キミのことばかり

六畳一間

愛の呪文

「ワトソン君。知ってるか?乳首は左右で大きさが違うんだぞ」


「朝っぱらから全裸で何言ってんだ」


 背中を叩かれる。いやん…愛って痛いのね。背中を鏡に写して見てみると綺麗な紅葉が出来てる。うーん、吾輩の背中は美しい。やはり全身脱毛してよかったな。…スパンキングって楽しいのかな?今晩提案してみよう。


「そうそう、ワトソン君聞いてくれよ」


「遅刻するよ透」


 ワトソン君は後ろ髪にR30の綺麗な輪っかを作っていく。うーん、丸いものは可愛いな。手首のスナップも効いてる。その手で私の身体に触れていると考えるとゾクゾクする…六月とはいえまだまだ寒いなせめてパンツは履こうか。


「私の会社はこの六月からフレックス制になったんだ」


「あぁそういえばそうだった。ほらおいで」


 パンツを履いた私を易々と捕まえると冷めていくアイロンでついでに私の前髪を整えてくれる。お世話されている感じはとても好きだ。うーん、お姫様の気分。アイ アム プリンセス。いや、このキャッチはダサい。


「すごいだろコアタイムなしだ。何故ならばコアタイムが必要ないほど仕事があるから」


「じゃあ早く行かなきゃ」


「その必要はないのだ」


「なぜだいシャーロック」


 アイロンを終えて手で慣らしてくれるついでに頭を撫でられた。よっ大将。いつもの。


 仕事以外は自由で適当でTシャツにタグを付けて出社していた透さんが、ある日から突然髪型もメイクも服もバッチリで来た会社の七不思議。

 そのトリックは彼女だったわけだ。うーん、まさか共犯者がいただなんてミステリー映画だったらビックリ。後出しの共犯者は話としては面白くないな。


「それは私の仕事が鬼のように早いからだよワトソン君」


「じゃあ今日は早く帰れるかしらシャーロック」


「それはどうかな?私は十六時からやる気がでるから」


 最後の仕上げに色付きリップを塗ると私の顎に手を添えて角度上昇。うーん、同じリップならキスした方が早いと思うんだ。でも集中して私を見る彼女の目は情熱的で好きだから黙っておく。

 何故なら天邪鬼な私たちは恥ずかしい事を言われると逆の行動をとりたくなるので。我々は賢いので。


「咲久さん、もう時間やばい?」


 洗面台の五分進んだ時計を見るとあと三分で家を出る時間。ヘルプミーナントカマン。私知ってるの。これ以上彼女にちょっかいを出し続けたら一週間はお風呂の後のアイスが無くなる事を。うーん、倒置法はいいかも。キャッチ案に追加。


「やばっ、ごめん食器洗っておいて」


「なんと。君が食器洗いを忘れるとは珍しいな」


「昨日散々フレックスだって大喜びしてポテチとコーラを用意して海外ドラマを見倒してたからね」


 君が本当のシャーロックだったのか。この展開は面白そうだな。助手かと思っていた人が本当の探偵でした。子供になった探偵が主人公の漫画でそんな話があったな。確か用心棒は実はお爺さんの方でしたみたいな話。


 玄関へと走る彼女の後を小ガモのようについていく。ストッキングってフローリングで滑るよね。でも彼女はプロの足捌き。もしや貴様、忍者なんじゃない?伊賀流か、甲賀流か、はたまた雑賀衆か。私は新潟出身だからきっと軒猿の筋。忍者狩りが得意だからね。背中に気をつけろよ。


「不覚だった…君の洞察力に敬意を払ってこれからは私が食器洗うよ」


「それはどうもありがとう。早く服着ないとまたお腹壊すよ」


「おうともさ。ほれ」


 玄関に到着して両手を広げるとこちらに向き直って抱きしめてくれる。これは私の今日も一日頑張りまっしょいの儀式。


 壇蜜抱きって知ってる?ネーミングは私が付けたんだけどね。こう、普通のハグがあるじゃない。その時腕が下になる人は腕を真っ直ぐ上に上げて相手の両肩を持つようにするハグ。


 うん。小さい方の人がボクシングのガードの構えをしながらハグしてるってイメージで大体あってるよ。これが密着率無限大なんだ。マジ壇蜜リスペクト。彼女が貧乳でもささやかな乳を感じられる。


「……………る…」


 これは咲久さんの儀式。愛の呪文だと言うけれどいつも声が小さくて聞き取れない。それでもいいのです。何故なら愛とは気持ちなのですから。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


