第7話 「真っ黒なコーヒー呑めるほど俺は歳くってないの」

「へえ……」


 キディはそのコンドミニアムのエントランスに入ると、まず天井を見上げた。


「何?」

「いや、高いなあ、と思って」

「ああ、そういうとこを選んだんだ」


 ジュラはそう言いながら、奥へどんどん進んでいく。

 どう見ても家賃が自分達のフラットとは1ランク違うよな、と見渡しながらキディは思う。


「どうしたんだよ、早く来いってば」


 慌てて彼は足を進めた。


 今日なら暇だし来ないか、と誘われたのは、夕方だった。

 キディはジュラには別段強い関心がある訳ではないが、ついそれにふらふらと誘われてしまった。

 ただ、自分でもどうしてそうしてしまうのか、彼にはよく判らなかった。何となく早く家に帰るのが、嫌だったのかもしれない。

 無論、相棒が「仕事」ではない時にいない日もある。だが「仕事」で居ない時は、戻っても「絶対」居ないのだ。そういう時、彼はつい部屋に戻るのが嫌になる。


「その辺に適当にしててくれよ」


 適当に、ね。キディはそうつぶやきながら、通された部屋の中をぐるりと見渡す。

 このコンドミニアムにおけるジュラのテリトリーは、だいたい三室というところだった。入ってすぐの、キッチンのついた空間と、その奥の寝室らしい部屋と、その横にある、ぴったりと扉が閉じた部屋。


「ああ、あっちとここは別に何処行ってもいいけど、ここだけは入るなよ」


とジュラは言った。キディは笑って訊ねる。


「秘密の部屋?」

「いーや、暗室」


 ああ、とキディはうなづく。それでは当然だろう。

 キッチンのついた部屋には、壁に作りつけの本棚があった。すごいなあ、とキディはそれを見て思う。まるで本屋の様だ、と。

 この時代、地域によっては、ムジカのようにデータが全て電子化され、それが喜ばれているところもあるが、このレーゲンボーゲン星域においては、紙に印刷されたものが未だに主流だった。

 それは何百年経とうが、結局変わらないものらしい。

 場合によっては、どんな情報ソフトより、人間が直接紙を開いて必要な情報を探すことが早いこともあるのだ。

 それに加えレーゲンボーゲンの場合、居住区域である大陸以外は、全てが資源用地である。北部の居住に適さない地域には、紙の資源である木材が豊富なのだ。


「それで、ジュラが写真を撮ってるってのは、ここにあるの?」

「ああ、そこの棚」


 へ、とキディは指された棚を見て、声を上げた。

 ちょっと、なんてものじゃない。

 確かに棚の一角に過ぎないかもしれない。だけど、高い天井に続くその本棚の、何段にも渡る空間を、ぎっしりと雑誌が埋め尽くしている。


「これ全部?」

「これでも結構捨てたんだがなあ」   


 これでも、とあっさりジュラは言う。とすると、一体元はどれだけあったんだ、とキディは口をゆがめた。


「見てもいい?」

「どうぞ。そのために来たんだろ?」


 言われてキディははっとする。そういえば、そうだったのだ。

 また忘れてた、と彼は唇を噛む。


 時々、記憶が飛んだり混乱する。

 それは誰にでもあることだ、と友人のドクトルKは彼に言ったことがある。ただ自分の場合、少しその度合いが強いだけだ、と。

 それほど日常生活に支障をきたす訳ではない。ただ、しまったもののありかを忘れて探しているうちに、何を探しているか忘れて、広げた物の中で呆然としてしまうことがしばしばあるだけだった。

 相棒はまたいつものことか、と今では驚きもしない。だが当初はその様子を見て、あまりいい傾向ではない、という顔をしたものだった。

 立ち並ぶ背表紙に視線を巡らせながら、キディはその中で見知った雑誌はないか、と考える。


「へー…… 『キノ』にも載ってるんだ」

「ああ、それはここに来る前のかな」

「え?」

「いや、『キノ』ったって、星系ごとに違うだろ? 編集は」

「そういうもの?」


 キディの記憶の中にある雑誌「キノ」は、映画雑誌だった。

 千差万別の方法による、「動く画像」に関係する最新情報や、また古典的な映画テーマに関するエッセイだったり、映画を「あえて固定された画像に」置き換えるフォト・ストーリーなどが載せられていた。

 キディはその中の一冊をぺらぺらとめくる。そしてへえ、と声を上げた。


「どう?」


 軽い煙草に火を点けながら、ジュラは訪問者に向かって自分の写真の感想を訊ねる。

 キディは雑誌から眼を離さずにうなづく。


「うん、何か、すごい……」


 基本的にはモノクロームなのだろうか。そこにわざとらしい程の着色が後で加えられたような。

 しかも画面はいつも何処かぶれている。いや、ぶれている、のではなく、動いている光そのものをとらえている、と言ってもいい。

 写真の風景は主に夜だった。


「それはさ、六年前の。知ってるかい? 『空には月 分ける太陽』」

「六年前?」


 キディは頭の中で計算する。六年前、自分は……


「あ、俺その映画、知らない」

「知らないかなあ? かなり有名だよ? 製作はハリゴジャ星系だったけど、帝都付近のそのテの雑誌にも結構取り上げられたし、キネマハウスでも上映されたし」

「んー、でも俺、あまりキョーミなかったかもしれないから」


 わざと軽く、キディは返してみる。六年前では、自分には縁がなかったろう。冬の惑星にいたのだ。その六年前から、彼の記憶は始まっているのだし。

 その時今の相棒が既にそこに居たのかどうかは判らない。

 それからの六年は、良くも悪くも、自分が周囲の中で「子供」で「子猫」だった。生きてくために。それだけ。

 映画のことなど、考える余裕も無かった。


「今見られるものなら、たくさんの映画を見たいなあ」

「映画だけ?」

「え?」


 ジュラはその問いには答えずに、落ちてくる前髪をかきあげると、くわえ煙草のまま、キッチンの方へ歩き出した。ばこん、と冷蔵庫を開ける音がする。


「何か呑む? それとも、何か食う?」

「あ、別に俺は」

「泊まってくんだろ?」


 あっさりと言われて、キディは戸惑った。だがそのつもりであったことは間違いない。一人になる部屋には帰りたくないから、誘いに乗ったのだ。キディはうなづいた。


「何があるの?」

「まあ色々。ビールにワインに林檎酒に。ミルクやコーヒーも出せるよ」

「色々……」


 ぱたん、と雑誌を閉じて足元に置くと、彼はキッチンへと近づいていく。

 部屋の一角に作られたそこは、男の一人暮らしにしては、ずいぶんと片づいていた。几帳面な性格なのか、それとも普段きちんとしておく誰かが居るのか、それは判らない。

 ただ冷蔵庫から出したミルクの日付は新しかった。


「カフェオレ、もらえる?」

「ミルクでなくていいの?」


 くく、と相手は笑う。


「真っ黒なコーヒー呑めるほど俺は歳くってないの」


 ぬかせ、とジュラは今度は本格的に笑った。

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