序章・一/祈りの世界 その4

「言葉が話せないのか。それとも怯えているのか――まあいい」

 男は泰然とした動作でしゃがんだ。次いで遠慮会釈もなしに手を伸ばし、泥のついたかがりの金髪に指を絡める。びくりと震えて後ずさろうとした瞬間、彼の掌から温かな霊氣が流れ込んでくるのを感じて動きを止めた。身体を苛んでいた疼痛が、すぅっと消えていった。

「霊氣はそれ自体が治癒の効能を持っている。ひとまずの応急手当てだ」

 かがりは何も云えない。これほど優しい霊氣を感じたのは久しぶりだった。そう、本当に久しぶりだ。まるでかがりの母親のそれのように包容力のある、慈悲深い色の霊氣――

「――貴様ぁ! いったい何者だ!」

 男が立ち上がった。彼は意図の読みにくい無表情をてんに向ける。

「俺はかみさい。そう云うお前らは何者だ」

「見てわからんのか! このえいりんとうの支配者、てん様に決まっておるだろう!」

「ではてん様、この少女を傷つけたのはお前たちか」

「だったらどうした! 変態に文句を云われる筋合いはないぞ!」

「俺も鬼ではない。お前らが誠心を尽くして謝罪をし、且つこの少女が『許す』と云うならば何もしない。だがそうでないのならばお前らを殺す必要がある」

 かがりはぎょっとした。「殺す」という言葉に冗談の色が見えなかったからだ。

 てんどもは「ぐわははは」と愉快そうに笑った。

「冗談は服を着てからにしろ!――おい、やつをバラバラ死体にしようではないか!」

「名案だな! 死ねい野人ッ!」

 てんが飛翔した。荒れ狂う暴風をまといながら音の速度で迫りくる。しかし全裸の奇人は微動だにしなかった。かわりに何かの煉術が発動する気配、どこからともなく湧いて出た白い霞が男の裸体を包み込んだ。いくらもしないうちに霞は晴れてしまったが、顕になった彼の風体を見てかがりは目を丸くした。いつの間にか白い道服を身につけていたのだ。

「ぐわはははは! 服を着たから何だというのだ!」

 てんどもは勝利を確信したように口端を歪めて腰の脇差を抜いた。きらりと光った剣筋が男の首を両側から狙い――金属と金属がぶつかるような、甲高い音が響いた。

てんどもが驚愕に目を見開く。かがりも言葉を失った。

 男は敵の攻撃を素手で防いでいた。人差し指と中指で、刃を挟み込むようにして。

「う、動かねえ! 貴様、どんな術を使いやがった!?」

「術など使っていない。お前の攻撃がお粗末なだけだ」

「そ――そんな莫迦な話があるかあああっ!」

 ぱきり、と二つの刃が折れた。

 てんどもはこめかみから冷や汗を垂らして高速で後退する。その相貌には戸惑いや恐怖といった感情がありありと浮かんでいた。それはえいりんとうの人間がしばしば浮かべる表情によく似ていた。――すなわち、強者に相対したときの、虐げられる側の弱者の表情。

「き、貴様! てんに逆らって……命があると思うなよっ!」

「そうじゃそうじゃ! 昏武くらぶ様が黙ってはおらんぞ!」

「構わんさ」

 男がさらに煉術を発動させた。やがて煉氣をまき散らしながら彼の掌中に納まったのは抜き身の刀である。刃長は二尺と少し、美しい反りが目を引く神州刀。それをてんどもに向けながら、彼は淡々と呟く。

「神代に回帰せよ」

 ひゅん、と、軽い動作で刀身が振られた。

 切っ先が描いた軌跡から炎がほとばしったように見えた。

 直後、てんがいたはずの場所ですさまじい煉氣爆発が巻き起こる。天地が逆転したかと思うほどの衝撃。かがりは爆風に吹き飛ばされまいと祠にしがみつき、きゅっと目を瞑った。

 あの男は何者なのだろう。

 どうして赤子の手を捻るが如くてんを圧倒できるのだろう。

 頭の中を埋め尽くすのは無量無数の疑問符だった。

 夢見心地で爆風をやり過ごしていると、やがて周囲に静寂が戻ってくる。

 かがりはゆっくりと目を開けた。視界に映ったのは焼け野原と化した林の光景である。草木は黒々と焦げ上がり、もはやそこに何があったのかもわからぬ有様だった。てんの姿は忽然と消えている。爆発によって跡形もなく消し飛んでしまったのだろうか。

「――間一髪だったな」

 その焼け野原の中央に屹立していた男が、こちらを振り返って笑みを浮かべた。かがりはよろよろと立ち上がる。不思議なことに痛みはすっかり消えていた。

てんのことは後で詳しく聞こう――いやそれにしても、よくぞ俺の気配に気づいてくれた。あまりにも長時間放置されているもんだから、このまま仙界で朽ち果てるものとばかり思っていたが、世の中まだまだ捨てたものではないな。きみのような佳人に起こしてもらえるなんて――ん? ところで先ほどから黙っているがどうしたんだ? まだ身体が痛むのか?」

 そうではない。目の前の相手が何をしゃべっているのか全然理解できなかったのだ。

 かがりは、頭の中に浮かんだ疑問を、素直に口に出していた。

「あんた……何なの?」

「自己紹介が遅れてすまない。俺は文化省CCC開発局特殊災害対策課・第一隊隊長、かみさい。保有するOLI因子は《仙人の深層因子・はん-えんていしんのう》、《天子の特殊因子》――」

 そこで彼は困ったように頰を搔いた。かがりの顔に理解の色が見えなかったからだろう。

「……ええと、今は何年だ?」

 かがりは眉をひそめる。

「三年よ。四十一代の三年。それがどうかした?」

「すまん、西暦で教えてくれないか」

 思わず首を傾げてしまう。西暦とは神代の世界で使われていた古い紀年法のことだ。人寇大戦が二〇〇〇年とかそのくらいだったはずだから、今はたぶん――

「三〇〇〇ちょっと、かな」

「…………そうか」

 一瞬、男の顔が引きつった気がした。しかしそれは本当に一瞬のことであり、彼はすぐに微笑を浮かべると、傲岸不遜な態度でこうのたまうのだった。

「自己紹介を訂正しよう。我が名はかみさい。世の有象無象はほう寿じゆせいとも呼ぶ。薬を司る古代の神であり、俗世から逸脱したてんじようきゆうの仙人であり、はるか昔に自らを封印したさいの覇者でもある。よろしく頼もう」

 差し伸べられた手を、かがりは見下ろすことしかできない。こんなれつな男に易々と気を許せるはずもなかった。――だが、なぜだろう。この男からは妙に懐かしいにおいがする。それは、心をかき乱すような、本能を刺激するような、どうしようもなく郷愁的なにおい。

 天をく炎のにおいだ。

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