第16話~仔猫のファティマ

 ファティマが二人の距離を少し近づけてくれたのだろうと思う、二人と一匹は同じ時間を過ごすことが増えた。


 季節はゆるりとさりげなく過ぎていく。


 胸が苦しい。

 そばにいるのにどうしてなんだろう届かない背中に、なんだか悲しくなる。


 育ち始めたばかりの、甘く、やわらかな心はまだ形にはなれないほどに儚い。


 航太朗君の優しい心は、気づいたをせつなくさせる。


 季節が少しずつ秋に近づいた、小さかったファティマもちょっとお姉さんになったのか、走り回ることは減ってきた。


「航太朗君、そろそろファティマも避妊の手術をした方がいいと思うんだけど、発情期が来るとこの子も辛いだろうと思うし」


 飼い主だからといって、子どもを産めない身体にすることは、確かに辛い、だけどそのままにしておくのはもっと辛くなるだけだ。航太朗君は寂しそうにうなづいた。


 その姿を見ながら、何故か実家の両親の顔が浮かんだ、面と向かっては言わないけれど一人娘の結婚と初孫を心待ちにしているのだろうと思う。


 ファティマの柔らかな身体を撫でながら航太朗君の言葉を待った。


「そうだよね、そろそろ連れて行かないとだよね」


 ファティマはゴロゴロと喉を鳴らしながら大きな伸びをした。


 次の週の月曜日に、航太朗君はファティマを動物病院に連れていった。


 その日の仕事を終えて部屋に着いた頃に電話が鳴った。「無事に終わったよ、一晩は入院らしい、だから良かったら久しぶりに外でご飯食べようか」


 この秋に買った秋色のワンピースを着ていつもの公園へと向かった。


月明かりが照らすベンチに座る航太朗君の横顔は寂しげに見える。

「ファティマお利口にしてた?」

公園のライトと月の光が私たちを優しく照らしている。


 この夏に航太朗君は一つ歳を重ねた、ほんの数ヶ月だけ私の歳に近づいた、だけど永遠に年齢の差は埋まらない。


「奏さんお帰り、最初は結構暴れてたらしいよ、予想していた何倍もファティマがいない部屋は寂しいよ、たった一日で明日には帰ってくるけどね」


 聴いていた音楽を止めて、顔を上げながら笑った。


「何だか、恋もさせてあげられないのは可哀想だね」


 私は隣に腰掛けながら言った。


「うん、そうだね、だからこそ一生そばにいてあげたいと思う」


 商店街にも日が落ちて、人通りは少なくなっていた。

 通り過ぎる人たちはみな足早でどこかに向かって急いでいる。

 群青色の夜空に、月が滲むように浮かんでいる。

 夜風はまだすこし生暖かくて秋の訪れを拒んでいるようだ。


久しぶりに「ペーパームーン」で食事をした。あの日と同じメニューだった。

あれから何ヶ月経ったのだろう。

この数ヶ月は、きっと一生忘れることがないだろうと思う。


きっと忘れることはない。



部屋に戻って実家から送られた梅酒に氷を入れて口に含んだ、爽やかな味を確かめたあと、ベッドに潜り込んで猫のように丸くなってみた。

気がつくと涙で頬が濡れていた。


私はファティマになれない。


甘酸っぱい香りとともに眠りについた。


***


仕事中にマンションの管理会社から電話が入っていた。

休憩時間に電話を掛けてみると、まだ住み始めて1年も経たないのにオーナーが、他の持ち主に変わったことを知らされた。


2ヶ月後に退去して欲しい、敷金は全額返金、退去費用は持ってくれるのだという。

権利としては住み続けることも出来るのだろうが、私は了承した。


せっかく住み慣れたこの街を出るのは嫌だった。

柊堂だってここにあるのだから。


その日の夜に航太朗君のスマホにメッセージを送った。


「野良猫になりそうです、どうしよう、また部屋探ししなきゃ行けなくなりました」


返信はLINEではなくて、電話だった。


「どういうこと?もしかして転勤とか?」

私はその日のことを全て話した。



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