栄光の喪失

雨宮吾子

栄光の喪失

 ……未だ浅い夜の虚空に一点の月が輝いている。その夜空の漆黒は、どこか月を発端としているようでもあり、また同時に月を中心に据えているものこそがその漆の黒のようでもある。光沢のある空は身の内に光を受け止めるだけの度量があり、月こそがその象徴なのであった。その調和は、しかし崩れつつあった。月が帯びる白銀から剥がれ落ちた雪が、漆の黒を横切るようにして乾燥した大地を覆いつつある。調和の転覆が果たされるか否かというまさにその瞬間、芽生えたものがあった。大地に咲き誇る花、赤い華であった。……

 静かな夜である。雪の運動が全ての雑音を遮っているのであろうと、男はやはり空虚な頭で考えた。冷たく澄んだ空気に耳朶が痛む。そのくせ、黒いコートの中には少なからず熱がこもっている。いつから歩いているのだろう、何も覚えてはいない。足の裏の痛みと慣れない雪道を行く疲労が、随分と長く歩いて来たことを示していた。

 雪の上に残る足跡は四つある。男に従うようにしながらも一定の距離を置いて付いて来る女は、口をつぐんで俯いていた。白い肌と黒い長髪は、まるで今日の夜空を反映しているかのようでもあった。男はそこに調和を見たが、コートの鮮やかな赤は内面の奔放さの顕れのようにも思えた。赤い花の草臥れた萌しが、コートの中に押し込まれている。果たして女は真に人間なのだろうか、そんなことを感じさせる何かがある。どこか宇宙の果てからやって来た恐怖が、男の脳裏を貫いたのかもしれない。男は思った。自分は、先程まで空を見上げていたのではなかったか?

 しかし男は我に返って道を歩き続ける。忘我の最中にあっても歩みを止めることのなかった自分こそが、何か人ならぬ者なのではないかという滑稽な疑念を抱きながら。男はその歩みを可能にしたある一つの理由に思い至った。この世界には人の気配がないのだ。たとえ姿が見えなくとも、そこに人がいれば気配が生まれる。家に明かりが灯り、食卓を囲む家族の笑い声が漏れてくる。それが今日はまるで感じられないのだ。エアコンの室外機が動く気配もなければ、自動車の走る気配すらもなかった。虚空を貫く救急車のサイレン、甲高い鐘の音を撒き散らす消防車、それらの否応なしに死の在ることを思い起こさせる忌まわしい音を、今日は聞かされることもないだろう。思えば、死というものはどこへ行ってしまったのだろう。都会は死の臭いがしない代わりに、生の臭いもしなかった。男は、生と死に感興を抱いていた。

 果てのない静かな時間の只中に浮遊していることで、何かが忘れ去られていくような気がした。

 男はそれを喪失した!

 この道のどこまでも続くことや、どこまでもこの道を歩いて来たことばかりが不安を煽るのではない。男は自分がそれを喪失してしまったことが恐ろしかったのだ。何を喪失したのか、まるで分からない。それすらも忘れてしまったのだ。忘れまいと思えば思うほど、決定的な喪失が心を浸していくのが分かった。ふと立ち止まって振り向けば、四つの足跡が雪道に残っている。間違いなくそこを歩いてきたはずなのに、その実感が男にはなかった。

 どんよりとした夜空を戴いている今では、生まれ育ったこの街が地獄の底と化してしまったかのように思えた。男が悩み苦しむのも構わずに時の運行は続いている。それは深海の静かな底流のように、終着のある一点へ向けて気付かぬうちに進行しているのだ。それがどこなのか、そしていつなのか、男がそれを知る由もなかった。

 男は何か世界の振動したことに気付いて思考を中断した。再び振り向けば、後ろを歩いている女が不思議に笑っていた。

「どこへ行くの」

 男は女の声音に快いものを感じた。月の光に照らされた細雪のような白くきめ細かい肌と、憂いを湛えた切れ長の鋭い眼差しに、唇の強い紅がよく映えている。豊饒な和音によって構成された、実に立派な女だった。一吹きの風が運んでくるものは、どこまでも乾燥した匂いだ。まずまずの背丈があり、同じ高さで視線がぶつかる。男はそのことが妙に嬉しかった。

