天下分け目の関ケ原合戦…その実態を検証してみた!

近年関ケ原合戦の一次資料による調査が進み、

日本陸軍の作った関ケ原布陣図や従来の通説と、

実際の戦いには相当の乖離がある事が分かって来ました。

と言うのも、NHKの大河ドラマ等で出て来る一般的な関ケ原の

戦闘経緯の詳細は、明治の陸軍の創作によるものだからです。

大半の歴史小説もこの明治陸軍や後世の創作等を下敷きにしており、

事実とはまったく異なる内容を面白おかしく記述しているに過ぎません。

一次資料、すなわち関ケ原に実際に参加した人たちの記録からわかるのは、

9月15日当日の戦いは西軍が全く良い所なく惨敗し、

そして数時間に満たない戦いで全てが終わったという事です。


この戦い全体を一種の戦役キャンペーンと考えると、敗北に至る様々な

原因が考えられますが、今回はそれについて考察してみたいと思います。


まず西軍の当初の全体的なグランドデザインは、

客観的に見ても非常に良く出来ていると思います。

徳川主力とその協力勢力を上杉を使って東北に釣り上げ、

その間に反徳川の勢力を糾合して、上杉と挟み撃ちにする。

まともに実行されていたら、徳川は滅んだかもしれません。


ただ今日の様な通信手段のない時代、しかも何百キロという

空間の中での作戦には、伝達の問題、各勢力の思惑等、

中々に統制の難しい問題があります。


一次資料によると、西軍側の総大将は毛利輝元ですが、資料を見る限り、

実際に毛利家及び西軍全体を統制したのは安国寺恵瓊と吉川広家ですね。

毛利家は西軍内の最大勢力なのだから、これは別に変な話ではありませんが、

石田三成は彼らの描いた大戦略に基づき、岐阜の大垣城に籠城しました。

三成は西軍の総大将なんかではなく、大垣方面軍4武将

(石田三成/小西行長/島津義弘/宇喜田秀家)の総指揮を取る、

一方面司令官的な存在な訳ですね。

この時大垣に籠城していた西軍4部隊は大体2.5万近辺だった様ですから、

この部隊と岐阜城の織田秀信の部隊(ざっくりで5千程度)が

西軍の先鋒という事になります。


さて西軍の戦略は、上杉が徳川と方向違いの最上領に攻め掛かるという

真逆な動きにより、最初の躓きを出します。

西軍首脳は、上杉が徳川主力を牽制すれば、3万から5万前後の

徳川軍を関東方面で拘束出来ると考えていたと思うのですね。

しかし実際には上杉のトンチンカンな動きにより、徳川主力が

東海道筋と中山道筋を分進してくる事態になりました。その数合わせて7万。

この時清洲に展開している東軍先手(福島正則/黒田長政/池田輝政等)が

合計で4.5万程ですから、この時点で東軍の総兵力は11.5万。

これに対する西軍は大垣/岐阜の戦力が約3万。

伊勢方面軍が毛利他各隊合計で2万数千。

北陸から転進して来た大谷吉嗣の隊が2千程。

この時点で小早川秀秋(約8千前後)も味方として計算しても、

合わせても6万数千に過ぎず、これでは東軍の半分程度であり、

戦いになりません。それでも西軍は真田勢の活躍で、

中山道の徳川勢を遅滞させる事には成功しています。

もっともこの遅滞は殆ど役に立たなかったのですが…。


実際には8月23日に岐阜城がたった1日で落城し、

東軍の先手衆4.5万が付城を築いてその後方…三成のいる大垣城を包囲しました。

実は岐阜城陥落の時の西軍の動きや布陣も非常に緩慢かつやる気のないもので、

本気で岐阜城を守るつもりなら、東軍先手の木曽川渡河を全力で

妨害しなくてはなりませんが、三成にはそれを真面目にやろうとした

形跡がありません。織田秀信の軍勢だけで東軍の渡河を押し留められないのは、

兵力的に当然の話でした。岐阜城は木曽川を天然の堀とする

前提で作られた城であり、一旦木曽川渡河を許すと防衛戦略が崩壊します。

なぜなら狭い山城で、城内の各郭の収容兵力が少なく、

大兵力による城攻めに対応出来る構造ではなかったからです。


元々岐阜城を前線拠点にするつもりがなかったのなら、

別の策を講じる必要があったはずですが、それが見えてきません。

これ以降、9月15日の関ケ原合戦前日まで、

西軍と東軍による約3週間あまりの大垣城攻防戦が始まる事になります。

家康自ら率いる徳川東海筋

主力3.2万の戦力が大垣城の眼の前、赤坂に着陣した

のは9月14日ですから、三成が大垣城包囲戦とその後の展開を

検討する為の時間は、3週間以上あった事になります。

この間、三成がやった事は、伊勢方面軍の毛利勢に後詰を要請した事くらい。

この要請に基づいて吉川広家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親合わせて1.4万くらいの

戦力が南宮山の麓に布陣します。これが家康の赤坂到着の1週間前の9月7日。

通説では南宮山の上に布陣したとありますが、これは事実ではありません。


で、彼らはその後家康率いる徳川本隊が赤坂に到着する前に、

結局何もしませんでした。これが第2の躓きになります。


家康直率の徳川本隊が遠からず赤坂方面に進出する事は西軍側も

予想出来たはずで、ならなぜこの間、大垣に籠城し続けたのでしょう?

