっている状態でもここまで完璧な女を見るといろいろと想像せずにはいられない生き物なのか、いや違うな、死ぬからこそ美しく良質な遺伝子に興味をそそられるのだろう。言わば繁殖したいのだ。

「ご説明したいので、上がってもよろしいですか」

 怪訝そうに僕をみていた営業のマキタは言った。

 鼻の下伸ばしていたのがバレバレなのだと思うと顔から火が出そうになる。それを取り繕うようにあわてて部屋に通した。

「これが描かれた油彩ですか……素晴しい」

 部屋に入るなり僕の絵を見て溜息交じりに言った言葉はお世辞には聞こえなかった。気のせいか泣いている様にも見えて戸惑う。

「所詮アマチュアの描いた物ですから、たいしたモノでは」

 僕が照れて謙遜交じりに言った事が気に障ったのか、急にマキタはこちらを睨んだ。

 器械的な美人が一瞬だけ覗かせた人間的な感情に少し驚いた。

「そんな事言っているから今まで無駄に生きてきたんじゃないですか」

 強い口調に困惑しながら彼女を見た。感情が高ぶっている事に気付いたのかマキタは、はっとしてすぐに目をそらし丁寧に詫びてきた。

「失礼しました。余りに美しい絵を見たので……つい」

 それでも引き付けられる様に僕の絵を見つめる彼女は本当に美しい。

「それで説明というのは?」

 僕の言葉に仕事を思い出したマキタはあわてて名刺入れを取り出すと営業的に慣れた手つきで名刺を差し出した。

〈CGS、技能仲介業、才能買取人、牧田恵子〉

 名刺にはメールアドレスと携帯番号、それに代表番号が記されていた。

 宗教ではないのかと聞いたがそんなものではないと言う牧田の顔は真剣だ。

「よくわからないけど、何をするのですか」

 臓器でも売ってくれとか言われるんじゃないかと恐る恐る聞いた。

「簡単な事です。あなたの中にある無駄になった才能を買取りそれを適合者に斡旋して利益を得る。それだけですよ」

 才能を売る? 何の事か鈍い僕には判らなかった。それどころかイメージとして沢山のコードが付いた珍妙なヘルメットを見知らぬ誰かと共有して電気ビリビリみたいな映像が脳裏に浮かぶ。どうやらやめた方がいいと思い始める。

「そんな事言われても僕には売るべき才能なんてこれっぽっちもないのですが、仮にあったとして金が入っても意味ないですよ……もうすぐ死ぬし」

 小さな声で認めたくない事実を話した。そんな僕を牧田はフンと鼻を鳴らし訝しい顔で見た。というか、見下した。

「才能が無いなんて西島さんが気付かなかっただけで、あなたの描く絵は世界に衝撃を与えるはずでした。何度アプローチをしても凡人気分のあなたは殻を破ろうとしなかった」

 殻を破る?この人は何を言っている?

 僕は死に近いだけで死ぬ瞬間でもないのに走馬灯を見た。

 数々の殻を破れの言葉、高校の時も美術の先生に言われたし大学の教授にも、何人かの友人にも言われた記憶がある。美由紀に言われてもダメだった自分。なんでこの買取人とやらにそんな事言われなければいけないのか、だんだん腹が立ってきた。

「まあ、あなたのような気づかない人は何人もいますのでお気になさらずに、それで手続きですが」

 気にするな?こいつ急に事務的になりやがって、何のつもりだ?

「僕はまだ契約するなんていってない、だいたいお前は何なんだ、急に来て訳の判らない事を言って才能なんてわかるわけないよ」

 僕の言い分に攻撃的な視線で舌打ちをした牧田にちょっとたじろいで半歩引いた。

「西島さん!」

 学校の先生に名前を呼ばれた気分で「ハイッ」と切れのいい返事をしてしまい落ち込む。

「ほんとに分かってないですね、あなたは神がくれたSSクラスの才能を開花させることもせずバカな理性で抑え込んで無駄に人生を送ってきたのです。我々の演算ではあなたの才能が開花すれば世界の美術史を震撼させるほど素晴らしい物になったはず……いや世界どころか数百年後の宇宙時代には他の種族が争って欲しがるほどの作品を残せたはずですよ、それを無駄にして……事情が許せばこんな面倒な手続き抜きで才能だけ略奪したいのですが、まあいいです時間は戻せませんし、条約に則って進めます。諦めるしかないですから」

 条約?略奪?何のことだ?

