春暖ノスタルジア

京谷アサキ

記憶の奥へ

 高速道路を経由する片道二時間近くの距離を、色褪せた、目新しさの乏しい畦道と畦道との連続に辟易しながら過ごした記憶が色濃い所為もあってか、幼い咲乃(さくの)にとって、取り分け母方の親族を訪ねる春先の頃、自家用車の窓外にひろがる景観にせめてもの救いを求める時間は窮屈で抗し難いものだった。どういうわけか運転が不得手な父はたいてい自身の所有するセダンのハンドルを母に預けざるを得なかったのだし、またぞろ助手席に座ったら座ったで、父は乗り物酔いがひどく、道中は何度となく父の酔い覚ましに小休憩を挟まねばならなかったので、父の具合を気遣う母は退屈を訴える咲乃の相手をする余裕もなかったのだ。そうすると、車中で咲乃が満足するような会話を楽しむだけの余力なんてものが両親にはある筈もなく、幼心地に咲乃は、頻繁に、車窓に反射して映り込む自分の沈み込んだ大きな鳶色の虹彩と出会ったものだった。

 今にして思えば、距離にして約百キロの道程を、従前の半分である、たった一時間ほどで走破してしまう新幹線という移動手段に乗り換えてからというもの、これまでの気苦労とは本当に何の役にも立たない苦いだけの記憶に成り果てたのだ。

 概括的に近代の意匠である印象の明るい車内へ乗り込むと、すぐに咲乃は空いている窓側の席を探し、程なく車窓に対して小首を傾いだ。人混みは苦手だったし、顔のない他人を観察することはもっと興味を見出せそうもなかった。

 咲乃が乗車して後、その先進的な交通手段は、比してそれらの技術が息衝く現代からは遡行してしまったような、春先の十分に草木が色付いていない頃合いの田園風景を中心に走行した。車輌が幾度かトンネルに差し掛かる度、窓越しに大きな鳶色の虹彩をもった少女と出逢った。彼女はやや不機嫌な、ともすると世界に対するあらゆる興味を失せたかのような面差しをしている。けれどもあまねく他者にとっては割に受けの好い風采らしいのだった。慇懃な猫のような顔だとも誰かが言ったし、確かに、華奢な四肢は過不足なく軽やかに機能した。だのに、少しも他者に愛嬌を振りまくことをしない、人見知りで、偏屈な、変り種の猫。

 咲乃にとっては思い起こすことの殆どを憚られていた、或いはもっと的確に春という時節を忌避するようになっていたのは、多くの定例的な慣習、通例、それに係る人々の想像に難くない荒んだ雰囲気に距離を置きたかったからなのだったし、そうした風土に触れることで必要以上に気分を損なうことは望むべくもなかった。多種多様な人々の事情をいちいち指折り数える分だけ等しく存在する瘴気めいた感情たちが、覚えず咲乃の感覚における春に対する抵抗を強めていった。親族、などと表現するから近親的に聞こえるだけの、その実、自分たちにとって何らの好影響を及ぼすでもない、他人という枠組みに少し毛が生えた程度のものだと咲乃は思っており、これらは時を経るにつれて半ば嫌悪にも近しいまでに距離感を拗らせてしまっていた。

 母が亡くなってからというもの、それから先、彼ら彼女らとの付き合い方はもっと悪くなった。

 以前の自分にとって、春というものは、決して忌避すべき暗澹たるものではなく、翻って、折節の気候変化に伴う動植物の胎動や萌芽にこそ、それが仮に幼心地のことでさえ、実にわかりやすく心を動かしていた筈だったのに、どうしてここまで状態は変化したのか。が、要は春という時節に偶発的に重なった、折悪しくも心理的に好ましくない事象が立て続けに連鎖したことが、咲乃にとっての、春に対する印象を殊更に歪曲させてしまったというだけのことでしかなかった。


 有り体に田舎というほかに相応の評言を探しあぐねる旧套的な駅舎の風景は、急速な発展を遂げてすべてが別物に成り代わってしまった隣町の大型駅の過渡期を思わせた。とはいえ都市部と地方をも一緒くたに貫く高架橋を奔る幹線鉄道を利用する旅客にとって発展の濃淡をいちいち気にかける者は決して多くはないだろうし、そして、老朽化の著しい建造物のあちこちに、やけくそのように近代的な風情のテナントが軒を連ねる景観は名状し難いものだと咲乃は思った。いつかはこの接続駅の周辺も都市化し、大規模に改修される日も来るのだろうか?

