月が綺麗だとすれば
西丘サキ
月が綺麗だとすれば
もうここからいなくなってしまうと事前に教えてくれたことを、あなたからの初めての好意と思うべきなのだ。あなたは好意を示された時にだけ、好意を返す。あなたは受け取ったようにしか、対応しようとしない。誰にだってそうだった。それがあなたの処世術。あなたの身の守り方。
あなたは別れを告げる。残された時間などそうもないことを知らせる。その時に何を求めていたのだろう。温かい言葉?泣き叫び追い縋るみっともない姿?あなたは何を思っただろうか。その耳で聞いた言葉に。その目で見た仕草に。人に見せないその心に達することが意図された思いの兆しに。何も口にすることはなく、あなたは与えてしまったことに疲れ、去ってしまう。月だなんて、まるで冗談のように遠くの場所へ。
窓辺には
あなたは思い返すだろうか。機械的な光に照らされる中で交わされた会話を。他愛もない、この地に残り続けている会話を。そして闇夜の冷たい風の中見送られていた自分自身を。あるいはまた、夕陽と月が入れ違おうかという頃、寒々とした光に照らされるあなたの背中が、独立独歩の堅固さと鏡花水月の儚さを透かし見せていたことを。他人の景色にあなたが確かに置かれていたことを。
月を見上げて佇むあなたの痕跡はやはり美しかった。そんな痕跡となってもあなたは何も言わない。あなたが覚えていたい景色を伝えることもない。あなたの視界はいつだって想像の中にだけ。
笑いかけられればあなたは笑う。言葉をかけられればあなたは喋る。手を差し出されたならば――あなたは単に線を引く。あなたは隠蔽する。人好きのする語調で囲う。誰も入れないあなたの領域。
それでも作り込んだ決め事の覆いが不意にめくれ、醜くも透き通ったあなたの内なる蠢きが微かに見えた時、あなたの引いた線は薄くなる。踏み越えられることが欲望される。戸惑うあなたは睨んでいた。しかしあなたのその目は、見つめ返されるべきものだったのだ。あなたが月に行ってしまう前に、蠢くものにさえ差し向けられた、なおも汲み取られずにいる好意を示されることがあれば、あなたは月になど行かなかったかもしれない。
今あなたは月で誰かを見つめるだろうか。自分で引いた線の向こうから、見つめ返されることを待つかのように。
あなたは近しい人という言葉をよく使った。近しい人。あなたの同心円には誰がいたのだろう。言葉が反芻される。近しい人、近しい人……あなたの意図は夜半の月のように雲に隠れていく。問われれば答えていたのだろうか。あなたにとっての近しさを呼び起こす予兆を。単なる巡り合わせを越えていく隘路を。ここからでは声など届かない。もはやあなたは遠い人になってしまった。
思い出されていくあなたのかけた言葉。あなたの呼んだ名前。あなたを内から突き破ることを願い、時折その願いの兆しを瞬かせる感情たち。そして遠巻きからでは断片をつなぐことしかできない、あなたの辿った道。月の暮らしなんて、誰が想起できるだろう。それでもあなたはふと見せる、月も地球もない地点を。はるか遠くのあなたが惹きつけ、捕らえて離さない。
あなたは愛される。
月であなたは何をこの地から受け取れるだろう。あなたに届くもの、そしてあなたが返してくれるもの。その徴はどこにあるのだろう。あなたのいなくなった街は目くらましのような光であふれている。星は消え、月はかすれたように淡い。幽玄には程遠い、虚しい気晴らしに気圧された光。
私は月がいなくなってしまうことを恐れた。
窓辺には
明くる夜、欠け始めた月は、それでも色濃く綺麗に輝いていた。あなたが返事をくれている。月に行ってしまったこの時でも。流れ落ちる月の光が人の心を満たし、酔狂に浮かれさせる。
そしてあなたに毎夜、思いが届く。既にあなたが聞いたもの、忘れてしまったもの、まだ聞いたことのなかったもの……。あの窓辺の
今夜も月が綺麗だとすれば、あなたが好意を返してくれている。
月が綺麗だとすれば 西丘サキ @sakyn
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