 扉が閉まる数秒間。柔らかい無表情からスッと社会人の顔に変わる。それを見るのが私はとても好きだ。私の知らない咲久さんが一瞬だけ見れる。


 うーん、私もそろそろ文明を身につけてまずは人類に戻りましょうかね。フレックスとはいえ会社に行かなければならない事には変わりがない。


「はぁ〜がんばりまっしょい」


 渋々靴下を履いて、ブラジャーを身に付ける。

 以前、服を着る順番が気持ち悪いと咲久さんに言われた。『恋人に気持ち悪いとはなんなんさー』と作りたてのラフテー丼とデスクライトを持ち寄って問い詰めたところ、変態仮面が生理的に受け付けないのと一緒だと供述していたが未だその感覚は不明である。

 ラフテー丼は二人で美味しく頂きました。


 変態仮面は私にとっては笑いなのだよワトソン君。笑ってくれるなら変な順番でもいいのだけれど気持ち悪いはよろしくないね。

 早々に癖を変えたけれどやはり気を抜くと戻ってしまうのが人間というもの。慣れ馴れ熟れ成れ色々あるけれど良し悪しもありけり。


 靴下とブラジャーを身につけるだけで三十分も経っていた。いかん今日は十二時から会議があるのでした。早々に食器を洗って鷹のように速く早く家を出るのです私。


 靴下と下着の文明を身につけて、素早くされど丁寧に皿を洗う。

 今まで皿の裏まで洗う事はなかった。

『お皿を重ねたら裏も汚れるでしょ』という一言に気付かされたのだ。一人暮らしの時はごく稀に料理をしても基本ワンプレート、ワン丼で済むような食事しかしていなかったから気付かなかった。未知を曝け出す仇となってしまったが私といったら日常生活は未知だらけのミチミチの実の未知人間なのだった。


 要因は明確。母は甘やかしの天才だったのだ。


 やれ、これ食べるか?服はいらぬか?部屋片しておいたわよ。だのなんのとお節介ババアもいいところだが、対する私も甘え上手であり母が大好きであった。

 おかげで幼少の頃よりストレスをまともに受けたことがなく、スマートに勉学に励む事が出来た上に才能を見出して頂けたので今ではこうして比較的裕福な社会人として生きている。


 これをありがたい事だと気付かせてくれたのは咲久さん。若き頃…今から三年前の私は二十代前半でありながら世界的なデザイナーとして高い評判を得てしまった。そして案の定天狗になっていた。鼻が伸びに伸びまくってきっと布団だって干せた。


 その鼻を右頬ごと引っ叩いてへし折ってくれたのが咲久さん。面食らった私が左頬を差し出すともっと強く引っ叩いて結果お付き合いする事になったとさ。おしまい。


「ヤバい!もうこんな時間だ!急ぐでござる!」


 ニンニン忍者のように素早くトレーナーとジーンズを身につけて、ダイニングテーブルの上のお弁当箱をリュックに入れてフローリングを駆け抜ける。


「いだぁ!」


 うーん…私は軒猿の血筋ではなかった…こりゃー尾てい骨いきましたね。


「…この程度でやられるものかっ!」


 ジンジン痛む腰をさすりながらネバーギブアップ。玄関のドアに鍵をかけて確認ヨシ!エレベーターまでダッシュダッシュ。


「あら、おはよう」


「おはようございます」


 ちょうど到着したエレベーターで大家さんと乗り合わせた。大家さんはマメな人で毎日マンションの中を掃除しつつ住人の動向を探っている。うーん、やっぱり大家さんはスパイだと思う。


「波紫さん今日はのんびりなのねぇ」


「そうなんです!フレックス制になったので!」


「フリスク?今流行りなのかしら?」


「フレックスとは会社の業務形態のひとつです。一ヶ月の総労働時間さえ守れば一日の開始と終了時間は自分で決められるんですよ」


「あらぁ〜そうなの。すごいわねぇフリスク」


「それでも急ぐので、この辺で!」


「いってらっしゃ〜い」


「いってきまーす」


 深い会話とツッコミは禁物だ。スパイかもしれないからな。ハッ!私の生活リズムがランダムになったことにより、より監視が厳しくなるのではなかろうか…。

 咲久さんにも『大家さんには下手なこと言うなよ』と念を押されていたのだった。うーん、気を付けよう。


 会社まではバスで十五分。時間帯が変われど今日も今日とて時間通りには来ない。

 時間にルーズなのはいいが第三者を巻き込むなとは咲久さんによく言われる。それはつまり咲久さん単体を待たせるのはいいが、何かしら予約をしている時はその時間には間に合わせろということだった。