 地方の特産品や地酒などを雑多に扱う、割に印象の好い土産屋が咲乃の目を引いた。多少は足を停めて土産物に視線を落とすも、この旅につき、そうした類の物を渡すべき相手がいないのだということを咲乃は思い出した。

 それからすぐに、今度は旅客の喧騒の入り雑じった在来線のボックスシートへと落ち着き、やがて辺邑のバラックのような無人駅で咲乃は下車した。

 駅舎を抜けてすぐ、申し訳程度のロータリーに留まったタクシーの運転手の幾人かが愉しそうに煙を吹かして歓談していた。すぐ脇を足早に通り過ぎようとしたが、頬のこけた土気色をした中年の、諦観したように据わる、細い双眸から覗くぎょろりとした眼と出くわしてしまった。未だ少女と呼ぶ頃の自分がひとり、世間から取り残されたような風情の無人駅に現れたのだ、さも異質な流入者を蔑むように一瞥を向ける運転手の男の反応は是非もないことだったが、どう見ても暇を持て余した中年たちの、方々、色を失った眼差しの異質さに、咲乃は内心で鼓動が加速するのを感じた。

 稍あって、咲乃の好くない想像が現実となった。運転手の男は二言三言、咲乃を呼び止めるように声を上げたのだ。

 しかし。

「こんにちは!」

 よく通る、澄んだ高い声を以て咲乃はそれらを即座に遮った。間髪入れず、口を結んだまま彼らに対して会釈をし、今度こそ咲乃はその場を後にした。仮に純然たる好意のことから相手がそうしていると仮定するにせよ、付近のアスファルトに幾つもの吸い殻を堆くしようと試みている連中と仲良く談笑するような甲斐性こそ咲乃にはなかった。

 件の無人駅からは少しばかり歩き、やがて開けた場所に差し掛かったので、咲乃はいちど市街地を眺望するべく、わざとその場でくるりと身を翻した。

 好くいえば年季の入って趣のある、憮雑にいえば流動的に文化や価値観の変遷する都市部の外観を郡部の閉鎖的な環境が無理に模倣しようとしたことで、幹線鉄道や幹線道路の恩恵に肖れずに過疎の憂き目にあったことを容易に想像させるような有様だった。折々シャッターの閉じた街路に躍動的な人類の営みが垣間見えることはなく、嘗ては若者と呼ばれていた世代が次々に離れてしまったことを咲乃は誰か知らから伝え聞いていた。昔ながらの和菓子、洋菓子店は細々ながらも開いていたが、婦人服を扱う衣料品店などは国道沿いに乱立するショッピングモールに喰われて暖簾を下ろしていた。在来線の窓越しにみた限りでも新規流入者は新たなベットタウンとして分譲を始めた幹線道路沿いの露骨な賑わいに掠めとられようだし、今やここは半ば形骸化した町の機能の侘しさを喧伝するばかりの記憶の残滓だった。


「この町には、咲ちゃんが喜びそうなものも無いだろう、今の子供はみんな家の中でゲームに夢中だもの。流石にばあちゃんでも知ってるさ」

 それでも幼い咲乃は、まだこの街路がそれなりに賑わっていた頃に、祖母に手を引かれて心愉しく歩いたことを何時だって鮮明に想起する。

 咲乃はふるふると頭を振った。

「あたしは、ばあちゃんといっしょにいるほうがいい」

 そのためだけに出処の判然としない義務感か何かに裏打ちされてこんな田舎町へと車を走らせる両親の意向にも従順に応じたのだ、何度と顔を合わせてもまるで打ち解ける気のしない親族の仮面めいた表情の中に所在無く座り続けることに耐えることが出来たのも、遠く離れて住む祖母に会えるからこそだった。

 そうすると、祖母は節の長い、咲乃にとっては大きい掌で頭を鷲掴みにして、それからじっくり丁寧に頭を撫でまわしてくれたのだった。

「ばあちゃんも、咲ちゃんが来てくれるのだけが愉しみなんだよ」と祖母は言った。年老いてもなお従前の目鼻立ちのよさを思わせる細面には温かさの中にも気品が見え隠れしていた。と同時に、そのような雰囲気を醸せるほどの人物から向けられたその笑みに同居した寂寥が今もくっきりと咲乃の記憶には焼き付いている。自分といる時だけ、祖母の表情が平常よりもずっと明るく変化していることを咲乃は知っていた。


 舗道には、あろうことか、未確認生命体が搭乗するような件の円盤を彷彿とさせる電飾灯が吊られていた。この意匠が数十年後に決して伝統的な装飾技法として何人からも省みられないことをどうして想像さえしなかったのだろう?

