雪の神様
@Y0HY0H
雪の神様(1話完結)
「病を治す雪とな」
「上様に
「熱海の湯は薬というが、
「
「
「嘘のような本当がこの私。
「盲が去ったというのか」
「はい」
「したが、江戸まで雪を運ぶのは難だな」
「雪は降りませぬ。男が降らせるのです」
「何者ぞ」
「
「
「それがどうして、
「何奴」
話を盗むつもりはなかったのだが、思わず息を殺していた。戸に手をかける。
「さてもさても。師匠様」
町名主の菱屋一衛門は隙間に私を認めるや慌てて
私は飯田町で商いの傍ら、手習塾を開いている。
「この座頭が妙な話をするんでさ」
幼い時分に作った句。盲に対する関心の裏には畏怖が隠れていた。盲も治す雪とは、神の仕業に違いない。
初鰹が高値をつける頃、日本橋の魚河岸には
「雪を降らせる男を知っているか」
貸本屋の丸屋十蔵を呼びつけた。貸本は本業にあらず。江戸に集まる噂で稼ぐ
「どうしてそんな話を知りたいんです?」
「幾らなら売る」
「初鰹一本」
「馬鹿をいえ」
「楽屋を話せば、津軽家
「津軽家と何の関係がある」
「
「後悔させるなよ」
「さては丸屋の初物。とくとご賞味あれ」
又兵衛は
森田座が資金不足で休座となり、
「りよ。
帰宅するや妻に尋ねた。
りよと又兵衛は雪で遊んだ幼馴染。何でも話す仲だった。
「使命をお忘れになったのですか。貴方は津軽家に仕える御絵師」
又兵衛は意外そうな顔をした。
「筆一管で勝負してみたいのだ。この江戸で。
「望みませぬ」
りよは唇を噛みしめ、大粒の涙を溜めたまま
「狩野派の絵師が浮世絵を描くのは
「それでも、やってみたいのだ」
今度はりよが意外そうな顔をした。ぱらりとした目鼻の
「貴方は本物の絵を見たことがない人に褒められて満足するの・・・」
「庶民には絵が理解できぬと言いたいのか。筆を握ったこともないお身が偉そうに何を言う」
りよを怒鳴りつけたのは初めてだった。狼狽した
「是は見事。味な絵を描くじゃねえか」
暇を見つけては芝居小屋の立見席を陣取って画帳に役者を写すのが習慣になっていた。背後に立つ
「歌麿。豊国。近頃の流行りにはない迫力がある。気に入った。どうだ。似顔絵で売り出してみねえか」
「八丁堀の町屋敷に部屋が空いている。画室にどうだ。芝居小屋ならどこの桟敷でどれだけ観たって構わねえ」
「
「詮索はしねえ。斎藤十郎兵衛の名を使え。
又兵衛は身を打って描いた。長く内を外にした。
「殿の
我に返った。過ちの大きさに愕然とした。
「
「血迷ったか。お主も
「すべては
「あなた、もしかして、
「人を救うってのはどんな気分だ?」
「救ってなどいない」
「あれは人棄ての山だ。
「よかった」男は初めて微笑んだ。「妻を探している」柳行李から鮮やかな
「美しい人だな」
「そうだろう」
「お前が描いたのか?」
「そうだ」
「お手を頂いた」と声を震わせながら立った。
「急ぐことはない。あんたは恩人だ」
「じきに追い出すさ」
「何故」
「稲が死んでしまう」
「どうせ死にかけた村だった」
「随分と山を歩いた。
今村又兵衛が雪神だという。十蔵の見立てだ。
興味を持った私は遊歴を思い立った。
山東京伝が 生業の煙草屋で売る「
「薬といやあ、雪神の噂はご存知で?」
江尻宿の
「ふけた女房を探しているとか」
「ある
「出会ったのか」
「それが
又兵衛は覇気なく山道に足を引きずった。深緑の葉に淡い雪が重なっては消えていく。作りたての岩絵具のような匂い。山の生命が放つ濃厚な空気。音が近づく。滝の音だ。
「りよ。りよではないか」
何故、今なのだ。
茶屋の陰に佇む
雪がやんだ。
擦り切れた
「貴方は誰」
「何を言う。お身の夫ではないか」
「わたくしは後桜町上皇に仕える歌人。衛門姫と申します。貴方のことは存じ上げませぬ」
りよは又兵衛の両手を払い、茶屋の奥へ消えた。
「病じゃ」
塩辛声の僧侶が慰めた。
「何の」
「
又兵衛は天を仰いだ。
「我が身を去った雪の神よ。もう戻るでないぞ。
雪神と呼ばれた男が雪を降らせることは、もう、なかった。
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