後編<アレクセイ>8

 あの日、安樹の世界には大きな変化があった。

「ねえ、あれく。あすね、わかったの」

 誘拐されて戻って来た後、安樹はアレクの前に立って言った。

「おかあさん、もうかえってこないんだ。しんじゃったんだ」

 俺は父の側でそれを聞いていた。

 まだ幼くて母の死を受け入れていなかった安樹に、俺は母が「旅行」であると言い聞かせておいたはずだった。

「それでね、あれくがきたわけもわかったの」

 だけど安樹はあまりに静かに話すから、俺は言葉を挟むきっかけを失った。

「おかあさんがかえってこないから、あれくがおかあさんになってくれたんだね」

 アレクは黙って安樹の言葉に耳を傾けている。肯定することも否定することもなく、ただ彼女を見つめていた。

「でね、あれく」

 ぎゅっとアレクの服を掴んで、安樹は大きな目でアレクの青い目を覗き込んだ。

「あすね、あれくすき。あれくがいるとうれしいの。あれくがね、あすとみはるにおうちをつくってくれたもん」

 アレクの瞳に動揺が映った。それは初めて会った時から仮面を被っているように冷静な彼しか知らない俺にとっては、如実な変化だった。

「……ボスの命令ですから」

「おとうさんのおねがいをきいてくれるなら、あすのおねがいもきいて」

 幼く、強引で、けれど純粋なお願いを安樹は口にする。

「あすとみはるのおかあさんになって。あれく」

 アレクの細い目が丸くなる。

「あれくのぼるしち、おいしいの。あれくおそうじじょうずなの。ねるまえのおはなし、もっとききたいの」

 指を立てて一生懸命、安樹はアレクのいいところを挙げる。

「んと……あれくはあすとみはる、きらい?」

「そういうわけでは」

「いっしょにいるの、いや?」

「いいえ……」

 答えるアレクの声は掠れていた。動揺を通り越して、彼は少し呆然としているようだった。

「じゃあね、あす、がんばる。あれくのおうちもここにしよう?」

 だめ?と、安樹はアレクをぐいぐいと引っ張った。

「きっと、あすとみはるのこと、すきになるから。おかあさんになって」

 アレクは目を伏せて、考えるというより心の深いところに落ちたようだった。

 彼は目を上げて、父に振り向いて告げる。

「……機会を、与えてもらえませんか」

「お前が命令に食い下がったのは初めてだな」

 父も少し掠れた声で言うと、アレクははいと頷く。

「初めてなんです。母になってほしいと言われたのは」

 たぶん一生言われないだろう言葉に、アレクは一つの答えを返す。

「そして、自分自身、この子の母親になってみたいと思ったのは……」

 安樹がぱっと顔を明るくしてアレクの胸に飛び込む。

 それを受け止めて小さく微笑んだアレクは、確かに今までとは全く違った、人間らしい、少し照れたような男の顔だった。







 帰宅する頃には十二時を回っていた。

 もう眠っている頃だろうと安樹の部屋を覗いたらそこに彼女の姿はなく、俺は嫌な予感がしながらリビングに戻る。

「ミハイル。こっちこっち」

 父が口元に指をやりながら俺を手招きして、アレクの部屋に連れて行った。

 部屋に入ったら、アレクがベッドの上に腰掛けて本を読んでいた。俺と目が合うと、彼も手で合図を送る。

「やっぱりねー。エンジェル、今日はここで寝ると思ってたんだよね」

 そんなアレクの横には、ブランケットに包まってアレクの膝に頬を押し当てながら眠っている安樹の姿があった。

 ひそひそ声で話す父に、アレクも声を落として応じる。

「昼間は緊張していたんでしょうが、やはり怖かったんでしょう」

 銃を持った男が押し入ってきたら、安樹だって当然怖い。それは仕方ないが、問題は安樹がここにいることだ。

「俺のところで寝ればいいのに」

 俺はぼそりと呟いた。父は意地悪く笑う。

「アレクに甘えたいんだよ。エンジェルは昔からそうだった」

 安樹は俺が寂しがるふりをすれば必ず一緒に寝てくれたが、自分が寂しい時はアレクの所にいく。俺は守らなければならない弟であって、守ってくれる母だとは思っていないから。

 俺は安樹の髪を梳いているアレクを見やりながら思う。

 俺にとっての最大の敵は伯父でも父でも、もちろん竜之介などではなく……この髪の薄くなってきた、頼りなさげで血のつながりすらない男なのだ。

「運ぶよ。このまま寝かせとくわけにもいかないだろ」

「ここでいいですよ。私はソファーで寝ますから」

「お前がよくても安樹がよくないんだよ」

 むっとして俺が言うと、アレクは微笑んだ。

「別に何もしませんよ。私は「お母さん」ですからね」

 五歳の時から十余年経ち、アレクは目に見えて安樹への愛おしさを募らせていった。ちょうど父が母を繰り返し想っているように、アレクも安樹のことを好きになっていったのを俺は感じ取っていた。

「とにかく、安樹は俺のところで寝るんだよ」

 だから、負けられないのだ。

 俺が全部ひっくるめて一番になってみせるのだから。いつか、俺になら絶対に守ってもらえると思って安樹が甘えてくるように。

「負けないよ。俺に恋させてみせるから。安樹」

 眠る安樹にささやいて、俺は起こさないようにそっと安樹を抱き上げた。

 明日の朝に安樹が驚く顔を想像して、彼女の頬に自分の頬を寄せた。

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