 それほど退廃的な年月を刻んだ小さな町にも、春は等しく訪れていた。といってこの場所は特筆するほど桜の並木が見目麗しい観光地でもなかったのだし、多くの家々は分厚い生垣で堅牢に囲った内側にこそ折々の草花を飾っていたのだが、親しい知人でもなければどうしてよそ様の敷地の門を潜ることをおいそれと許諾するだろう? そんな人類の文化の変遷を知る由もなく、ぼってりとした重厚な花弁を幾重にもつけた椿、それから幹や枝振りも楽しい木蓮の白い花弁が、遠巻きに見る幾軒かの昔ながらの垣根の向こうには咲き競っている。


「ねえ、ばあちゃん、桜は見ないの?」

 幼心地のまま祖母に手を引かれて春めく山野を散策する際中、春先に特有の風情のなかに大抵の人々が想い描く、件の樹木が欠けていることを不思議に思って尋ねたのだった。祖母は言った。

「もちろん見るよ。このあとにたっぷり見るさ。だが綺麗なだけの桜を見るのなら、ちょっと選んで探せばすぐに見つかるが、そうやって桜ばかりに気を取られていると、この子たちの見頃を疎かにしてしまう。ばあちゃん、桜は好きだけど、この子たちの花も同じくらいに好きなのさ」

 辛夷(こぶし)に、それから木蘭(もくれん)のことを祖母は説明した。咲乃には祖母が語ったところの奥向きにまで思慮を傾けるだけの器量はなかったが、祖母が好きだというのなら、同じように自分も祖母の好きだと言った花のことを記憶しておきたいと思った。ばあちゃんの好きな花。

「桜はみんなに好かれるからね。みんなにさ」と祖母は言った。「けれど、みんなに好かれるってことは難しいんだ。桜にとっては好くない虫がつくし、厄介な病気にだってなる」

「桜、病気になるの?」

「そうさ、咲ちゃんよりもずっと体が弱いかもしれないね。もちろん皆が皆そうじゃない、皆に好かれた桜はよく手をかけてもらえる。だから他より丈夫に育つんだけれど」

「じゃあ、みんなに好きになってもらえない桜はどうなるの」

 この問いを投げたとき、祖母は少しだけ戸惑ったように首を捻って、次の回答まで数拍の間を挟んだ。

「やがて、花を咲かせることができなくなる」


 久方振りに見えた辺邑の地にて、人けの失せた山間の畦道の先、ふと、その小脇には石段が脈々と積まれた小さな神社への階があった。辺りの手入れが存外に疎かで凡そ薮のようであり、が、そのほど近くにはずいぶんと幹の重厚な樹木があった。

 年老いた桜の樹であることを、咲乃は知っていた。

 折々に蕾が開いてはいたものの、それが十分に開ききってもいないうちから緑葉を拵えている、他の枝振りと比して雑然とした部分がいやに目についた。

「病気そのものはずっと以前から分かっていたことだし、なにも最近になって蔓延しだした流行り病のような具合でもないがね、ただ、この木に携わっていた人間が、何らか、この場所に足を運ぶことができなくなった。そしてそれを継ぐべき思慮のある人間が終ぞ現れなかった。…御覧、この場所の有様がすべてさ」

 咲乃は首肯した。一目するばかりでも、神社への参道も、付帯する駐車場も、ずいぶん長いあいだ誰も手入れをしておらず、荒れるに任せていた。しかしこの環境に纏わる背景にどんな変遷があったのかを一考することも、辺邑の著しい過疎を思えば、或いはそれさえも野暮なものかもしれなかった。

「花見は十分に済んだのかい、咲ちゃん」

 突として、前段の話を区切るようにしてから、老媼(ろうおう)は咲乃に尋ねた。折々に咲き競うきらびやかで衆目の関心が向き易い、環境や条件の好ましい花に対してだけならば、それは鉄道の車窓からでさえ満足に果たせたし、況してこの邑でどれほど心楽しく草花の色艶と邂逅することが難しいのかは語るまでもないことだった。

「ぜんぜん、まだだよ」と咲乃は言った。

「そうかい。今更咲ちゃんが楽しめそうなものもないだろうからさ、ヒトが賑わいや、語らいを求める場所としては、ここはもう終わったんだよ。もしこれから新しいヒトがこの町に入ってくるとして、厳密には、それは今の景色じゃない、既に切り崩されて別物に生まれ変わった何かに対してだろうから」

