前編<竜之介>7

 一瞬で私を凍らせた龍二さんは、革張りの座席に王者さながらの堂々とした風格で座っていた。

「どこへ連れて行く気ですか、私を」

 乾いた喉に声を通したから、少し掠れてしまった。

「はるかが望むならどこへでも。ただ、終わったら家に帰ろうな」

 龍二さんの声は、年の離れた妹を甘やかすような響きだった。

 私はぎっと彼を睨んで言う。

「私はあなたの家にだって行きますよ。そこにミハルがいるのなら」

「ふむ。美晴のところに行きたいんだな?」

 彼は微笑を浮かべて、首を傾げる。そののんびりとした仕草に、私は焦りを募らせる。

「ミハルに何かしたんですか。あなたはミハルをいじめたことがありますよね?」

 クラブでバイトした時に、龍二さんはやってもいない罪を着せてミハルからお金を取ろうとした。

「ミハルを返してもらいます」

 私は精一杯の力で強く睨みつけたが、龍二さんはそれを穏やかに受け止めた。

「はるかが望むなら」

「私ははるかじゃありません」

 とっさに私が声を荒げると、龍二さんは目を細めた。

「安樹。部活は楽しいか?」

 いきなり何を言うのだろうと、私はむっとしながら返す。

「楽しいですよ」

「美晴はちゃんと勉強しているか?」

「ええ」

「それはよかった」

 龍二さんは満足したように頷く。

「不思議そうだな」

 怪訝そうに見た私の内心を読みとったように、彼は告げる。

「私はお前たちの伯父だ。伯父が、姪や甥の幸せを願うことはおかしいか?」

「そんなこと……」

「信じられないと?」

 一度ミハルに意地悪したと私は言いかけて、口をつぐむ。

「そろそろ着くぞ」

 時間感覚はまるでなかったけれど、車はまもなく止まった。

「美晴のところに案内しよう。おいで」

 龍二さんは先に車から降りて私に手を差し伸べる。私がそれを無視して自分で降りると、彼はしょうがないなというように微笑んだ。

 そこに佇む家を一目見た途端、私は足を止める。

 私の家から大して距離もなかったのだから、ここは都内のはずだ。けれどその家は、ほぼ百八十度屋根が続いていた。

 灯篭の淡い赤茶色の光に照らし出されて、大きな鳥が翼を広げているようだった。戦前からあると確信させるほど古い建物なのに、少しも弱さを感じさせない堅牢な作りだった。

「おかえりなさいませ」

 扉の前に立っていた体格のいい若い男の人が、きっちりと礼をして扉を開く。

 龍二さんは視線も向けずに入っていって玄関を上がる。

「お嬢様。そのままで」

 私が反射的に自分の靴をそろえようとしたら、脇に控えていたやはり若い男の人に制止された。

「連絡はいっているな?」

「はい。誰も近付けさせません」

 この家は若い男の人ばかりなのだろうかと首を傾げると、龍二さんは奥から出てきた壮年の男性に短く指示を出しているところだった。

「こっちだ」

 塵一つ落ちていない長い廊下を、龍二さんは先に歩いて行く。

 左側にはガラス戸の向こうに池とそれを囲むような植木が見えていた。夜だから視界は悪いけれど、遠くに東屋があった。

 私には縁のない立派な日本庭園のはずなのに、微かな既視感を覚える。

 それにしても静かだった。人の声も気配もしない。

 まるでこの家だけが時の流れからも取り残されているような、耳に痛いほどの静寂だけが広がっていた。

「遥花は五歳から十九歳まで、ここで育った」

 果てなく続くような廊下を歩く中で、龍二さんはぽつりと呟いた。

「五歳まではどこに?」

「母親のところに。五歳の時にその母を亡くして、遥花は父親に引き取られた」

 私とミハルも五歳の時に母を亡くした。そしてから祖父の家から日本に移り住んだ。

「見えるか? あちらの離れが、遥花が暮らしていた辺りだ」

 龍二さんは立ち止まって指さす。私もその先を目で追った。

「病弱な子だったから、家の外に出るのは数週間に一度だったな」

 横目で龍二さんの表情をうかがう。彼は穏やかに目を細めていた。

「花を育てるのが好きな子だった。けれど育てることはあまり上手くなくて、すぐに枯らしてしまって。何度、気づかれないよう元気な花を植え替えさせたかわからない」

「そんな手間を」

「花が枯れると遥花は泣いてしまうから」

 思わず言葉を挟んだ私に、龍二さんは口の端を下げた。

「遥花が泣くと、私はどうしていいかわからないから」

 一瞬、龍二さんは途方に暮れたような目をした。ただそれは、本当にまばたきするような瞬間的な出来事だった。