 興奮した牧田女史の顔を見て僕は異星人までガッカリさせたのかとうろたえる。

 そんな壮大な夢想を受け入れる事もできずに牧田の言葉を待った。

「ですからあなたの無駄に保存されている才能を他の誰かに売って、あなたの寿命を延ばすことができると言うことです。お金を入金するわけではありません、寿命で買うんです。どうしますか?人間らしくお見積書も出せますが」

 寝不足の頭ではもう判断の限界だった。こんな荒唐無稽の話を本気で信じそうになる。

 判断力をそいで契約する常套手段なのかもしれない。

「他にもいるんですか、僕みたいなの」

 めんどうくさそうに僕を見た牧田は渋い顔をした。

「昨日のタクシー、気付きましたよね。わざわざこちらで用意したモノですから気づいてもらわなけば困るのですが……もちろんあなたみたいにほとんど才能が消費されずに残っているのはレアケースです。あの運転手は素晴しい俳優でした。彼は残りの才能で寿命を買ったのです。大切な人と生きるために、確か8年分ですね。才能を買った人はデザイナーとして開花させたはずです。才能は人の適合で変わりますから、あなたの才能も買った人の適合で何になるか分かりません」

 そう言って腕時計に目を落とす。

「どうします?契約しないで残りの時間で描けるだけ描いて死にますか、多分2作ぐらいだと思います。苦しいですよ、今さらあふれ出した才能に時間が付いてないのは、あなたの場合才能が大きすぎて死ぬときの後悔は通常の十倍……かな」

 牧田はテヘッとかわいく笑って嬉しそうに僕を見た。ザマミロと表情が言っている。

 ぶっちゃけた牧田はなんだか楽しそうにも見える。

「今すぐ決めないとダメですか?」

 契約前の保留に牧田の表情が曇る。

「時間無いですよ、待ってもあと三十時間、それ以上は才能器官の劣化が始まるので買取できませんが」

 僕は全然理解してないが、わかりましたと言って時間を貰った。

「これあげます、寿命の判る時計です」

 そう言うとキラキラと光る丸いガラス玉みたいなモノを僕の手のひらに押し付けてきた。

 それは一度強く光ると雪のように消えた。驚いてすぐに手を引っ込め強く押さえ込み恐る恐る確認したが何も無かった。

 牧田は薄く笑いながら「チキン野郎ですね」と言い、使い方の説明を始めた。

 手のひらを合掌したまま軽く開き覗き込むとカウントダウンが見られる眉唾な装置に動作確認もしないで頷いた。

「それでは、二十五時間ぐらいで見積もりを持ってまたきます」

 そう言って牧田は部屋を出て行った。



「!」

 スマホの着信で目が覚めた。

今ひとつ状況が呑み込めず髪を掻き上げ部屋の中を見ると描き上げた絵が神の様にこの空間を支配して存在感を放つ。

 僕は心で神に祈る……まだ死にたくないと。

 ひどい寝汗で首の辺りがべとついて気持ち悪い。ティッシュで汗をぬぐい一息ついてから着信の確認をすると課長からで、時計はすでに十一時を過ぎている。

 応答する気になれずに放置した。

 牧田と言う女を思い出すと性欲が蘇り少しだけ生きる力になった。

「けど夢だよな、あの女も」

 変な姿勢で眠り込んだため体のあちこちが痛いし、ついでにわき腹も痛み出す。

 薬を飲まなくてはと思い無理やり体を起こす。

 僕は腹部の痛みを堪えながらアホな夢を笑い、立ち上がり伸びをした。

 夢で見た女に言われたように両手を合掌してそこを覗き込んでみる。

 体が凍りつく。

〈72日15時間44分56……55……54秒〉

「三ヶ月ねーじゃん」

 僕は固まった姿勢のまま呆然として描いた絵を見つめるしかなかった。














 


   

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