 俄かに気分を良くした男は、その心情の変化の原因に触れようともせずに余裕のある素振りで答えた。

「寒くはないか」

「寒くはないの。ただ、何もないの、何も」

 男は女の口元を注視した。唇の動きに伴って整った表情の調和が崩れるとき、紅の勝ち過ぎる瞬間に淡い感情の趣きが浮かび上がるのが、顔の妖しさを引き立てていた。視線を転じれば、女の長い黒髪に小さな雪の破片がまとわり付いている。男はそのことにどうしてだか言い知れぬ嫉妬心をかきたてられたが、そうやって気持ちの変遷を重ねていくうちに、その遠心力によってある疑念を感じるところに至った。どうしてこんな女と連れ立って歩いているのだろうかということについて。きっと、その無機質な煌めきに惹かれて誘ったのだろうと男は考えた。欠落した記憶の、どんよりとした静けさの中に立つ女は、どこか恐ろしさを感じさせもした。

 男は回り道を経て、女に言葉を返した。

「何もないというのは」

「何もないの、記憶すらも」

「……それはどういうことだ」

 女にも記憶がないとすれば、二人とも酒に酔っているのではないかという新たな疑念が生じた。しかし、冷気に晒された頭の動きは研ぎ澄まされているから、そんなことを考えるのが既に矛盾だった。女にも酩酊した様子はない。それなのにどうしても思い出せない。分からないことは考えてもしょうがないのだろうか、と男は半ば諦めた。

 すると自分では不思議に何もかもを投げ捨てたかのような気持ちになって、その気分に倣って軽い言葉を投げかけた。

「どこに行きたい」

「どこへでも」

 男の意識は次第にはっきりとしてきた。思えば、見慣れた街並みであるし、見慣れた通りでもあるし、見慣れた家々でもある……。この道をまっすぐに進めば、男の住まう家があった。誘えば女も躊躇しないことは明らかだった。考える間にも雪の一片一片が宙を待っている。あの雪のように器用に舞い踊ることが、果たして出来るだろうか?

 最早言うまでもなく、男は女に見惚れていた。

「僕の家へ行こう。炎に身体を捧げて骨を温めるんだ」

「そんなこと、私にはできない」

「冗談だよ。しかし寒いだろう、このままでは」

 女は内なる奔放さを抑えきれないといった様子で頷いた。男が黒い革の手袋をはめた左手を女に差し出す。瞬間、女は瞳を虚ろにして再び歩き始めた。

 無視された形になった男は、それでも気を悪くすることなく女の後を追った。追い越して、それが自然であるかのように女の前に立って歩いた。最初から全てが上手くいくとは男も考えてはいなかったが、同時に最終的に上手くやれるという気持ちもあった。男の内耳は欲望の囁きに満ちている。そのために、女の無為に見える様子が際立った。

 それから二人はしばらく口を利かなかった。元より、男が声をかけなければ女は口を開こうともしない。そうした沈黙は心地の良いものではなかったが、勝手の悪い沈黙でもなかった。雪のためか女の歩みはぎこちなく、一つの自我を持った人間のそれとはとても思えなかった。果たして、女は本当に思考する人間なのだろうか? もしそうでないとすれば……、というところまで考えて男は自分の思考に幼稚なものを感じて、振りほどいた。

「雪には慣れていないみたいだね」

「いいえ、慣れっこ」

「ふうん。そうやって歩くのを見ているととてもそうは思えないけどね」

 男がそう言うと、女は不思議に微笑んだ。男はその相貌を見て、女が本物ではない、人間ではない何者かであることを確信した。

 その微笑みが、あまりにも有り難く感じられたから。

「私の身体は生きていないから」

「どういう意味だ」

 珍しく女が口火を切ったので男はその言葉に囚らえられた。

「私は身体で生きていないから」

「すると、観念で生きているとでも言いたいのか」

 女は黙って頷いた。もしそれが本当だとするなら、女の不得要領な様子も理解できるというものだった。女は自分の世界で生きている。自分の内側の世界に浸り過ぎていて、現実に生きることは得意ではないと言っているのだ。観念で生きるには、自分自身の理屈や理論というものがあれば事足りる。たったそれだけの資源が、無限の発展を、この上ない快楽を生み出すのだ。

