忘石鹸

なんぶ

忘石鹸

 どきどきしながら、ダンボールにカッターを入れる。

 薄水色の紙くずの中には、「ご購入ありがとうございます」と書かれた紙と、透き通った石鹸が入っていた。

 普通の石鹸と特に大きな違いはないのか。説明書をめくる。

 「これ1回分なんだ」

 普通の石鹸なら数ヶ月は使えそうな大きさなのに、高い買い物だったかな。

 Instagramの広告に踊らされたのかもしれない。

 「どれどれ」

 何となく見ていたYouTubeを閉じて、コーヒーを飲みながら説明書を読み進める。



 ご購入ありがとうございます。

 忘石鹸(わすれせっけん)は1回分となっております。一度液体に触れますと、6時間以内に溶けますので保存はできません。ご了承ください。


 忘石鹸を使う前に、必ず以下のことを行ってください。

 ①忘れたい出来事に関するものは、全て処分してください。忘れた後に思い出してしまった場合、責任を負いかねます。※本商品を使っても忘れることができなかった場合は全額保証致します。

 ②忘石鹸は一つ一つ手作りで、丁寧に制作しております。乱暴に扱われた場合、効果・効能が減少あるいは無効になるケースが発生しております。取り扱いには十分にご注意ください。普通の石鹸のように使っていただければ大丈夫です。

 ③忘石鹸で忘れたものに関して、補償は行っておりません。


 「え、説明書これで終わり?」

 あとは会社のお問い合わせ窓口が置いてあるだけ。

 「本当に忘れても良いものか、もう一度お考え下さいぐらい書いてあるもんだと……」

 この石鹸をマジで買う人なんて、マジで忘れたい人だということか。まあそうだ。


 ①忘れたい出来事に関するものは、全て処分してください。忘れた後に思い出してしまった場合、責任を負いかねます。※本商品を使っても忘れることができなかった場合は全額保証致します。

 捨てた。全部捨てた。お揃いのパーカーもスウェットもぬいぐるみも。

 たくさん料理を作ったレシピ本も。アクセサリーも。写真も。

 ゴミ回収車に飲み込まれていく思い出を、ぼうっとしながら窓から見てた今朝だった。

 カメラ……。高い買い物だった。でも、思い出したくはない。捨てるしかない。また次新しいものを買えるのはいつなんだろう。新しいこと買うことすら忘れるかな。いいか。


 ②忘石鹸は一つ一つ手作りで、丁寧に制作しております。乱暴に扱われた場合、効果・効能が減少あるいは無効になるケースが発生しております。取り扱いには十分にご注意ください。普通の石鹸のように使っていただければ大丈夫です。

 乱暴になるっていうのは、やっぱり忘れたくなくて足掻くのかな。

 忘れたくなくなるのかな。効果が減少って、何となく覚えていて、何となく忘れててって状態? ちょっとした地獄な予感。それとも、それぐらいが救ってくれるのかな? 認知症みたいな? うーん。②に関しては守れる自信がない。


 ③忘石鹸で忘れたものに関して、補償は行っておりません。

 忘れたら二度と思い出せませんよっていうメッセージでいいんだよね? いいよ。



 お風呂に久しぶりに湯を張って、いい匂いのする入浴剤を入れる。30分ぐらい本を読みながら半身浴して、やっとついに忘石鹸を手に取る。

 忘石鹸で全身を洗う。メイクは事前に落としておく。透き通っている。こんな消しゴムを文具屋で見たなあ。

 石鹸を泡立てて、まずは髪の毛。

 ハーブの香りに包まれる。あの人の横顔が脳裏を駆け巡る。

 笑った顔も、真剣な顔も、怒った顔も、今こんなに思い出せるのに、忘れるのか。

 好きだったなあ。

 呆れちゃうぐらい好きだった。

 あの人のために、私はどれほど変わったんだろう。

 ネイルも服装も、2年前の私が見たらびっくりするだろうな。

 シャワーで流していく。

 まだ、忘れてない。

 次に、泡立てて身体を洗っていく。

 「……名前」

 名前が消えた。思い出せない。すごい! この忘石鹸は本物だ。

 「手のひらに名前書かなくてよかった」

 頭に浮かぶのは「好き」って気持ちだけ。

 「ああ、よかった。本当に全部忘れられるんだ」

 お湯で流していく。泡が流れ落ちていくのと同時に、少しずつ記憶が消えていく。

 顔も、声も、あんなに脳みそをぐちゃぐちゃにしたあの人の全てが消えていく。

 「よかった……」

 この涙は、一体何の涙なんだろう。



 「わすれせっけん」

 お風呂上がりの私は見慣れない箱を発見した。

 「私が頼んだんだっけ」

 宅急便で受け取って、それから、お風呂に入って、使った、のか?

 「何かを忘れたんだ。何だろう」

 説明書を裏返すと、私の字でこう書いてあった。


 本当に忘れた時のために:

 思い出したくなるだろうけど、それはやめてね。この私が忘れたいほどの出来事があったんだから。

 あとには差し支えないようにゴミを出したり色々消したりした。

 悲しいことがありました。

 死にたいけど、それはだめなので、この石鹸を注文しました。

 毎月1日に赤い花を生けてください。


 「色々知りたいけど、それを私は望まないってことだよね。少なくとも1時間前の私は」

 コーヒーを飲みながら、ぼんやりとテレビをつけた。

 〈今日都内で、俳優の○○さん夫妻の告別式が行われました。○○さんは先月一般女性との入籍を発表しましたが、新婚旅行先の———奥様は妊娠して———〉

 やけにすっきりした部屋。窓の外は春の嵐か、雨と風が叩きつけてくる。

 「この人が好きだったりしてね」

 そんなわけないか。俳優にハマる自分なんて想像できないや。



 忘石鹸で忘れたものに関して、補償は行っておりません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘石鹸 なんぶ @nanb_desu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