「そう、かもしれないね。でも、どれかひとつでもあたしの記憶の中に根付いている風景や匂いがね、どんなに時間が経っても、この場所に立った瞬間、それを記憶の中から引っ張ってきたの。…すこしだけ、驚いてる」

「だが、そうなんだろう、他の誰かにとってもそういう場所ってものは必ずあるもんだ。誰かの記憶に息衝く限り、そのヒトにとって、そういう場所ってものは何時いつまでも生きているんだろうよ。だが、咲ちゃんにとってこの町が、“あの家”が好きじゃなかったろう」

「あたしは、あたしが好きだと心の底から思えるヒトに逢うための手段として割り切って考えてたってだけだから。…無理、してたことは認めるけど」

「なら、もうその必要もないね。咲ちゃんにとって」

 それらの詮議立てを胡乱に扱うことも咲乃には出来たが、昔日より今日に対して結ばれ続けた咲乃にとっての底意地、或いは、それらを漫然と意識の外側へと放逐し続けることが、やがて咲乃にとって善からぬ妄執へと転化することに危殆を覚えたからこそ、咲乃はこの場所を訪れることを決めた。

「相互の合意のうえで、誰かと誰かが望んで導いた結果じゃないの、こんなの、単に長い時間をかけて風化してしまった歴史の一片とすこしの違いもないよ。もっとも、そのままにしていたって誰かが勝手に解決してくれるようなものでもなかったって思えば、これ以上、下手なケチがつくまえに終わってくれたのは、あたしにとっても決して悪い話じゃなかったって、うん、…それだけ」

「今更こんな場所に足を運ぼうなんてしなくとも、道理や義理を抜きにすれば、咲ちゃんがこれ以上この場所に対して心を砕く必要なんてないだろう」

「終わらせるためだよ」と、咲乃は言った。


 黄昏時へと移ろうにつれ、清々しく晴れたのでもなく凡庸で記憶にさえ留まるのかさえ怪しかったその日の不鮮明な天候はいよいよ永遠に忘却されることになりそうだった。往路の途中までは僅かなりとも厚い雲の淵から光芒を差し込ませはしていたが、肝心の散策時にはまるで役目を果たさず、挙句、用向きが終わる頃である夕刻につれてそれらを徐々に霧散させていったのだ。

 一時間に一本しかない復路の在来線の時刻には十分に余裕をもって咲乃はバラック駅のロータリーへと差し掛かると、少し前に屯していた幾人かのタクシードライバーは既に散会していた。ふと、彼らが立っていたアスファルトを一瞥すると、吸い殻の積もったそれらは跡形もなく除かれていたことに咲乃は少しだけ目を瞠った。が、無人駅とて人の往来がある場所という以上は誰か知ら鉄道関係者の清掃の手が入る可能性もあるだろうし、地域のボランティアが見兼ねて片付けたのかもしれない。無論、彼らグループの誰か一人でも良識を持ち合わせた人格者が含まれていて、悪習を諫めたのかもしれない。だがそれらをどう想像して満足を得ようが得まいが、今後の未来において咲乃がそれを知る由は、半ば永久的に必要のないことなのだ。

 在来線の列車を待つべくホームに立つや、それと殆ど間を置かずに咲乃のスマホが鳴動する。表示された発信者の名前に咲乃は露骨に眼を細めた。

『事前に今回の旅程について聞き及んではいたけれども、少しくらい、僕の電話に出てくれてもいいじゃない』

 ディスプレイに表示された[鳶澤敬志(とびさわけいし)]は、咲乃が簡潔に伝えていた今回の外出に係る事前報告につき、決して彼にとっての満足の度合いが高くはないことを裏打ちするような、子供っぽい口吻を以て咲乃に抗議の声を上げたのだった。

 咲乃は反駁した。

「どこに行くのかだって包み隠さず教えたし、それで納得もしたでしょ? 後からそんな風にうだうだ言われるのは心外なんですけど」

『咲乃ちゃん!』

 突として、日頃は決して大きく響くことのない柔和で、いかにも優男が発するであろう幾分か高い甘い声が、豈図らんや、張り詰めたことに咲乃は吃驚した。

『ねぇ、こんな僕だけれども、れっきとしたキミの父親を標榜しているんだ。況して、僕が負うべき問題である事柄を、娘のキミが間に入って気苦労を負っていることを見て見ぬふりなんて出来るハズもないでしょう!? キミが、水咲(みさき)のことで、“碓氷”の家に悪意を、いいや、仮に咲乃ちゃんがそう思っていなかったとしても、決して快い感情で観ていないことくらいは知っていたんだ。お義母さんのことで、それ以上に強い感情を持ったのかもしれない。今や“碓氷”の家にとって、僕は敵のような立場も同然だし、それに、これまでずっと僕の肩を持ってくれたお義母さんだって…』