敵の大軍が迫る中、味方の有効な後詰が期待出来ない状況で、

籠城を継続した理由がわかりません。


普通に考えれば、西軍の先手衆は岐阜城陥落に伴う損失等考慮すると、

大垣の籠城勢と南宮山の毛利の後詰勢を合わせても4万程。

動向に疑問符の付く小早川勢を含めても5万弱

(通説とは違い、小早川勢は8千程だった様です)。

約4.5万の東軍先手とほぼ同数です。ただ、家康本隊到着前であれば、

大きな兵力差はないので、大垣籠城勢と毛利後詰勢が協力して

東軍先手衆を攻撃し、これを一旦撃破してから後退するという戦略は

取り得たと思います。西軍は最前線への兵力集中が出来ていないのだから、

大垣を最前線にするのではなく、自軍の兵力を集中できる拠点まで

後退するのが、この時点では理想でしょう。


しかし後詰に来た毛利勢はなすすべもなく1週間南宮山に留まり続け、

家康本隊到着と言う最悪の事態を迎える事になります。

9月14日の家康本隊の到着時点で、赤坂方面の東軍は約7.7万。

対する西軍は小早川勢を含めても5万に満たない数です。

しかもこの段階で松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返ったという情報が入ります。

これは当時の吉川広家の直筆書状で9月14日に判明したとわかりますが、

この時になって三成は宇喜多、小西、島津隊と共に大垣城を脱出して、

南宮山の南を迂回し、関ケ原の西方、山中村付近に陣を張ります。


この時の三成の当面の戦略は、まず関ケ原方面に前進した大谷隊に

小早川勢の蓋をさせ(この時小早川勢は松尾山を下りて東軍と合流しようとする

動きを見せていた)、山中の西軍4隊で小早川勢を撃破、返す刀で東軍先手衆を

崩す(南宮山の毛利と協力して)といった所でしょう。

15日に家康の本隊は南宮山の毛利勢を攻撃するはずと

三成達は考えていたからです。

しかし兵力差を考えると、これはかなり虫の良い話で、

恐らく勝利はおぼつかないと思います。


一方、南宮山麓の毛利勢と言えば、目の前に現れた家康本隊の大軍に

パニックを起こし、三成に連絡もせずに吉川広家が関ケ原決戦前日に

家康と休戦(和睦)します。

これは本多忠勝と井伊直正連名の書状からわかります。

これが第3の躓き。一般的に言われる、吉川広家が早くから家康に

内通していたというのは、一次資料による根拠がまったくありません。

関ケ原決戦前日に彼がやったのは、目の前に来た徳川の大軍との休戦交渉。

ありていに言ってしまえば眼前の家康の大軍にビビッて、命乞いをしたわけです。

南宮山の毛利勢を含めた西軍は、家康本隊の半分以下ですから。


翌9月15日早朝、山中村近辺に展開する三成指揮下の石田、宇喜多、小西、島津勢と

大谷吉継の部隊は、東軍主力と小早川秀秋勢と戦い、なすすべもなく壊滅。

良質な一次資料を見る限り、決戦開始早々に大谷吉継は戦死、