「遥花が笑ってくれると、他などどうでもよく思えた。毎日遥花への贈り物のことばかり考えていた私は、傍から見ればどれほど愚かしかったことだろう」

 優しく微笑んで、龍二さんは私に目を戻した。

「……だが、私は過ちを犯した」

 月明かりだけが頼りだった。

 龍二さんは月を背にしたから、逆光でその表情が見えなくなる。

「十九歳の時。遥花があの男と発つのを、私は何としても止めるべきだった」

「あなたが母さんを大切に思っていてくれたのはわかりました。でも」

 私は目をとがらせて龍二さんを見上げる。

「母さんは幸せそうでした。私はほんの少ししか覚えていませんけど、母さんは笑っていました」

「二十代の若さで命を失っても幸せか」

 私はうつむきながら返す。

「それは……仕方ないです。事故だったんですから」

「事故だと教えられたんだな」

「さ、さっきから何なんですか。父さんが母さんを殺したとでも言うんですか!」

 私はむっとして返したが、次の瞬間凍りつく。

「その通りだ」

 光などほとんどないのに、私ははっきりと目で捉えてしまった。

 底なし沼のように、暗く淀んだ二つの双眸がそこにはあった。

 思わず言葉を失って、私は一歩後ずさる。

 けれど背中を壁にぶつけた。私の顔の横に龍二さんが手をついて、私は身動きができなくなる。

「考えたことはないか? 自分の周りの人間が何かを隠していないかと」

 ひきつるように私の喉が勝手に鳴る。

「レオニードは、アレクセイは、美晴は?」

 私の心の中のもやがざわめきだす。

 なぜ母が亡くなってすぐに、父は私とミハルを日本に連れてきたのか。お墓参りに行きたいと言ってもアレクが断固として許さないのか。そういうときなぜミハルは黙っているのか。

 今まで大したことがないと思っていた疑問が、にわかにふくれあがってくる。

「それでも私の家族です!」

 私は必死に言葉を紡ぐ。龍二さんの目を見ることもできないままに。

「ミハルを返してください!」

「はるか、あの男は駄目だ」

 龍二さんは語気を強めた。

「あの男ははるかを殺す。今すぐに離れるんだ」

 怖いほど真剣な声に、私は震える。

 この人の中では、お母さんと私、お父さんとミハルが混じっている。

「いい子だから兄の言うことを聞くんだ。他は何でもはるかの言う通りにするから」

 狂気じみた言葉が怖くてたまらなかった。だけどそれ以上に胸が痛かった。

「頼むから、二度も俺を置いていかないでくれ……!」

 ……この人は心から母のことが好きだったのだと痛いほどわかったから。

 こんな大きな家に住んで、地位もお金も何もかも持っているはずの人だ。けれど今目の前にいるのは、たったひとつしかない大切な宝物を失って途方にくれている少年みたいだった。

 私の頬に手が触れた。私はびくりと肩を震わせる。

「過ちは繰り返さない」

 顔を上向かせられて、私は龍二さんの目と向き合うことになる。

「はるかに嫌われても、一生許されなくとも。お前を守るためには、手段は選ばない」

 再び見た龍二さんの目は、私を飲みこむほどに暗く光っていた。

「安樹、帰ってこい。でなければ」

 私の心臓が跳ねた。

「でなければ、美晴を……」

「……それ以上言うな!」

 低く告げようとした龍二さんの声を、誰かの声が遮った。

 息を切らして駆けてきたのは竜之介だった。

「俺が安樹と結婚して、美晴は余所で暮らす。そうするように俺が説得する。だから誰も傷つけるな!」

 見たこともないほど必死な様子で、竜之介は龍二さんに食いつく。

 龍二さんはふと笑って言った。

「お前にしては遅い。まだ休んでいなかったのか?」

「親父こそ仕事で疲れてるだろう。安樹は俺が送っていくから」

「本当によく出来た息子だな、お前は」

 龍二さんは微笑みながら、私の頬から手を離す。

 竜之介から見えない角度で、龍二さんが私の後ろポケットに何か入れた気配を感じた。

「美晴。今日は帰るといい」

 いつの間にか竜之介の後ろにミハルが立っていた。

 私はようやく自分の片割れに会えたことに安堵したのに、どうしてかミハルは私から目を逸らした。

「ミハル?」

 いつもなら人前でだって抱きついて笑顔を見せてくれるのに、ミハルは私に近付くことすら戸惑っているようだった。

「二人とも、こっちだ」

 竜之介が私とミハルを見やって声をかける。

「ああ。ミハル、行こう?」

 ミハルは小さく頷いて、ふらりと竜之介の後を追った。

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