 それでも私がなにがなんでも遅刻すると知ると予約した時間よりも一時間早い待ち合わせ時間に設定してくれていた。なんて出来る女なの咲久さん。

 まぁ今では一緒に住んでいるので遅刻することなんてないのですわ。オホホ。


 マイペースなバスが到着してタッチICピッ。タッチアンドイン。よろしくバスー。

 揺られ揺られて十五分。家から離れて十五分。うーん、もう家が恋しくなってきたな。


「おはようござーす」


「波紫ぃー早速フレックスかよー」


 同期のナンチャラ君が話しかけてくる。彼はチャラくてとても気さくでいい奴だ。多分。


「うんーフレックスだよー」


「今日もまた雑だなーウケる」


 何かを受け止められてしまったようだ。さて、今日の仕事はなんだったかなと。


 パソコンのスリープを解くとチャットがジャンジャン届く。うーん、解くと届くは掛けられないな。座布団マイナス。


「波紫、おはよう。これやっといて」


「おはようございます。なんですか?」


 ええと…そうだ、彼女は部長。デザインの秀才。センスのいいデザイナーとは往々にしてディレクション業が苦手であるのが世知辛い世の中だが彼女は努力で今の座を勝ち取った分、部下の成長を見越した仕事の振り方をする。無茶振りに見える振り方と口下手なことも相まってキツい人と見られがちだが。うーん、デキる女はつらいねぇ。


「先週言ってたエステのやつ。詳しくはチャットに送っておいたから。分かんなかったら聞いて」


「はーい」


 さて、どのチャットかしら。部長とのトーク画面を開くと数十件。仕事三割、どうでもいいこと七割。ここ美味しそう、今度飲みに行こう…この映画観たい…違う。もう部長ってばチャットだと饒舌なんだから。エステの件…あぁこれか。


「波紫さん、今いいですか?」


「はい。なんでしょう?」


「有給申請の日付間違ってたから直してください」


「あ、すみません。すぐに送ります」


「送ったらこっちに来てください。一緒に確認しましょう」


 うーんと、彼女は人事さん。彼女は仕事を仕事と捉え、隠したいプライベートは深く追求してこないから好きだ。あと私が十中八九書類ミスするマンと知って怒らないところも好きだ。


 ただし二回目はない。さて、私はどこを間違えたのか…うーん、二万二十年はないな。そんなに未来で待ってられないわ。咲久さんは二万年くらいならヒョイと生きるかしら。


「…猿の惑星だ」


「えっ?」


 隣の席の後輩ちゃんが反応してしまった。パーテーションの向こう側から顔をヒョッコリ出してくる。彼女は真面目な頑張り屋さん。今日も君可愛いねぇ。咲久さんには敵わないが。


「ん?」


「波紫さん何か言いました?」


「ううん。あ、人事部行かなきゃ」


 デスクの中から箱買いした様々な駄菓子をかき集めてビニール袋にありったけ詰め込んでその場から逃げた。

 廊下を歩きながら頭を触って穴が空いてないか確認してみるが今日も絶好調にまんまるお山だ。

 うーん、最近たまに頭から言葉が漏れ出すのは何故かしら。咲久さんにも「最近独り言多くない?」と言われたな。以前はこんなことなかったのに。


「こんにちは」


 人事部と社長室に入る時はちゃんと挨拶しなさいと何度も先輩が教えてくれたおかげで今日も会社で生き残ることが出来ています…先輩は今や星となり…空の上でもお元気でしょうか…まぁフリーランスになったんですが。


「波紫さん。今届きましたよ」


 あ、人事さんはこの人だったか。うーん、人事はみんな眼鏡でいつも迷子になるな。人事部は迷宮だったか。迷宮に入る時に挨拶するのはなんだか不思議な光景だな。


「すみませんでした。大丈夫でしたか?」


「ええと…はい。大丈夫ですね」


 ペーパーレスで申請のアレコレはシステムによって制御された。おかげでちょっとしたミスでも本人にしか修正出来なくなってしまった。

 便利なのか不便なのか。きっと私みたいなのがいなければ便利なのだが余白が無くなっていくような感覚だ。


「よかった。毎回すみません」


「今度からは最後にもう一回確認して送ってくださいね」


「はい。以後気をつけます。よかったらこれどうぞ」


「いつもありがとう」


 ふわっと笑う人事さんの笑顔はもう見慣れてしまってもはや懐かしささえ感じる。何度も同じやりとりをさせて本当に申し訳ない。その度に駄菓子の詰め合わせを人事さんにお渡ししているがこれも咲久さんの「透は絶対誰かに迷惑をかけるのだからお菓子でも常備しておきなさい」という教えにならったものだ。


 そういえばネットで駄菓子を箱買いして会社に持って行く日はなんだか変な顔をしていた。うーん、モロッコヨーグル好きじゃなかったかな。最近咲久さん甘いのよりしょっぱいのだしな。今度は蒲焼さん太郎をあげよう。


 さて、仕事だ。

 もう一度チャットを確認。仕事半分、連絡事項が四半分、あとはどうでもいいやつ。重要そうなものから返信していく。へーんしんトウッ!


