前編<竜之介>9
私は一昼夜寝込んでいたらしい。
らしいというのは、その間のことをほとんど覚えていないからだった。
私が熱を出した時いつもそうであるように、アレクが側について看病してくれたのはかろうじて覚えている。
だけど、ミハルがいない。
ミハルが心配そうにしていると、私はがんばって元気になろうとするのだけど、今はそんな気持ちが欠片ほども湧いてこない。
最初の衝撃が過ぎれば、私はいつもミハルに抱いている感情を思い出すようになった。
ミハルはかわいくて愛しくて、大好きな私の半身だ。
けれど同時に、女の子と寝るようになった男でもある。
夢の中で何度もミハルに出会った。そのたびに私は笑顔でミハルに手を伸ばそうとして、そして顔をしかめて手を引っ込めることを繰り返した。
ミハルは一人しかいないはずなのに、私はミハルに二人の姿を見ていた。私にとって愛しくてたまらない片割れと、私の大嫌いな見知らぬ男が重なって見えた。
アレクは私に何も言わなかった。一度だけ側を離れて、誰かと電話しているのが聞こえた。
熱は午後には下がったが、私はベッドの上でぼんやりと天井を眺めていた。
アレクはミハルの部屋で何かしていて、今は私の側にいなかった。
携帯に着信があって、私はそれを取る。
「安樹。体は大丈夫か」
低く無愛想な声は竜之介だった。
普段の私なら、また私を馬鹿にするのだろうと電話を切っただろうけど、今はそんな元気もなかった。
「見舞いに行ってもいいか?」
「いらない……」
そう答えて、私は何か引っかかったのを感じて顔を上げる。
「どうしてお前が、私の体調のことを知ってるんだ?」
「さっきまで美晴が俺の家に来ていた」
竜之介の声は沈んでいて、ミハルも元気じゃないのだとわかった。
「大体何があったのかは、美晴の様子でわかった」
私は深い海の底でうずくまっているようで、ただぼんやりと言葉を聞いているだけだった。
「話しておきたいことがある」
電話口の向こうで、竜之介が苦しそうに喉を詰まらせたのがわかった。
「……美晴が手首を切った」
それを聞いた瞬間、私の胸にまぎれもない痛みが走った。
「み、ミハルが……」
「すぐに手当てをしたから命に別状はない。その後は落ち着いた」
私はベッドから起き上がって頭を押さえる。
「でも、そんな……」
「俺はこうなることが怖かった」
普段仏頂面で淡々と話す竜之介が、今日は電話を始めた時から感情を露わにしていた。
「俺にとってはお前も美晴も一点で同じだ。俺の従兄弟で、兄弟みたいなものだ。大事な家族なんだ」
いつもは全く聞き入れない竜之介の言葉が、今日はすんなりと私の中に入って来る。
「安樹。美晴と離れて暮らすことを選んでくれないか?」
竜之介は言葉が悪い奴だけど、実際に私たちを傷つけたことはなかった。
「結婚なんて言っても形だけだ。俺はお前が自由に過ごせるように最大限努力する。……お前に好きな男が出来ても、俺は止めない」
幼い頃、私はよくかっとなって竜之介に殴りかかったりしたけれど、竜之介は決してやり返したりしなかった。
――あんじゅはおんなだから。
繰り返し竜之介が呟く言葉は、ずっと私を馬鹿にしていると腹立たしかったけど、それでも私を守ろうとして言っているのは間違いなかった。
「俺のことをどう思っても構わない。俺はお前と美晴が傷つかずに生きられるのなら……お前と美晴を引き離す」
私は黙ってうつむくしかなかった。
「じゃあ、またな。体を大事にしろ」
通話が途切れてしばらく後、家のドアが開いた気配がした。
父は軽い足取りで玄関から上がって来て、明るい声で言う。
「エンジェル、調子どう? あ、寝てる」
私は部屋を覗いた父に、とっさに寝た振りをした。父はそれでそろそろと扉を閉めて、隣室に向かう。
隣室はミハルの部屋だ。そこで父がアレクと何か話しこんでいるようだった。
私はふらりとベッドを抜け出す。
ミハルの部屋では、父がアレクからトランクを渡されているところだった。
「あ、エンジェル。さっき寝た振りしたでしょ。パパにはわかるんだからねー」
父は私の姿をみとめると、すぐに悪戯っぽく笑う。
「父さん……」
私が力なく父とミハルのトランクを見比べると、彼は何でもないように手をひらひらさせる。
「ちょっと旅行。ミハイルも連れて行ってあげようと思って、荷物取りに来たの」
「旅行……」
「次はエンジェルを連れて行ってあげるから。ねっ、すねないで」
かわいく笑いながら近付いてきた父が、一瞬ミハルの姿と重なった。
反射的に私が後ずさると、父はそんな私を少しだけ悲しそうに見た。
「……エンジェル」
父はそれ以上近付いたりしなかった。腕を伸ばして、そっと私の頭に手を置く。
「僕は君を愛してる。何があってもそれは変わらない」
