119 焦げ日記

 二人の若者がギョッとして凝視する中、火の付いたままの日記は独りでに机の上に浮き上がると子供の落書きが実体化したような細い手足をにゅっと出した。

 次には表紙に目と口が浮き出て俗に言うぴえん顔になる。


「アチチチチアッチッチ早く消してよーっ! はーやーくーッ! 死んじゃうよーッ!」


 手足をバタつかせて自分でもパンパンと届く範囲の火を叩いて消そうと試みているようだが、悲しきかな短いのでほとんど功を奏していない。


「な、何だあの不審生物……。いや不審無生物か?」


 未知なる魔物でも見た顔でマルスが慄然と呟くも、幸い短剣で攻撃しようなどという気は起きなかったようだ。その声に気を取り直したウィリアムがようやく魔法で火を消してやった。

 漫画やアニメのようなぷすぷすとした黒煙を上げて一部がギャグのように黒焦げになっている日記は、安堵したような顔をして机の上に下りた。


「ああもう何てこと~、ボクのキュートなお尻が燃えちゃったじゃないのさ~ッ」

「お尻……。日記にお尻って……ないだろ」


 涙目の日記を未だ呆気として見つめるマルスが常識的な突っ込みを入れる。

 ウィリアムは、日記の主に背表紙の下方にかけてが黒く焦げているのを見て確かに尻だなと思い、マルスの言葉にも確かに尻はないなと、矛盾するようだが両者に同意した。


「ウィリアムってばさ~、ぼさっとしてないでもっと早く火を消してよね~っ!」


 怨みがましい目をした日記から指差しまでされたウィリアムはムッとして眉間を寄せる。


「だったらタヌキ寝入りなどせずに、さっさと返事をすれば良かっただろう。アイリスにしたように今度は俺をドッキリ的に騙すつもりだったのか? 自業自得だ」

「はあ~!? ボクは今まで死んでたんだよ。この刺し傷のせいで……って、あれ? ない? おっかしいな~?」

「死んでいた? こうやって動いて喋っているくせによく言う」


 ウィリアムは可笑しな言葉でも聞いたように失笑した。


「それに傷は直したようだぞ」

「あ、なるほどだからないのか何だ~……って、ボクは冗談を言ってないよ。ここはどこ私はボクってことしかわからないし」

「十分だろう」

「どこがさ! 本当にここはどこ? ボクには崖の上以降の記憶がないんだよ。大体その子は誰さ? 何か似てるけど君の隠し子か何か?」

「……おい、隠し子って何だ。俺に子供がいたとしてもこんな大きな息子なんているか」

「え? ウィリアムって三十過ぎじゃないっけ? 早く子供が出来れば大きな子がいても全然不思議じゃな…」

「――まだ二十歳前だ!」

「ん~ふ~、そうだっけ~?」

「えッ!? マジか……あんたまだそんな若かったのか。確かに見た目は若いけど妙に落ち着いているから、三十までは行かなくてもてっきりもっと上かと……」


 日記のわざとらしさは置いておくにしても、ウィリアムとしてはマルスが驚いたような声を上げたのは聞き捨てならなかった。


「お前は俺を幾つだと?」

「二十半ば」

「……。そういうお前こそ十四、五には見えない。本当はサバを読んでいて十八、九なんじゃないのか?」

「誓ってまだ十四だ。もう少しで十五になる」

「あはは君たちって年齢を気にする女子~?」

「黙れ焦げ日記」


 ウィリアムは丸ごと燃やしてやろうかと短絡的に思ったが、マルスは不愉快そうにはしておらず、むしろ何故かどこか嬉しそうにしている。


「僕はその……年嵩に見えるのか?」

「見えるよ~。それで十四なら大人っぽいよね~ん」

「そう見られたいのか?」


 首肯するマルスはしかし背伸びしたいお年頃……というわけではなかった。


「その方がアイリス嬢と一緒にいても釣り合いが取れるだろ」


 主人より年下の少年護衛と思われるよりも、大人の護衛と認識される方が周囲から嘗められないとマルスは単にそう考えていたのだが、ウィリアムは洒落っ気を出して背伸びしたい方の釣り合いだと受け取ったので、あからさまに面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 日記はパチパチと二、三度瞬いてから「ん~ふ~?」とアイリスが言う所のスポンジなんちゃらの半目になってにやにやしたが、ウィリアムから八つ当たりでべしっと叩かれてまたもやぴえん顔になる。


「痛いなあもうっ暴力反対ーッ」


 ウィリアムと日記のやり取りに、マルスは心底不可解そうな視線を送っていたが、意を決したのか日記に顔を近付けて目を凝らし何か新種の虫でも観察するようにした。


「なあ、そろそろこれは何だか訊いてもいいか? 手品じゃなさそうだし、あんたの魔法とか腹話術でもなさそうだ」

「失敬な、こんなので腹話術なんぞするか」


 こんなのじゃなければするのかとマルスは問い掛けそうになったが、賢明にもしなかった。


「これはアイリスの日記だ」

「いやそれはわかるけど、そうじゃなくて」


 すると日記はマルスに向けて胸を張る。


「パンパカパーン! ボクは歌って踊れもする日記界のアイドル、アイリス日記だよ~。以後よろしく~」

「……よろしく」


 握手を求められかなり本気で戸惑いつつも手を差し出したマルスは、日記の頼りない手を恐々と握った。

 この日記は精霊でも魔物でもないようなので、一体何なのか心底疑問だったが、今はそれよりウィリアムの行動が気になった。


「とりあえず、この日記が生きているのはわかった。こんな夜更けにこっそり来てあんたは本来僕にこのことを知られたくなかったんだとも理解する。けどあんたはどうして日記を必要としたんだ? アイリス嬢のことなら僕を除け者にするな」