 仕事ぐらいは真面目にしているのでしょう?と咲久さんに聞かれた事があるがそうでもない。仕事をしていても時々頭の中は暇になってしまう。暇になると私の頭は噴水のように何かを考え続けては循環する。


 例えばほら、今作っているエステのウェブサイト。

 エステといえばアロマオイルと白い花とアロマキャンドル。クルッと丸めたタオルもあるとなおいい。

 これらがエステの仕事が来るたびに使いまくる素材。この白い花の名前がプロメリアだっていうことを知ってたかい?

 私は今知った。


 思いつきでも興味を持てば簡単に調べる事が出来る世界。

 知れば、受け入れる事は思いのほか容易い。未知のまま否定するのってダサ……上顎って舌でなぞるとツルツルスベスベなのねぇ……




…ハッ、今珍しく無心で集中していた。物凄く仕事が進んだわ。


「波紫、会議行くぞ」


「はーい今すぐに」


 会議ってとても退屈。結局上手いこと立ち回れる誰かがどこかで根回しした事を言ってイイネをもらうだけ。ソーシャルネットワークとさして変わりがない。隣に座る部長も真顔に見えるが、きっと頭の中では映画のことやらゲームのことやらだろう。以前、終わったら議事録見ればいいだろ。と言っていた。とっても同意する。

 うーん、咲久さんは今頃お昼かなぁ。今日のお弁当はなんだろな。…ハッ!さっき盛大に転けたけどお弁当は無事だろうか…急に不安になってきた。


 落ち着こう。落ち着いて追憶ごっこでもしよう。うーんそうだな、今日は咲久さんとの出会いでも追憶しようか。



 ──最初は思いつきだった。


 コーラよりも甘味料を配合した母から離れて暮らしているうちに自分という存在はなんなのか。愛とはなんなのか知りたくなった。


 かといって男性に惹かれない自分がいることも知っていた。ノンセクシャル、アセクシャル、FTXだとか一概に言えない存在を知って、私もその辺に分類されるのだろうと思った。


 調べているうちに街コン同性愛者バージョンなるものを発見したからすぐさま応募して、その夜マツキヨで久方ぶりに化粧用品のコーナーに足を運んだ。

 レジの関西訛りがキュートなお姉さんは日用品とカロリーメイト以外も買うかんいなって顔してこちらを見ていたけれど社会人スマイルは0円なので存分に捧げた。


 ホンキを出せば透さんは皮を被る事だってなんのその。

 お化粧とはお絵描きです。似た顔の人の化粧を模写すれば良い感じになる。


 その皮はすぐ剥がされてしまったのだけれど…

 ──ポヨン


 ポケットでスマホが鳴る。目の前のおじさん、もとい営業部長がオホンと咳払いした。風邪かしら。隣の部長はいつも通り真顔で書類を見つめている。あれ、目は開いているけど部長寝てる?


 スマホを取り出してチェックワンツー、シッハッハッ。

 咲久さんからだ。まぁ私のスマホへの連絡は咲久さんか広告しか来ないけれど。


『帰りに買ってきて』


 続けて手書きのメモの写真が送られてくる。咲久さんは変なところでアナログだ。文字を書きながらだといろいろ思い出せていいらしい。うーん、咲久さんは余白があっていい。


『ラジャ』


 重いものは基本的に私が買いに行く。私には無尽蔵の体力があるので。


「波紫、次。波紫の番だぞ」


「はい。こちらの案件ですが…」


 私の役目はつらつらと機械のように案件の進捗を簡潔に述べるだけ。うーん、AI音声のモノマネって難しいな。厳しい審査員の咲久さんにいつか絶対ゴールデンボタンを押させるためにこうして日々隙間を見つけては練習している。エンターテイメントは努力によって美しいものへと変貌を遂げるのです。


「…です。以上となります」


 アッ、今の『以上となります』はすごくAIっぽい!これは今日お披露目だな。


「お疲れ」


「おつかれさまでーす」


 会議が終わったら本日の仕事のほとんどは終わり。うーん、そろそろご飯にしようかな。


「部長、ご飯行きます?」


「あーごめん、今日あちこちに電話かけないといけないんだ」


「おっけーでーす」


 お弁当を持った部長がいそいそとどこかへ旅立った。部長はお弁当の日は何かしら理由をつけてどこかへ行く。うーん、何かとんでもないものが主食なのかしら?あの中には実はオイルやネジが詰め込まれていて、部長はアンドロイドだった!?