「勝手にどんどん話を進めないでよ!」

 無人の、周囲を畦道で囲んだ斜陽差す古びたホームに、慟哭めいた咲乃の声が響いた。我知らず昂った感情が堰を切って目尻に溢れるのもそのままに、震える声で咲乃は叫ぶように言った。

「あたしは、あたしのやり方できちんと整理をしたかっただけ! …そうだよ、どんなに理想や正論を並べられたところで、あたしは母さんと、“ばあちゃん”が、あたしに語って聞かせてくれた言葉以上のことなんか信じない! けど、それで誰かを特定の悪にしたいわけでも、今更向き合ってどうにかしたいわけでもない。ほかでもない、あたし自身がきちんと整理をしたかったの!」

 母が急逝して後、まるでその病因が父の不手際であるかのような古めかしい糾弾を受けたことから、母方の“碓氷”の家とは、それ以来徐々に疎遠になり、それらの板挟みになるように祖母が間に入って仲裁を試みようとしてくれたことを咲乃は知っていた。そして、古式的な概念に支配された土壌で、集団に対して個が強い言葉を言い放つことの意味が、祖母にとって決して芳しい空気とはならないだろうことも。

『やっぱり、必要以上に無理を言ってでも僕が同行すべきだった』と、敬志は低く沈んだ声音で言った。『そういう感情をキミに背負いこますことになるのなら猶更だ。…本当に厭になるくらい、愚鈍な父親だね、僕って奴は』

「父さんにちゃんと話さなかった、あたしが全面的に悪い」

『キミがどれだけお義母さんに懐いていたのかを知っていたんだから、その時点で、須らく、僕が配慮すべきだったんだよ』

 遥か遠くから、まだ小さく、けれども線路を進み来る列車の影が、歪んだままの咲乃の視界に入った頃、意図して咲乃はそれを忌避するように無人の駅舎に駆け戻り、それから少しだけ乱雑に服の裾で目元を拭った。噎せ返るように流れ出した感情の波に呑まれたまま、それと知らず日常を送る一般人に要らぬ懸念や誤解を与えることは望むところではなかった。

「惜しかったね咲ちゃん、あと小一時間、電車は来ないよ。在郷の駅なんてこんなものさ、多くの関心から逸れてしまえば容易に賑わいを失くすし、いずれこの地が再興に沸く可能性を思い描くよりも、明らかな憂き目を見る方が先さね」

 国道沿いや、新幹線の高架橋沿いに次代の流入層が新たな基盤を築き上げる一方、山野で隔てた辺鄙な土壌を顧みるのは、よほど強い思い入れを捨て切れずにいる者だけ。

「でも、あたし、ここが好きだったんだなって、今更になって分かったよ。手を引かれて連れまわされるままだったら、こんな気持ちにさせられることもなかっただろうけど、それでもここに立てば、具に“ばあちゃん”のことを思い出せた。時間の流れや、世間の営みからどれだけ遠退いても、この場所で“ばあちゃん”と過ごした記憶が残ってる以上、どれだけ時間の流れに取り残されたところで、この場所はあたしにとって、そういう場所だったの。…だけど、もう、いい加減に受け入れなきゃいけないね」

「そうかい。それが咲ちゃんの決めたことならば」

 咲乃は頷き、頷き、それから、意を決して振り返った。


 そこには、何者の気配もなかった。


 瞼の裏になら直ぐにでも思い浮かんだ、凛々しくも、その奥に言い知れぬ温かさを湛えた老媼の細面も、その口から紡がれる重厚な語り口でさえも、まるで白昼夢のように咲乃の記憶の奥へ、奥へと鳴りを潜めて、溶けるように薄れていく感覚を覚えたのだった。

 日常に戻らなくては。

 ある程度自由に、意図してこの場所に立ち寄ることが適う、これが最後の機会になるだろうことは分かっていたのだし、元より、咲乃にとって端から思い残すほどの未練を居残らせるべき場所でもなかった筈だった。予期せず複雑さのある感情の瀞に呑まれそうになったのは意想外ではあったが、それらを過去の記憶として割り切った今にとって、漸く、咲乃はこの町から帰ることが叶うのだ。

 咲乃は独り言ちるように、そっと、口元を動かした。

「ありがとう」

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