いろはにほへとうぶなりや

ひなた

第1話

天高く馬肥ゆる秋、10月も半ばに入り頬に触れる空気はだいぶ冷たくなった。

来週には中間試験がある。生徒は大人しく勉学に勤しむ為に早急な帰宅を求められる中、担任でもない美術教師は顧問である美術部の休みを良いことに、そそくさと想い人の元へと足を運んだ。


「いーつき」


放課後の保健室、生徒を追い出し漸く今から休憩と、咥え煙草で振り向いた男は傍目にも嫌そうな顔をした。


「あ、そんな顔しなくても良いんじゃないかなあ。傷つくなあ」


「うるせえな、お前毎日毎日何の用だ。俺は気楽な美術教師と違って薬剤の取り寄せだの書類整理に忙しいんだよ、いちいち顔見せに来るんじゃねえ」


「手伝うよ?」


「要らねえわ」


とりつくしまもない。


「まあ、そう言わずに。ほら今から休憩だろう?僕も付き合うから一緒に珈琲でも飲もうよ。たまには外に出るのも良いと思うなあ、いつも屋上じゃなくたってさ」


「俺は屋上が好きなんだよ、上は空しか見えねえし邪魔する奴は居ねえ…筈なんだ、お前さえ来なきゃな。空気は美味いし」


煙草を吸うのにと言うと、煙草に使う空気が美味いと煙草の味も違うのだそうだ。変わらない気がするが。

何とか彼を丸め込んで屋上まで連行するのに骨が折れた。時間が勿体無いの一言であっさり陥落するのなら最初からそう言ってしまえば早かったようだ、今後の参考にしよう。

薄雲が広がる空は高く、夏の鮮明な青は面影を消した。入道雲はなりをひそめ、暈を作る巻層雲が夜になるとひどく幻想的で美しい。

朦朧ぼんやりとそんな事を考えていると、真面目な保険医、保坂樹は不真面目に煙草を燻らせて備品の在庫管理に入ったようだ。

邪魔にならないように少し距離を取り、フェンスに背を預けて温かな缶珈琲を飲む。樹は煙草を堪能してから飲むのだとジャンパーのポケットにしまっていた。


「篠原」


旺真おうまで良いよ、それかしーのんで」


「ふざけてんのか」


「凄く真面目。女の子達がそう呼ぶんだよ」


篠原は顔が良い。容姿も良い。所謂、容姿端麗、眉目秀麗、高身長高学歴の秀才だ。コミュニケーション力も高く女性の扱いにも長けている為、矢鱈と女にモテる。

それが樹は気にくわない。

樹はといえば無骨で、顔は可もなく不可もなし。身長はあるが学歴で言えばそう高くない。体育会系の面がある為、むさ苦しい男達に慕われやすい兄貴肌であり、矢鱈と男から憧憬の眼差しを向けられるが、女にモテた試しがない。

だからという訳ではないが、何故か自分を慕い何かと理由を付けて会いに来るこの男の事を正直あまり良く思ってはいなかった。

先ず、自分に付き纏う意味が分からない。そして男に慕われても微塵も嬉しくない。可愛い女の子に付き纏われたいのに、選りに選ってその女の子達の憧れの的に四六時中周りを彷徨うろつかれているのだ。色々な意味で腹が立つ。

自然と言葉の端々に険が出る。


「ああ、そうかよ。モテモテだな篠原センセーは」


「君だってモテモテじゃないか、さっきまでサッカー部と野球部の男の子達がわんさと此処に集まって、皆楽しそうに君と話して帰って行ったのを見たよ」


「男にモテて嬉しい奴があるか。しかもモテるの意味がちげえよ」


「ええ、僕は男の子の方が良いけどなあ。サッパリしてるし、可愛いし」


「何言ってんだ、お前」


篠原はゲイだ。それをこの男は知らない。女生徒の中では薄々感づいている子も居るようだが、それは益々彼女達を夢中にさせるだけだった。

自分達に害はなく、且つ絵面が良く、非日常的と思えるその趣向は多感期の彼女達には程良い刺激となるらしかった。


「ねえ、樹」


書類に目を走らせている男に声を掛ける。思った通り、鬱陶しそうな生返事が返ってきた。


「僕、君が好きだよ」


「はあ?」


「でもそれは、君が男だから好きな訳じゃないんだ。君だからだよ」


「ちょっと待て、意味が分からん。なんで男が好きな前提で話してんだ?」


「僕が男色家だからさ」


樹はぽかんとした。次いで、混乱したように眉根を寄せて盛大に唸った。


「はああ!?知らねえよ!初耳だわ!」


「うん。初めて言ったから。いつも、いつか、言おうと思っていたんだけど。なかなかタイミングが掴めなくてね」


ノンケの男に良いタイミングなどある訳がない。思い切った気持ちの時に衝動的に告げるしかないと分かっていた。

そして、その応えも。

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