64 新たなる異世界生活の幕開け1

 気付けば私はまた、悪女アイリス・ローゼンバーグになっていた。


 一体全体これはどうしたっていうの?


 一度は現代日本に戻ったのに、それも少しの間だけでまたこの異世界に逆戻り。

 さっぱりわけがわからない。

 黒ドレスを着替えもせずにベッドから降りた私は、一晩ウィリアムがここに居たせいか朝っぱらからやって来てぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるメイド達を今ばかりはさすがに相手にしてもいられず、悪役令嬢らしく「私、あなた達に構っているほど暇じゃないの」と冷たくあしらって部屋を後にした。


「今度は裸じゃなくてちゃんと服だって着てたのに、それでも悪女呼ばわりって何なのかしらねえホント。私に難癖付けるのってもう単に趣味なんじゃないの?」


 ブツクサ言いつつ足を進める私の目的地は本邸のニコルちゃんの部屋。


 そこに日記がいるんだもの。


 あいつなら色々と事情を知ってるはずよ。とっちめてやるんだから!


「アイリス、どこに行くんだ」


 やけに真剣な顔で部屋を出て、徐々に歩行速度を上げる私の横にくっ付いて、葵ことウィリアムが声を掛けてくる。

 あ、すっかり放置しちゃってたわ。ごめん葵。彼だって困惑しているのは私と同じよね。ううん、こっちでずっと暮らしてきて久々に日本に戻ったんだろうし私以上に混乱しているのかもしれない。顔には出してないだけで。はあ、ちょっと配慮が足りなかった自分に大きく減点だわ。やっぱり早く日記に説明を求めようとやる気を出した。


「どこって、そんなのは決まってるでしょ、日記をシバきに……ああいえ様子見にニコルちゃんの所よ。てっきりもう会えないって思ったから余計に早く会いたくてホホホ!」

「ふーん」


 嗚呼平坦な返答をどうも。ツッコミがない辺り彼も私をよくわかっているようだわ。彼にはまだ日記の真実を告げていない。いずれは話したいとは思うけどね。ともかくそれ以上ウィリアムは何も言ってこないから私もこれ幸いと下手に何かを言うでもなく、鼻息も足音も荒く本邸へと乗り込んだ。

 そうして対面した日記ってば、ニコルちゃんから聖書とか崇められてたし、予想通り調子に乗ってたわ。清楚なドレス姿のニコルちゃんの腕に抱き締められながら、さも得意気に「やあやあアイリス、苦しゅうない楽にせよ~」なんて相変わらずのふざけた落書き顔で上機嫌にヒラヒラと手を振ってきたんだもの。

 こいつ、人の気も知らないで……。大体美少女のお胸に抱っこされて上機嫌って何? 真実の中身は豪遊好き女好きでパリピなオッサンなの?


「ホホホ御機嫌よう日記。お変わりなきようで何よりですわ~?」


 ノリに合わせて言ってツカツカツカと近寄るとニコルちゃんが日記を渡してくれた。真ん中から開いて左右の端をむんずと掴んでぐいぐいと引っ張ってやる。


「痛い痛い痛い痛い裂けちゃうよ~ッもっと優しくして~んアイリス~ッ!?」

「あっなったっねっえっ!」


 日記の耳がどこにあるのかは知らないけど、今度は音攻撃とばかりに声を張る。


「これはどういうこと!? え!? 知ってたんでしょ説明して!!」

「説明したくても痛くて無~理~ッッ、暴力反た~い!!」


 入室早々にメンチを切っての私の暴挙には、さすがにビックリした様子のニコルちゃんが見兼ねて止めに入ってきた。日記を引っ張る私の手に縋るように白魚のような手を添えてくる。


「ね、姉様どうか少し落ち着いて下さい。そのように激高なされては折角の垂涎ものの麗しいお顔が……ああいえそのようなお顔も大変にそそられますけれどもっ、はあはあっ」


 ……ちょっと冷静になれた。


「ニコルちゃん悪いけど止めないで頂戴。あと朝っぱらから変な興奮もしないでね。これは私と日記の間の大事な信用問題なのよ」

「そ、そうなのですか? ええとですが、それでは聖書いえ日記さんが本当に破れてしまいます。もしも破れては、お話一つ交わすのさえ不可能になってしまうのではないですか?」