 何故、男がそれを容易く理解できたかというと、男が亡くした家族は皆が皆、観念というものの奴隷だったためだ。男自身もそうした観念の虜にされていたためだ。

「君の観念というのはどんなものなんだ」

「それは教えられないの、堪忍して」

「堪忍じゃなくて、観念を教えてくれと言っているんだ」

「だって、それを教えては生きてはいけないから」

 女がくすくすと笑った。流石に苛立って女を振り向いた男は驚かされた。女の目が真剣そのものだったのだ。

「私は、観念そのものだから」






 落ち着いた色調の中に鼠色の古いアパートが佇んでいる。名を三月荘という。錆びた階段を上り、薄い扉を開ける。黒いコートに纏わり付いた雪を振りほどくと、男は居間に入って卓の手前、電気ストーブから離れた側に座った。女がその反対側に座り、黙ったまま赤いコートを脱ぐと、柔らかく豊かな線が露わになった。期待に胸が膨らんだが、同時に女の雪のように白い肌がストーブの熱に溶かされはしないかと、男は俄かに心配になった。それこそが死を切望する男の、死に対する鋭い嗅覚だった。死の匂いだけでも味わうことができるなら、あの天上の月に手をかけてしまうことすらあり得た。

「ああ、暖かい」

 安堵を含んだ女の声を聞いて、男は少しばかり失望した。筋肉の緊張からは次の瞬間にどう変質するか分からない状況が連想されるが、女の危うさはそれと全く同質だったはずだ。女は張り詰めた糸に操られる人形のように存在していなければならなかった。雪道を歩く間に、男はそう信じ込んでいたのだ。

 男は悪い観念を振り払って立ち上がり、冷蔵庫の中を覗くと女にこう言った。

「何か食べたいならカレーライスとサラダがある。残念だけど君の大好きな真赤な色をしたトマトはないけどね」

「どうして?」

「僕はトマトが苦手なんだ。どうも、血の色に似たあの果実がね。君にも好き嫌いはあるだろう」

「さあ、何も覚えていないから」

 女がいつまでもそんなことを言っているのが急に腹立たしくなって、男は黙って食事の支度を始めた。男もどこでどうしてこの女と出会ったのかよく覚えていないが、そんなことはもうどうでも良かった。肝心なのはこの先の事、二人の歩んできた道が交わるかどうか、それだけなのだから。

 それにしても思った以上に食えない女だった。自然にやっているのか、意図的にやっているのか、まるで掴みどころがない。どちらにせよ、奇妙な女だということに変わりはなかった。あの雪の中で抱いた観念、女が人間以外の何者かだという観念は、この暖かい家に帰ってきたことで溶けきってしまった。そのような非現実よりも、豊かな線を持った肉体という現実を男は信じたくなった。今は内なる欲望だけが強く声を上げている。

 男が食事の準備を進めている間、不思議なくらいに静かな時間が流れた。女は何かに魅了されているかのように窓外を見つめていた。サラダを卓に運ぶときに男もちらりと外の様子を眺めると、曇天の向こうのぼんやりとした月明かりが目についた。男はその絹に包まれた狂気の象徴に死の横顔を見た。募る雪は葬列の体を成していた。

「綺麗だな」

「えっ?」

「この景色だよ。この窓から見えるものは、くすんだ汚れの澱んだ、どうしようもないものばかりだと思っていた。でもそうじゃなかった。何か、妙な気分になったよ」

 男はそう言うと二人分のカレーライスを卓に置いて座った。女は催眠からでも目覚めたかのような仕草で、男の方に向き直った。

「腹が減っていないなら無理に食べる必要はないけど……」

 男は未だどこかで女の拒絶を求めていた。ここで女が食事を口に運んだなら、彼女は天上の人ではなくなる。当たり前の人間と変わらないことになるのだ。

 女はその期待を裏切ってカレーライスを一口食べた。動作や表情こそ無機質だったものの、そこに生物としての卑しさがあった。女は食事もすれば排泄もする、ごく普通の人間だった。

「美味しい?」

「今まで食べた中で一番美味しい」

 呪いが解けてしまった今では、女の口にする言葉や仕草、瞳の動きや艶やかな長髪や口元の紅、その一つ一つが平凡なものに感じられるようになった。しかし一方で、男の胸に渦巻く期待がいよいよ形を成してきてもいた。食事も排泄もできるなら、きっと何だってできるだろうから。

 それから二人は黙々と食事を進めた。男は女のことを何も知らなかったから共通点を探しながら会話をすることもできたが、女の方にそれを求めている気配がなかった。一体、この女は何を考えているのだろう。

 食事を終え、食器を洗って片付ける。その一連の作業が終わった後に待っていたものもまた沈黙だった。女は先程までのようにぼんやりとした月明かりを眺めていたし、男は女の端正な横顔をじっと見つめていた。女は見つめられていることを意に介していないようだった。男は、自分の無力を知った。

「何か、趣味はあるかい」

 今になってそんなことを尋ねるのも滑稽に思えたが、この沈黙をいつまでも続ける苦痛よりはずっとましだった。女はしばらく外を眺めたままでいたが、やがて男に顔を向けると、