 さて、休憩室は遠いし私はデスクでいいか。


「ジーザス…」


 お弁当はぐちゃぐちゃになっていた。うーん、カレーもパスタもよく混ぜて食べた方が美味しいしこれはこれで美味しいのでは?名付けてお弁当丼。

 咲久さんは私がカレーを混ぜるのを嫌がり「いま口に含む分だけ混ざればいい」とよく言うがそんな刹那な食事は楽しくない。こればかりは犬の私も牙を剥くよ。


「うわっ」


 デスクから取り出した醤油をかけていた時に人事さんの悲鳴に呼ばれる。


「あっ、私また何かやらかしました?」


「と…そのお弁当は…いえ、お食事中にすみません。ちょっと頼み事が…」


 端的な分かりやすい説明の人事さんの頼み事とは新卒説明会に出てくれないかと言う話。うーん、もうそんな時期ですかそうですか。えーと去年はどうやったかな…と、よし今年はこれでいこう。


「私が説明会に向いてると思います…?」


 人事さんは無言で私のデスクを見て、私の顔を見て、もう一度デスクを見て、さらに私の顔を見てニコッと笑う。


「えーっと…一応主任ですし…」


「こういうのは立場よりも説得力が大事だと思います。説得力というのは何を言うかよりも誰が言うかが大切です。隣をご覧ください。どうですか?この真面目なデスク」


「え、私?」


 私と同じタイミングでお昼を食べていた後輩ちゃんが突然話を振られて戸惑いながらこちらに顔を出してくる。

 覗き込むと今日も几帳面なデスクが見える。同じ仕事してるのにこの違いは何故だろうね。おや、今日は白身魚のフライか。あとで醤油貸してあげようね。


「えぇ、とても綺麗にされていますね」


「彼女は勤務態度も真面目で今まで遅刻も無断欠勤もした事がありません。欲しいのはそういった人材ではないでしょうか?」


「えっと…えへへ」


「確かにそうですね。鈴木さん、説明会に出てほしいと言ったら出ていただけますか?」


「まぁ、私でよければ…えへ」


「一度持ち帰って確認してみますので、その時はよろしくお願いします」


「分かりました!」


 緊急回避成功!人事さんに言ったことは事実でもあるが建前でもあり、本心は心底面倒くさい。人前で話すのはいちいち緊張するし、緊張は煩わしくて苦手だ。

 うーん、後輩ちゃんには悪いことをしたがその分の仕事は引き受けてあげよう。


「波紫さんはもう少しデスクを片付けてくださいね」


「はーい」


 右手にはラフの山、左手には資料ファイルの山。うーん、これも必要だし、これもあとで使うし…ラフはいつか見るだろうし…全部必要だな!

 アッ、さっきの会議の資料に醤油染みを作ってしまった。まぁ香ばしくていいか。


 さて、お待ちかねのお昼だ。うーん、この見た目はちょっと…どうなんでしょう?とりあえず一口いただきまーす。んっ、美味しい!最初は抵抗ありましたけど、意外といけますね。磯辺揚げとミートソースは醤油と意外と合います。所々に散らばったひじきがアクセントになっていてとてもデリシャスです!この隅っこの部分とか美味しいわぁ〜!

 いつも通りの食レポごっこをしながら黙々とランチタイム。咲久さんのお弁当は愛情たっぷりで美味しいなぁ。半分が冷凍食品だけど愛が解凍されてる気がする。


 ご飯を食べたら眠くなるのは本能的な反射。血糖値の急上昇、インスリンの分泌、オレキシンが活発に…理由は色々あれど…


「波紫」


 …ハッ!いかんいかん居眠りは流石の透さんでもギルティですわ。うーん…?寝ていたはずが仕事が進んでいる。このバナーいつ作ったの?妖精さんがいるの?


「なんでしょう?」


「そろそろ起きろ」


「いやはや、すみません。あ、これ確認お願いします」


 バナーを部長に送りつけて時計を見れば十六時。うーん、コーヒーでも淹れてきましょうかね。

 給湯室へ向かうと後輩ちゃんが丁度コーヒーを淹れていた。


「あ、波紫さんもコーヒーですか?」


「うんーカフェラテにする」


「じゃあこの牛乳使ってください」


「お、いいの?」


「はい、今日はこれでラストにします」


「ありがと〜あとで駄菓子をあげようね」


 ナハハと笑って去っていく。後輩ちゃんの欠点といえばカフェイン狂いというところか。朝はエナジードリンクを、昼過ぎからはコーヒー三昧。うーん、咲久さんもカフェイン狂いだけど時々気持ち悪くなっていて心配なんだよねぇ。