 その言葉にようやく私の頭は完全に冷えた。そうよね。

 ニコルちゃんに先を越されたからかは知らないけど、止めはしなかったウィリアムも傍に来て静止した私の手から日記を抜き取った。


「俺達の事態は不可解だが、日記に八つ当たりするのは良くないな」


 ウィリアムは敢えて明確な表現を避けている。ニコルちゃんが居るんだし当たり前だろうけど。


「このおちゃらけた顔を見てたら、大いに八つ当たりもしたくなるってものよ」


 鼻息も荒く言い切ってウィリアムの手から日記を取り返した。

 彼は文句こそ言わなかったけどちょっと困った風に片眉を上げる。


「さあ~て日記? 今すぐ私と二人きりでじっくりとっくりた~っぷりお話をしましょうねえ~?」

「わ、わあ~君と二人きりだなんてすっごくドキドキしちゃうよ~!」


 分厚いくせに日記ってば、目を泳がせて実に薄っぺら~い笑みを浮かべた。

 傍ではニコルちゃんが羨ましげな目を日記に向けていたけど、そこには触れず日記を小脇に抱えると彼女に退室を断って廊下へと出る。

 離れに戻らないとね。

 ゆっくり話をするならあそこが最適だもの。


「アイリス待ってくれ。俺も日記と話がしたいんだが、同席は駄目か?」

「ウィリアム。ええと……後でじゃ駄目? そのね、もしかしたらこいつの中に私達の重要なヒントがあるかもしれないのよ。でも他の人に見せるのはちょっとアレだし、だから何かわかればあなたにも教えるから、あなたの話は確認してからでもいい?」


 転生云々なんて書かれているはずもなかったけど、適当な誤魔化しを口にしてそそくさと離れようとすれば彼は私の腕を捕まえた。納得しなかったのかも。まだ日記との話を聞かれるわけにはいかないからどうしようなんて思っていたら、予想外にも彼は私が足を止めただけで良しとしたのかあっさり手を離してくれた。


「その魔法の日記は単なる愚痴り相手ってわけじゃないだろう? 君は何も言ってはくれないが君の転生に関わっているんだろう、違うか?」

「えっ、その、ええっと~……」


 察しの良さには恐れ入る。

 彼の長い脚で一歩を詰められればもう距離はゼロ。他者に聞かれないように声を潜め私の耳元へとやや身を屈めたウィリアムに内心ドギマギしつつも、囁かれた内容にぎくりとして思い切り挙動不審になっちゃったわよ。

 ど、どうしよう。私の独断で下手な返答をするわけにもいかないし……。


「アイリス、ボクならバレても大丈夫だよ~」

「ええっいいの!?」


 終始お気楽呑気な口調で日記から声が上がった直後。


「「「「ああああーーーーッッ!」」」」

「こ、今度は何!?」


 悲鳴というか絶叫というか、非難の色の濃い大声を上げたのは、タイミング悪くも本邸に戻ってきたニコルちゃん付きのメイド達だった。ムンク顔になるのも致し方ない。傍から見ればウィリアムから睦言でも囁かれているような図だもの。しかも廊下の真ん中で。しかもニコルちゃんの部屋のすぐ傍で。

 またか……と内心辟易としているとウィリアムから手を取られた。


「行こうアイリス。――これ以上俺達の邪魔はするな」


 強くはなかったけど歩き出しちゃうくらいの強さで引かれた。

 彼から冷たく固く釘を刺されたメイド達は息を呑んでいる。

 その様を置き去りに廊下を進んで突き当たった角を曲がった。ウィリアムの不興を買いたくなかったのか追いかけては来なかったけどちょっとお気の毒様よね。


 やっぱりこの人って日記の通り容赦なく冷淡なんだ。


 何度かそんな場面には遭遇したけど葵だってわかってからは初めてで、それが彼をどこか知らない人みたいに感じさせた。


 仄かな戸惑いの渦中の私はちょうど良い言葉が見当たらず無言で、かと言って向こうから話を振ってくるでもなく、更には空気を読んでか日記も何も発さず廊下や階段そして屋外を戻る間会話なんてなかった。誰もがひたすら黙っていた。

 正直間が持たないかと思いきやそんな事はなかったけどね。


 だって手を握る強さも引く強さも温もりもとても自然で、引かれて腕を張る具合も何もかもが懐かしくお互いに程度をわかり切っていた。


 照れ臭いのに心地良い、だけどちょっと切なく苦い、流れていたのはそんな沈黙だった。

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