序章・一/祈りの世界 その3

 どこをどう走ったのか判然としないが、辛くも村人たちの魔手から逃げおおせたらしい。

 おうせんの外、整備されていない獣道が延々と続くような、人気のない寂しい場所だ。

 かがりは大きく息を吐くと、藪に引き裂かれて傷だらけになった肌をいたわりつつ近くの倒木に腰をおろす。そうしてはっとする。道の向こうに地平線が見えるのだ。墨をぶちまけたような黒い大地と、夕焼けの紅色に染まった大空が、一本の線でくっきりと両断されている。

 ひぐらしの声を聞きながら、かがりはしばし万感の思いでその光景を見つめていた。

「……どうしよう」

 ぽつりと漏れ出たのは、掠れきった声だった。

 家は燃えた。持ち物もない。残された道は野垂れ死にくらいか。無様に死ぬのも悪くない、

 そんなふうに自嘲的な笑みを浮かべたとき、ふと妖氣を感じてかがりは身を強張らせた。地平線の向こう、ゆったりと流れる紅色の雲の中に、悠々と空を飛ぶ人影が見える。

てん……!)

 かがりは慌てて近くの岩陰に身を隠す。黄昏時になると、やつらはえいりんとうしようかいをする。

 人間がてんに隠れて〝悪さ〟をしていないか見張っているのだ。なんたる不運。人間に追い回された挙句、てんと遭遇してしまうなんて。いや、隠れていれば難を逃れることも――だめだ、こっちに来ている。

 化け物どもは風のような速度で近づいてくる。

 なぜ、どうして。――かがりは気づけなかった。狐耳が岩から飛び出していたことに。

「ぐわははは! なんだこやつは! おうせんで忌み嫌われている狐ではないか!」

 こうしようとともにてんが大地に降り立った。気配は二つ。もはや隠れていても意味はないと悟ったかがりは脇目も振らずに走り出した。しかし木の根に躓いて転んでしまう。しかも足首を捻った。立てない。なんて間抜けなんだろう、かがりは泣きそうになってしまった。

「どうする? てん法によれば日没後に出歩いている者は殺してよいことになっているが」

「珍しい狐の尻尾だ、昏武くらぶ様に献上するのがよかろう!」

「だな! 殺してから剝ぎ取ろうではないか」

 背後で恐ろしい会話が交わされている。かがりは木に手をついてなんとか立ち上がった。逃げなければ殺されてしまう――その一心でひたすら足を動かす。

「どこへ行くのだ狐め!」

 にわかにすさまじい風が吹いた。

 次の瞬間、てんの放った鎌鼬の妖術が、近くの木を真っ二つに両断した。巻き起こった突風に耐えきれず、かがりはその場に倒れ込んでしまう。

「逃げろ逃げろ、たまには狩りに興じるのも悪くない!」

「 狐狩りじゃ! ほぅれ、儂らを楽しませてみろい!」

 ふざけてやがる――かがりは沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。助かる道は残されていない。ならば無様に逃げ回っても意味はない。――そうだ、ここで世界を壊すための第一歩を踏

み出そう。この島に悲劇をもたらした化け物どもに、一矢報いてやろう。

 かがりは足の痛みを堪えて這い上がる。木の枝を力任せに折って剣のかわりにする。

 切っ先を向けられたてんどもが面白そうに頰を歪めた。

「なんだ? 抵抗する気かえ? 狐の分際で!」

「……そうよ。これからお前らをぶっ殺してやるわ」

「やれるものならやってみろッ!」

 一匹のてんが大地を蹴った。恐ろしい形相で近づいてくる化け物の気迫に尻込みしそうになったが意志の力で身体の震えをねじ伏せる。かがりとて日々を無為に過ごしていたわけではない。命融神社に伝わる剣技――〝えんねつてんりゆう〟。幼い頃に母親から教えを受けて以来、鍛錬を欠かした日はなかった。神社を追い出されて以降は独学になってしまったが、日頃から戦いの感覚は研ぎ澄ませているつもりだ。炎熱熾天流はすべてを焼き払う炎の流派、これまで学んできたことを発揮すればてんが相手でもすぐさま殺されるようなことは――、

「うぐっ、!?」

 気づけばてんの掌打がお腹に突き刺さっていた。ぽろりと枝が手から落ち、かがりはもんどり打って土の上に伏した。内臓をかき乱されるような感覚、次いですさまじい痛みと吐き気を覚えてのたうち回る。――全然見えなかった。熾天流が通用しない。私じゃ勝てない、

「ぐわははは! 口ほどにもないな、狐!」

「こ、このっ……、……、!!」

 声が出ない。立ち上がることもできない。敵はずんずんと近づいてくる。とにかく武器だけは確保しよう――そう思って伸ばした右手を突然下駄で踏みつけられ、涙がこぼれた。

「脆いな! 貴様もこうの端くれならもう少し根性を見せたらどうだ!」

「ふん、期待するだけ無駄だぞ! こやつは人から石を投げられてもろくに抵抗しない屑だそうだ! 何のために生きているかわからんな!」

 唐突に放たれた蹴りが下腹部に直撃した。口から血をまき散らしながら地面をごろごろと転がり、草の上に積み上げられていた石に背中をぶつけてようやく停止した。全身が焼けるように痛む。いくつか骨が砕けたのかもしれない。