「さあ、もう忘れた」

 とだけ言った。それから男は、女の年齢や仕事や家族構成、恋人の有無まで訊いてみたけれども、全て曖昧な答えが帰ってくるばかりだった。ここに至って男は後悔をし始めていた。今まで女の無為を神秘的なものと勘違いしていたのだが、それは知性的に劣っていることの証明なのではないか、と。そうなるとこの女を欲望を満たすための相手として見ることはできなくなってきた。女を蔑みや哀れみといった感情でしか捉えられず、同時に自分を一段高い知性的な存在と考え、卑しい者と交わることを忌避する気持ちが芽生えてきたのだ。

 女はたしかに好ましい。だが、その肉体には病菌が宿っている。今ではそんな観念が男の頭の中を占めていた。観念の奴隷である男にとって、それに逆らって肉体的欲望を満たすことはできなかった。

 それまで気持ちが前のめりになっていたところから一歩退いたおかげか、今度は余裕を持って女の姿を眺めることができた。すると、女が卓上に置いている右手に、金色の指環が光っているのが目についた。男はそれが誰か別の男からの贈り物だろうと、根拠もなしに決めつけた。どうせ訊いたところで覚えていないだろうから、そう解釈したところで問題はないだろう、と。男の気持ちは完全に別のところへ動いてしまった。

 咳払いをして男が立ち上がると、女はゆっくりと見上げてきた。そこに感情を認めることはできなかった。

「送るよ」

 男が自分のコートを着ようとしているところへ女の手が伸びてきた。卓の向こう側に座っていた女が、いつの間にか男の手を掴める位置にまで来ていたのだ。黒いコートがばさりと落ちた。一瞬の沈黙の後、男はそっと女の背中に手を回して自分の方へ引き寄せてみた。それに応じるようにして女も男の背中に手を回した。

 二人の間に交わされた言葉はない。

 男はまず肉体の感覚に圧倒され、続いて長い黒髪の芳ばしさに酔った。身動きしようとする心に身体がついてこなかった。手を動かそうとしても首を回そうとしても無駄だった。感覚がようやく現実に追いついてくると、これまでになく燃え上がる何かを体内に感じた。しかし、それでもやはり身体が動かない。女もまた、金縛りにでも遭ったかのようにいつまでも男の身体を抱き続けていた。そのあまりにも長い抱擁に、男はある確信を得た。これは稚拙だ、子供のすることだ。女はその先に待つものを何も知らないのだ、と。

 その確信が男を突き動かした。空白の低地へ水が流れ落ちていくように、全ての熱情が落とし込まれていった。ゆっくりと世界が傾いていき、柔らかな大地に着地すると、白い雪道が姿を現した。覆い隠そうとする黒髪を払い除けて、しがみついたところで何かが足りないことに気が付いた。それは真赤な証だった。いよいよ傾斜を深めて、そこでふと女の顔を見れば、不釣り合いな笑みを浮かべていた。

「私を殺すつもりなのね」

 その言葉に男は拒絶反応を起こした。それは意志よりも早い直感の働きだった。女が観念そのものであるとするなら、その観念を知悉してしまったときには女を殺してしまうことになる。それでも構わないのかと、女は問うているのだ。心の扉を叩く幼い手が、瞬く間に一つ、また一つと増えていく。その手の主を見れば、死への恐怖が表情に浮かんでいた。男は逆らおうとした。しかし、逆らおうとしたものは時間であり、重力であった。最早、どうにもならない。そして、真赤な果実の弾ける音がした。






 それは、一つの頂きに達した音であった。世界の全てがその一音に凝縮されて頂点に達したとき、身体は浮遊した。どこかへ遠ざかっていく音を聴きながら、彼は無上の快楽を得た。世界の崩壊の音を聴きながら、無限の快楽を得たのである。肉体の感覚も次第に薄れつつある。骨も肉も乾いてしまい、皮の一点のみで身体の崩壊を支えているようであった。浮遊の感覚は何を連想させるのであろう。ここには音もなければ光もない。全ての判断は観念に委ねられた。

 無限の虚無は、即ち無限の可能性を意味する。ここには何もないが、ここには何もかもがあり得た。その倒錯を愛するだけの心情はまだ残っていた。やがて水を連想した。すると、そこは深海へと変質した。しかし、天地はどこにもない。宇宙よりも深い海の中を、ぼんぼりのように薄っすらとしたものが漂い始めた。それはまさしく雪であった。肉体が知覚する雪の実質が反映されているものであるらしかった。