 後輩ちゃんのミルクをカップに注いでコーヒーメーカーのスイッチオン!いやはや、すっかり眠りこけていた。けれどおかげで頭スッキリ。さて、そろそろ本気の時間です。


『イイね!ココのテキストだけ変更頼む!』


 コーヒーを淹れている間に赤い丸で囲まれたバナーと差し替えるテキストがチャットに届いていた。うーん、部長って仕事が早い。さて、私も素早く仕事を終わらせますよ。




「波紫さん、私そろそろ帰りますけど大丈夫ですか?」


「んー…大丈夫だよーおつかれー」


「お疲れ様でーす」


 うーん、もうこんな時間になってたのか。外は真っ暗、事務所は所々明かりが落ちて人気も少ない。お前、タイムリープしてんだろ。

 ハッ、もう咲久さんと十時間も会っていない。今すぐ帰らないと咲久さん成分が私から抜け落ちて皺々のおばあちゃんに戻ってしまう。


「波紫もそろそろ帰れよ」


「はい!いますぐ!」


「夜は元気だよなぁ」


 部長は立ち上がると伸びをしてマグカップを持って給湯室へと消えていった。うーん、もうひと頑張りするのかな。しかしながら私はもう帰らねばおばあちゃんに戻ってしまうので。


 咲久さんに今から帰る合図のスタンプを送ると『買い物忘れないでね』とのメッセージが。危ない危ない、すっかり忘れていた。おばあちゃんになる前に咲久さんの張り手でピッチピチになるわ。


「おつかれさまでーす」


「おつかれー」


 給湯室からの部長の声を背に会社を飛び出す。おっと、タイムカードを忘れずに。

 会社近くのドラッグストアへ。駅から少し遠い家よりも会社付近の方がなんでも揃う。ええと、トイレットペーパーに、ティッシュ、洗剤、柔軟剤…エトセトラ。


 思いの外買う物が多かった。しかし私には無尽蔵の体力があるので大丈夫なのです。さて、今回もマイペースに到着した無尽蔵の体力の源に乗り込んで十五分ドナドナ。うーん、今日の夕飯は何かなー。ヒントは白って来たけど…うーん、白…白…白飯か白湯麺しか思い付かない。白飯だったらバター醤油かな。


「ただいまー」


「おかえりー」


 リビングから咲久さんの声がすると家に着いたーって感じがして好きだ。脱ぎ散らかしたヒールを揃えて私もリビングへと向かう。

 うーん、先程から漂うこの芳醇でスウィーティーなフレグランスは…。


「今日シチュー!?」


「正解」


 リビングの扉を勢いよく開けるとソファでゲームをしている咲久さんがいた。今日もいた。あぁ、咲久さんに会えて幸せだ。


「やったやった大学合格〜」


「社長就任〜」


「生きているからラッキーだ〜」


 咲久さんの低音ナイスコーラスのおかげでやったやったの完成だ〜。

 よし、手を洗おう。家に着いたらまず最初の儀式である。我が家ではこの儀式を通り越えずに咲久さんに触ろうとするとシンプルに引っ叩かれます。


「咲久さ〜ん」


「はいはいおかえり」


 咲久さんに飛びついて咲久さん成分の補給を。これは最重要事項。咲久さんは基本素っ気ないけどゲームに夢中の時はもっと素っ気ない。うーん、ゲームに劣る我輩の魅力…。


「透、また今日も書類ミスしたな」


「え、なんで知っ…ん?あれ?」


「透、もう家だよ」


「うーん…?あぁ!」


 リビングのテーブルには私が昼間人事さんにあげた駄菓子が並んでいる。夕飯前にお菓子食べちゃダメでしょ。


『家の外では大垣咲久はただの人事さんになる』


 それは呪いか呪いか。うーん、のろいと書いてまじないとも読むのはなんもと不思議だ。

 咲久さんは毎朝私に催眠術をかける。


 社外で出会ったとしても社内恋愛なわけでして。

 以前の咲久さんの担当は営業部だったから共通点も特になく、同じ会社だと判明した時でも会社で会った記憶もないくらいだった。

 しかしバッドな事に今年度から咲久さんの担当が私のいる制作部になり、私も咲久さんも私が失言しないか不安の行く末の苦肉の策。


 素人の催眠術なんて効きゃしないよと思っていた時期もありました。しかし、咲久さんには才能があり、私には素質があった。


 こうかは ばつぐん だ!


 抜群すぎて他の人も巻き込まれて他人というものが曖昧になっているけれどそこは今までとさして変わりないからモーマンタイ。


「うわ〜今日もすごい。すっかり他人だった」


「何回かけてもかかるってのがすごいよ」


 咲久さんが立ち上がって夕飯の準備を始めた。うーん、まだ頭の中がハフハフしている。咲久さんは咲久さんだ。人事さんも咲久さんであり人事さんである。人類とは不思議なり。


「パン?ご飯?」


「ご飯!」


「よくシチューをご飯で食べれるね」


「そう?咲久さんもやってみたら?新しい発見があるかもしれないよ」


「いや、実家でずっと違和感を感じて育ってきたから…」


 子供の頃にシチューご飯を知っていたら咲久さんのように育つのか。うーん、これもまた人類の不思議。


「いただきまーす」


「いただきます」


 湯気が立つシチューをまず一口。うーん、これはまさにデリシャスボーノ。鶏肉が柔らかい。にんじんもじゃがいももホクホク…付けっ放しのテレビから天気予報の声が聞こえてきた。