石田三成の陣も瞬時に崩れ、戦いは一方的なものでした。

西軍先手衆は総崩れとなって、退却して行きます。

島津の敵中突破もこの時です。

挙句の果てに毛利輝元まで大阪城を退去して国元に帰ってしまいました。

これが第4の、そして最大の躓き。


三成が大垣城を脱出するのであれば、何も徳川の大軍が到着した当日、

夜の雨の中、無理な行軍とかしないで、もっと早い時期に行うべきでした。

この9月14日夜がかなりの大雨だった事は記録にも残っています。

慶長5年9月14日はグレゴリオ暦だと1600年10月20日。既に秋も深まり、

肌寒くなってくる季節、夕方大垣城を出発した兵は殆ど一睡もせず、

びしょ濡れ、20キロ近くも夜道を歩き、

その状態から早朝に山中に陣を張った訳で、

いくら何でもドタバタし過ぎでしょう。


この疲労困憊した状態で眼前に東軍の大軍が雲霞の如く現れたら、

前線の兵士の士気が地に落ちるのは当然、ふざけるな!

と思ったに違いありません。

開戦後、すぐ総崩れになったというのもうなずける状況です

(開戦早々に西軍が崩れた経緯は、当日参加した島津の家臣が、

戦後したためた覚書で明白です)。


その上、総指揮をとるはずの吉川広家、安国寺恵瓊が戦いもせず、

家康に休戦を求めるとか、空いた口が塞がらないとはこの事かと。

このやる気のなさは、いったいどういう事なのでしょう?

そうして南宮山の毛利勢が家康と休戦した事も知らずに、

東軍の大軍と戦って壊滅した三成を初めとする西軍諸将は、

まさしく良い面の皮だったと言えます。


関ケ原の合戦は、そもそも西軍の主力である毛利勢のやる気のなさ、

気力のなさが全てだと思います。

広大な空間での機動戦をやる意思も能力もないのなら、

主力を集めて大坂城に籠城するだけで勝てたのではないでしょうか?

いくら東軍が10万を超える大軍であろうと、同じく10万近くの

兵力で大坂城に籠城されれば、落とすことは不可能でしょう?


東軍は国元から遠距離を機動してきており、西軍側が大阪で籠城に備えて

兵糧の買い集めなんかしていたら、たちまち兵糧不足に陥ったでしょう。

現に中山道を進んだ秀忠軍は、行軍途中でお金がなくなって、

四苦八苦しています。


これらを考えると、関ケ原で負けた所で、それは前哨戦の敗北に過ぎず、

残る兵力を大阪に結集してもう1戦というのは全然ありだと思います。

毛利輝元というのは、本当に勇気に欠けるボンボンだったとしか思えません。


毛利輝元が立花宗茂あたりの傑物だったら、徳川の時代もどうなったかは

わからないですね。戦争というものは、総大将の強い意思が如何に大事かを

如実に物語っています。60に近い年齢でも自ら最前線に出て来る家康と、

それより遥かに若い輝元が後方の安全な大阪に留まっている西軍。

この段階で勝負は決していたのだと思います。

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