ぽんぽんと私の頭を叩いて、父は笑って手を離した。
「愛してるよ」
もう一度そう告げて、父はトランクを持って出て行った。
父の気配がなくなった後、私はミハルの部屋を片付けているアレクの後ろに立ち竦んでいた。
「まだ休んでいなさい。あとで果物を持って行ってあげますから」
「ミハル……手首切ったんだって?」
言ってみてから、その言葉の恐ろしさに私は震えた。
アレクは片付けの手を止めて、私に振り向く。
「どうしよう……!」
肩を震わせて立つ私の前で、アレクは立ち上がる。
「少し、話しましょうか」
アレクは私の肩を抱いて、リビングの方に向かった。
私をコタツに入れて、ホットレモンを入れて持ってくる。
私はそれに口をつけることもできずに、ずっと唇を噛みしめていた。
「美晴は前にも手首を切りかけたことがあります」
アレクの言葉に、私は顔を上げる。
「高校一年の時です。美晴が体調を崩していた頃があったでしょう?」
確かにあった。ミハルは学校を何日も休んで、たまに起きたかと思うとすぐに寝込んでしまう、そんな日々だった。
「その頃、美晴の体は成長期だったんです。背が伸びて、声も低くなって、見た目も男性らしくなってきていました」
「覚えが……あるよ」
「美晴は怯えていました。「かわいい」美晴でなくなったら、自分は安樹に嫌われてしまうのではないかと」
はっと私は息を呑む。
「食べるものも食べられずに、眠ることもうまくいかず、美晴の体も精神も弱りきってしまったんです。……ある時、カミソリを手首に当てている美晴を見ました」
思わずごくりと喉を鳴らした私に、アレクは静かに答える。
「その時は言葉を尽くしてやめさせました。それで、発声の仕方や、男っぽく見えないような仕草や服装を教えて、ひとまずは落ち着いたのです」
私はふと思い当って、アレクに問う。
「もしかして、ミハルが牛乳を飲めなかったのって……」
「その頃からです。身長が伸びると怖がって、吐いてしまっていたんです」
唇を噛む私に、アレクは続ける。
「最近、美晴の声が低くなってきていることに気付いていますか?」
「……うん」
「背も伸びているようです。最終的には、美晴はレオよりも声は低く、背も高くなるでしょうね」
私は涙を落としてうつむく。
「私がミハルを追い詰めてたなんて……」
「あなたのせいではありませんよ」
「私のせいだよ!」
「それは美晴自身の問題です」
アレクはきっぱりと言って、私の目を覗き込んだ。
「あなたと美晴は双子ですが、生まれた時から全く別の人間です。あなたに拒絶されたからといって自分の存在意義を見失うのは、ただ美晴の弱さのためです」
「でも!」
私は顔を覆う。指の隙間から涙がこぼれ落ちる。
「私はミハルが好きなのに。大切なのに。なんでミハルを傷つけるようなことしちゃったんだろう……!」
アレクは私の頭を撫でてくれた。けれど涙は止まらなかった。
ミハルが好きで、同時に嫌い。そんなどうにもできない自分の相反する感情がわからなくて、苦しくて、今は涙しか出て来ない。
「しばらくあなたたちを離れて暮らさせてみようと、レオと話をしました」
滲んだ視界の中で、アレクの眼差しが映る。
「あなたの望む美晴ではなく、自分の望む美晴の姿をあの子がみつけられるように。それで」
そっと私の頬に手を置いて、アレクは告げる。
「あなたには認めてもらいたいのです」
「認めて……?」
「安樹。ゲイではあなたの父親になれませんか」
私はすぐに首を横に振る。
「父さん以外に私の父さんはいない」
「男では母親になれませんか」
「アレクは私のお母さんだ」
「それなら」
アレクは私の目を見てその言葉を告げる。
「精神的に未熟で、けれどあなたのことが心から大切な、弱い男の子でも、あなたの兄弟だと認めてやってはくれませんか」
私は顔をぐしゃぐしゃにして泣く。
泣きながら、私は何度も頷いた。
「うん……ミハルは一人しかいない、私の兄弟だよ」
アレクはそっと私を抱きしめてくれた。
私はしゃくりあげながら、一つの決意を固めた。
部屋に戻った後、私は携帯で電話をかける。
「もしもし、安樹だ」
すぐに電話口に出た相手に、私は告げる。
「お前と婚約する。竜之介」
一瞬の沈黙の後、竜之介が頷く気配がした。
「お前がそのつもりなら、母さんもこちらについてくれるだろう。親父にこれ以上勝手はさせない」
竜之介のことはずっと天敵だと思っていたが、違う。
「俺はお前と美晴を守る」
……竜之介はいつだって、私とミハルの味方だった。
「ありがとう」
私はそう言って、私の婚約者とこれからの話を始めた。
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