「明日からまた雨だって」


「あらホント。しばらくは浴室乾燥機だね」


「はーい」


 さてとそろそろご飯を…。


「透、それはちょっと」


「あん?なんですかいのぉ?ワレ」


 シチューにご飯を入れようとすると咲久さんからストップがかかる。この先のことが容易に予想できて反射的に任侠が出てくるわいのぉ。


「ぐちゃぐちゃにするなっていつも言っとるがおんどりゃあワレ」


 咲久さんもノッてきて前髪をかきあげてギラリと輝く目で見つめてくる。そんなに見つめちゃイヤよ。もう私首ったけのドッキドキのハニーフラッシュよ。


「百うみゃーもんを二百うみゃーもんにするだけやワレ」


「見てくれが悪い…そうだ、今日のお弁当どうしたの?」


「軒猿になれると思ったんだよね」


「何それ…?」


「忍者。新潟の」


「あぁ…んで転んだの?」


「朝急いでて、フローリングって滑るじゃない?思いの外私は足腰がダメだった。このままじゃ軒猿が終わってしまう…」


「もうワシの天下の時代は終わったんじゃ…」


「そんな!殿!」


「好きに生きよ…世界は自由だ…」


「殿ォーーー!!!」


 うーん、いつも通りの夕餉。咲久さんは夜の方が楽しい。いろんな意味で。

 シチューは私が譲歩して気取った食べ方のモノマネで食べ尽くした。咲久さんの丸の内OLがお洒落ランチを食べる時のモノマネもなかなかのものだったから今日も今日とて食事は美味しい。


「お風呂入ってくるー」


「待って!食器洗ったら行く!」


「先行ってるねー」


 さーて、洗っちゃうぞぉ〜。と、腕を捲ったところで視界の端に何か魅力的なものが映った。何々…まさかそんな…この器具だけでそんなに腹筋がついちゃうの?軒猿の道が絶たれたと思った矢先にこの可能性を秘めたひみつ道具…。えっそんな!今なら二つも付いてきて、咲久さんと一緒にできるじゃない。はい!?お値段そのまま!?こりゃー大変だ。


「咲久さーん!」


「んー?」


 勢いよく風呂場のドアを開けるとワァ〜オという効果音が頭の中で流れ出す。湯けむりがブワッと溢れ出して、ここには天女がいる…そんな気がする。


「あっ入浴剤使ってる」


「めっちゃブクブクする」


「いいな!私も入る!」


 その間、二秒。

 魔法少女も驚きの暴力的なスピードで服を脱いで入室。これが私の唯一の特技。身体を流してすぐさまインザニューヨク。


「ふぉぉブクブクだ」


「デカい塊をあげよう」


「いいのかい?悪いねぇ嬢ちゃん」


 塊をお尻の後ろに入浴剤の塊を置いて腰にブクブクを当ててみよう。おお、ブクブクが伝って背中がゾクゾクする。


「あれ、なんかあったんじゃないの?」


「うーん…?忘れた」



 お風呂から上がると、なんということでしょう。プラダを着た悪魔がパジャマを着た天使に様変わり。今にも飛び立ちそうな愛らしい天使さんになりました。


「アイス食べる?」


「食べるー」


 オーライセンキュー!ありがとう世界!今日もアイスにありつけるぜ!

 何故毎晩のように咲久さんに聞くのかって?勝手に食べればいいじゃないかって?

 現代の病…それは孤独。古来、狩猟をしていた時代から人類は獲物を狩れば皆で囲んで食べていた。だというのに今や一人での食事が増えて、寂しいという感情が日本を渦巻いている。それはもうグルグルとあちこちに。二人でならその病も怖くないわ…!DEAD or ALIVE…


「…ウマっ」


「いちご?食べたい」


「ほいあーん」


「あー」


 本当はこっち。違う味を食べていると咲久さんは絶対ひと口を欲しがるのです。しかし、この習性は実は非常に稀なのです。例えば二人での外食の時、共通の友人との食事、お互いの実家に遊びに行った時。そういった場面では見ることは出来ないのです。つまりこの習性はツガイの私だけに見られる特別な光景なのです。

 うーん、シャイな咲久さんも可愛いわ。


「ゲームする」


「あーい」


 寝る準備も完了して我々、フリータイムに突入の巻。

 さーて今日は何しようかな。海外ドラマは昨日見尽くしたし本でも読もうかしら。気になって買っては本棚に入れるだけ入れた本が数知れず。どれにしようかな…おっこれは楽しいんじゃない?