 少しの憤りを内包した声音には譲歩の気配はない。

 絶対説明しろと眼光鋭くも訴えている。

 ウィリアムはやれやれと言った風な息を吐き出した。

 日記が別段動けるのを隠そうとしていないので、その点は放置でよしとする。


「別に除け者にする気はない。ただこの日記は俺よりも物知りな分野があるから話をしたかったんだ」

「アイリス嬢のための情報を得たかったってわけか」

「そうだ」

「あ、ねえねえ、ところでその肝心のアイリスは? さっきから姿がないけど一人呑気に別の部屋で寝てるとか?」


 ウィリアムとマルスは無言で視線を交わし合う。


「面倒な奴に攫われた」

「ふーん、どこの誰に?」

「驚かないのか」

「ええええーッ!? ……って驚いて時間を無駄にしてほしい? 驚いてるよこれでもね~」


 効率を優先する日記の態度には感心するものがあったウィリアムは、正直常にそういう姿勢でいろと言いたかったが呑み込んだ。


「で? 一体誰にかどわかされたのさ?」

「アーネスト・ソーンダイク」


 これにはマルスが即答する。


「へえ、ソーンダイク公爵か~。ボクが死んでる間に何だか大変なことになってるみたいだね~」

「おい、死んでいたって、本当に今まで意識が遮断されていたのか? アイリスと意思疎通も出来なかったと?」


 意外にも話の骨を折ったのはウィリアムだった。

 彼は半信半疑の面持ちで日記を見つめている。


「そうみたい。まあ死んでいるって言っても、仮死状態みたいなものだったんじゃないかな~。刺されて意識が途切れて元の仕事場に戻され……ああいやいやとにかく日記のボクとしての意識覚醒が儘ならなくなったんだよね~。だからこうして命に関わる大きな刺激を与えられて、えっあれっボク燃えてるけど今何が!?って急に意識がハッキリしたんだと思うよ~。ふう、でも良かったよ。表面的には結構黒くなっちゃったけど中身の大部分は無事だし」


 日記は人間で言えば尻をさするような仕種をしたが、如何せん手が短いので様にはならない。ウィリアムは一人目を伏せた。


「それじゃあその間アイリスは……自分を責めただろうな」


 日記の言葉を信じるとして、彼女は無反応の日記が死んだと思って悲しんでいたに違いない。

 再会時に泣いた顔を思い出せば、ウィリアムの心臓は痛みにぎゅっと縮んだ。どれ程心細かっただろう。

 アイリスが日記の傷を修復したのは、普通の生物ではない日記がそうすれば生き返るかもしれないと思ったからだと理解していい。

 それでも目覚めなかった日記をずっと手元に置いたまま、彼女は事情をたった一人で抱えて何を思っていたのだろう。

 そう思えば、ウィリアムは彼女が逃亡中に傍に居てやれなかった不甲斐なさを心から悔やんだ。それに王都で再会してからもアーニー誘拐の件でバタバタして日記の話はできなかった。彼女自身も忘れていたのだろうとは思うが、その点も自分の配慮不足だったと彼は深く後悔の念を抱いた。


「魔法の日記なら、アイリス嬢がどこに居るとかわかったりしないのか?」

「生憎ボクにはそんな便利機能は備わってないんだよね~。でもソーンダイク家に行く時は是非ともボクも連れて行ってね」

「どうして」


 ウィリアムが嫌そうな顔になる。


「君たちが敵の気を引いているうちに、ボクはただの日記のふりをしてこっそり家の中を調べようかな~って思ってね~ん――ってわああ?」


 突然、ウィリアムが日記を捕まえて表紙や裏表紙を矯めつ眇めつした。


「なるほど、最早役に立たないただの喋る日記かと思ったが、そういう使い方もあるな」

「やんっ、あはは擽ったい、ちょっとウィリアムってば何するのさ~」

「変な声を出すな気色悪い。焦げた部分を直した方が良いだろうと思って状態を確かめていたんだ」

「あ~そういうこと。焦げ焦げ日記なんて持参したら不自然だもんね」

「あ、じゃあ修復するならまたザックに頼むといい」

「ふうん、ザックって人が直してくれたんだ。でも今回はウィリアムが魔法で直してくれると思うよ~」

「魔法はそんなこともできるのか」

「何事にも限度はあるがな」


 最初からそうする気ではいたウィリアムは頷くと同時に魔法を放った。生じた光が日記全体にキラキラと纏わり付いて染み込むと共に、焦げが薄くなっていき終いには元の装丁の色に戻る。


「わあ~ボクってば新品みたいだよ。サンクスウィリアム~」

「すごいな、角のすり減りも無くなってる。けどこんなに綺麗にしたら、アイリス嬢が見ても自分の日記だとすぐにはわからないかもな」

「あはっ、たとえ表紙のタイトルを見なくても、そこは中身を読めば一発じゃない?」

「「ああ……」」


 大体どんな方向性の中身なのかアイリス本人から聞いていたウィリアムは微妙な顔をし、山賊のアジトで日記を天日干しにした際少~しチラ見したマルスも、その時の衝撃を思い出したのか顔を背ける。


 とにもかくにも、ウィリアムとマルスは完全復活を遂げた日記へと自分たちの現状を教えてやり、尚且つ寝る間も惜しんで今後について意見を交わしたのだった。


 因みにマルスは、退院してきたザックから寝不足になる程待ち遠しかったのかと感激された。

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