 今日は踏んだり蹴ったりだ。――いや、今日ばかりじゃない。熾天寺かがりの人生は、生まれてから今日にいたるまで、どうしようもないほど不幸に満ちていた。

「ぐわははは! 見ろ、まりのように吹っ飛んだぞ!」

「蹴鞠じゃ! 蹴鞠大会じゃ!」

「よゥし、どちらが遠くまで飛ばせるか勝負じゃ! 負けたら坊主な!」

 気がふれそうだった。何故自分がこれほどの目に遭わなければならないのか――わかっている。天の神様がそうなるよう仕向けたからだ。

 この世の悪意を一身に受けてきた、とまでは云わない。

 神様は莫迦らしいくらいに残酷だ。熾天寺かがりに匹敵する不幸な境遇の持ち主など浮塊の下を見れば星の数ほど存在するはずである。巫女の占いでも出るのは〝凶〟ばかり、天下は目を覆いたくなるような悲劇に満ち溢れていた。むしろ自分なんて、この三年間、迫害されながらも辛うじて生活できていたぶんだけマシな部類なのだろう。

 だが、こういう不幸が当然のように存在していること自体がおかしい。間違っている。こんな世界は壊れてしまえばいい。人の運命を弄ぶ神など滅んでしまえばいい。

 てんどもが近づいてくる。怖かった。恐ろしかった。卑劣なこうに怯えることしかできない自分が情けなかった。なんとか逃げ出そうとして全身に力を込める。しかし半身を起こすことすらできず、再び崩れ落ちて仰向けに倒れ込んでしまう。

 そうしてふと気がついた。見覚えのある祠がそこに鎮座していたのだ。

 先ほど自分が背中をぶつけたのは、かがりが毎朝拝んでいる石の祠だったらしい。

(……ほう寿じゆせい様)

 このウスノロ守り神は何をやっているのだろう。今年が復活する年なのだろうに。

 こちとら毎日わざわざ参拝してやっているんだぞ、島民がこんなにも悲しい思いをしているんだぞ。少しはご利益を寄越したらどうなんだ、この阿呆仙人が。

(助けてよ。えいりんとうの守り神なら、私を救ってよ……ほう寿じゆせい様……)

 かがりは祠に手を伸ばす。意味のある行動ではなかった。

 祈りが届かぬことは百も承知。そもそもほう寿じゆせいなんて存在しないのだ。島の連中は口を揃えて「ほう寿じゆせい様、ほう寿じゆせい様」と唱えるが、そんなものは自らの心を落ち着けるためのお題目にすぎない。ほう寿じゆせいが本当にいると思っている人間など十人に一人もいないだろう。

 結局、熾天寺かがりの命はここで尽きる運命なのだ――

 そんなふうに諦めかけていたとき、

〈力が欲しいか〉

 頭に声が響いた。男の声である。

〈力が欲しいかと聞いている〉

 かがりは乾いた笑いを漏らした。死に際になって幻聴が聞こえてきたらしい。

 力が欲しいかだって?――欲しいに決まっているではないか。てんどもを蹴散らし、この世界を真っ平らにしてやれるだけの絶大な力が欲しい。

〈俺はかみさい。またの名をほう寿じゆせいという〉

 莫迦げている。やはり幻聴だ。

〈おい、聞こえているのか。まさか死んだわけじゃないだろうな〉

「……わた、しは、」

 げほげほと咳が漏れた。かがりは必死になって声を振り絞る。

〈生きているな。もう一度聞こう――力が欲しいか〉

「私は……、」わけがわからない。しかしかがりは藁にも縋る思いで叫んだ。「……私は、こうを倒したい……! だから力が欲しい……! ほう寿じゆせいだかなんだか知らないけど、そこまで云うんだったら……世界をぶっ壊せるだけの、力を寄越せッ!」

〈了解した。これより封印を解除する〉

 次の瞬間――がくん!と、煉氣を根こそぎ抜かれるような衝撃に全身を揺さぶられた。

 祠の奥から膨大な閃光がばら撒かれて思わず目を瞑ってしまう。

 てんどもが「おわあ眩しぃぞぉ」と汚い悲鳴をあげている。いったい何が起こったのだろう、これが何かの罠だったら一巻の終わりだ――かがりは焦りを覚えながら、とりあえず頭だけは守ろうとその場で丸まる。

「……なん……なの……?」

 光はだんだんと弱まっていった。かがりは恐る恐る瞼を上げる。

 そこに広がっていたのは紅色の木洩れ日に彩られた林の光景。てんどもは予期せぬ事態に驚き尻餅をついている。ざまあみろ――そう思った瞬間、かがりは信じられないものを見た。全裸の男だ。

 全裸の男が腕を組んで立っているのだ。

 てんとかがりを結ぶ直線上のど真ん中。まるで「初めからそこにいました」とでも云わんばかりの何食わぬ顔でこちらを見下ろしている。背丈はかがりよりも頭二つぶんほど高く、年齢も一回りは上。引き締まった肉体を惜しげもなくさらけ出したその姿からは自然的な美の波動が感じられるがそんなことは果てしなくどうでもいい。夢でも見ているのだろうか。

「――怪我をしている。大丈夫か?」

 咄嗟に返答することができなかった。生まれて初めて見た異性の局部に狼狽えていたわけではない。いやそれもあるけど、いちばんの問題は男の正体がまったく摑めないということだ。

 気づいたら目の前に立っている全裸の男。てんとは別の方向性で怖かった。

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