「あったかいお茶飲む?」


「飲むー」


 お茶を淹れてソファで仰向けになってゲームをしている咲久さんの側に座って本を開く。

 ほぅ…ミステリーか…と思いきや麗しげな女性が登場した。うーん、恋愛に発展するのかな?あぁ、こういう展開か、となるとこの人が犯人だな。

 最後の方のページを捲って謎解きのシーンを見てみる。ビンゴ。犯人当てちゃった。…と、ここから切ない恋って感じに発展していくのか。ハハァン。

 うーん、お茶でも飲むか。ミステリー×恋愛って難しいのだね。パラパラと捲っていっても好きになったきっかけがよく分からない。一目惚れってやつ?一緒に過ごすうちに好きになっていった?作者の気持ちを答えなさい。


 うーん…そういえば咲久さんは私のどの辺りを好きになったのでしょう?

 よくよく考えたら私ってば仕事以外はポンコツじゃない?基本全裸だし、遅刻魔だし、自分勝手だし、料理といえばワンプレートワン丼だし。


 お金か住居しか取り柄がない。それは私の内部ではない…人として何も取り柄のないオレは弱ぇ…。


「咲久さんや」


「んー?」


 本を閉じて咲久さんの方に向き直り、背筋を伸ばして正座になる。

 咲久さんは生返事でゲームを片手で操作しながら頭を撫でてくれる。うーん、嬉しい。違う、今は喜ぶ時じゃない。ええい、レッツインタビュー!


「咲久さんは私のどこが好き?」


 ゲームを一旦止めて胸の上に置いた。頭を撫でることもやめて胸の上で手を組み、空を見つめて咲久さんがローディングし始めた。


「ほら、私って仕事以外ポンコツだし…」


 ゲームのBGMだけが静かに流れ続けて私たちのBGMになる。

 ローディングが長いゲームは生き残れないぞ。うーん、そんなに考えるほど私って良いところがないの?生き残れないのは私なの?


 「んー」とようやっと低い音を発したと思えばその内容は不思議なることバグの如し。


「私はサザエさんが好きなのよね」


「サザエさん」


 当たり前だが私はサザエさんではなく、サザエさんにもなれない。

 流石の私でも裸足で野良猫を追いかけるほど足の裏は強くないし、財布はよく忘れるけど昨今では電子マネーでどうとでもなる。

 咲久さんは引き続き真剣な顔をして空気を見つめている。


「ずっと変わらない事が羨ましくて」


「変わらない日常というやつ?」


「そう。だけど気付いたの。サザエさんが面白いのは変わらない日常の中で事件が起きるからなの」


「じけん」


 うーん、なんとなく理解してきた。つまり咲久さんは日常の中の非日常を楽しみたいのだな?


「透はトラブルメーカーだし、アホだし、ポンコツなのは私も同意する」


「そうですね…」


 直球!ストライク!スリーアウト!チェンジ!私の心の審判が叫びたがってるんだ。


「でもずっと変わらないで私を好きでいてくれる。あと単純に顔が好き。以上」


 咲久さんが頭を撫でる事を再開したので咲久さんの胸に顔を埋める。ゲームに頭をぶつけて痛いがこれは愛の痛みだ。


「何?落ち込んでんの?」


「落ち込んでいた」


「透の事を愛しているわ」


 咲久さんは明るい場所で言うと寿命が縮むと言っていた呪文を唱えた。寿命を縮めてまでも伝えようとしてくれるなんて。


「私も咲久さん愛してる〜」


「はいはい」


 頭をペシペシと軽く叩くと私が枕にしていたゲームを引っ張り出して再開した。

 咲久さんの心臓の音が聞こえる。昨晩は海外ドラマで夜更かししてしまったから今日はもう眠い。いつもより少しだけ速いリズムで刻まれるビートがさらに睡魔を加速させる。

 うーん…食器…洗わない…と…




「ちょっと、よだれ」


「あだだ」


 咲久さんが急に身体を起こすものだから首がおかしな角度になる。

 うーん、少し寝てしまっていたか。なんだか咲久さんの夢を見ていた気がする。

 重い目蓋を無理矢理こじ開けると目の前に広がるは咲久さんの大平原と私がこさえた湖。


「ややっ失敬。あまりにも美味しそうだったもので」


「なーにやってんだっつって」


 寝巻きのTシャツを脱いで半裸になりながらクローゼットのある部屋へと向かう。うーん、言葉は恥ずかしがるのにこういうところは全然照れないのが咲久さんのアンバランスで素敵なところよ。


「今日も咲久さんのことばかりな日だったよ」


「ふーん。あ、まだ食器洗ってないじゃん」


「今すぐに!」


 バレてしまった。スリッパでフローリングを駆けていく。案の定滑るが今度は転ばなかった。うーん、一日でこの成長。忍者にジョブチェンジする日も近いのでは。

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キミのことばかり 六畳一間 @rokujyo_hitoma

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