 それ以前の記憶が蘇ってきた。最初はそれも混濁して、ちらりと窓外を眺めたときのあの月輪に、女の顔が重なって想起された。それが次第に形を整えていき、一つの生命として誕生してから鼠色のアパートで朽ち果てるまでの人生が思い出された。決して恵まれた人生ではなかったが、不幸な人生でもなかった。ただ一つ、特筆すべきことがあるとすれば、それは他人の愛情を満足に得られなかった不幸である。

 家族は緩い紐帯で繋がっていた。家族の皆が愛情を知らなかった。皆が痩せた畑を耕そうとはせず、知識や観念の城砦を築くことで安穏を得ようとした。彼の場合は芸術を愛した。しかし、理解はできなかった。それが祭壇画であれば読んだこともない聖書の韻律を聞く思いがしたし、それがクラシック音楽であれば評論家の解説のままに楽曲の真髄を弄んだ。極めつけには好きでもないチュッパチャプスを常に持ち歩いていた。男にとって大事なのは本質ではなく、その包み紙の方であった。男の本質は常に包み隠されていた。

 記憶はあるべき方向へ流れていき、あの女が恐るべき笑みを浮かべているところに行き着いた。本質を見失った男が好む女は、ただ美しければそれで良かった。そうして、恋と呼べぬ程の恋が花咲かぬまま朽ちていき、愛情というものを得られずに、それ以後の世界に足を踏み入れてしまった。

 このとき、既に実際を失った胸に去来したものは、果たして何であったか。もしそれが自己憐憫であったとすれば、そして、もしそれを自分への愛情であると信じることができたとすれば、彼は最後に愛情を得られたのであろうか。いずれにせよ、それをもたらしたものがあるとするなら、それはあの女であった。

 不意に、上昇する感覚を得た。雪の一片が頬に溶ける。無言の絹に包まれた精神がどこまでもどこまでも上昇した。どこかで何かが膨張する気配がした。真赤な血が深海に弾けた。白い雪がいつまでもいつまでも降り続いた。胎動が始まったのである。

 上昇と膨張とが頂点に達しようとしていた。精神の向かう方に、夜空に煌めく星のような光を見た。それは何かを射抜く光ではなく、何かを受容する光であった。その光を得ることは叶わないと彼は理解していた。理解、理解である。

 全てが頂点に達した瞬間、真理が栄光となって降り注いだ。それはまさしく日輪の光彩に違いなかった。世界を解きほぐす鍵をこの手にしたのである!

 かちり、と音がした。海面に浮かんだ素肌を静かに風が這い進んでいった。

 次の瞬間には全てを失っていた。一瞬の栄光が、永遠の喪失をもたらした。解きほぐされてしまった世界は、崩壊するしかないのだから。今存在しているこの世界は、旧い栄光の価値が失われた世界であった。黴だらけの栄光は四散して、同じく黴だらけの黒々とした空に溶けていくようであった。こうして新世界に生まれた新生児は、清らかなる無知を得た。新生児は本質そのものであった。とにもかくにも次の瞬間の栄光に向かって、歩みださなければならない。栄光と喪失とは、そこにある何かの、別々の側面であった。新生児は止め処なく泣き叫んだ。何か尋常ならざる悲痛をその胸に感じたのである。

 新生児の流した涙が、発した声が。空と海に溶けていく。そうして生まれたものは光であり、新生児はまさしく太陽そのものであった。いつの間にか宇宙の片隅に座らされた新生児は、淡い色彩の世界を見た。それはある斜陽の情景であるらしかった。茜に染まる空の下には、これまた空の色を映した川が流れている。その広く横たわる川の対岸に金色の指環が煌めいていた。

 それは彼岸にあって単純なものに還元された何かであった。その正体はすぐに分かった。即ち、還元されたものは世界であった。

 新生児がそれに手を伸ばすと、視界が歪んで彼岸へと引っ張られ、次の瞬間には暗黒に渦巻く星雲を見ていた。それはお男の観念と女の観念との恐るべき融合であった。

 女は一方で円環を、永遠に続く世界を望んでいながら、他方で彼岸を、世界の在り方を破壊する観念を好んでいた。完全な倒錯である。その恐るべき矛盾が、女の身の内に星雲のように渦巻いていたのである。一つの銀河が一つの観念で構成されているとするなら、それは恐ろしい考えであった。ともすると、我々はそこに生活している!

 そして、新生児が次に見たものは、未だ浅い夜の虚空に輝く一点の月であった……

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